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No.2:カイリ「実験は始まった」

【6月11日 15:30・ロイヤルスイート】 船内に向け「開会の挨拶」を配信したのち、11階にある華美なロイヤルスイートルームへ戻る。 私のすぐ後ろを歩いていた秘書の松木ユウシが、ドアを閉めるなり、苦言を呈してきた。 「カイリ様、本当に実行に移すおつもりですか?今ならまだ、中止することも可能です」 「は?もう始まっているだろ。シャンパンだって振る舞われたはずだ」 「シャンパンに混入したハーブ程度では、効果は微々たるもの。今夜中に何か変化が起きることはないはずです。ですから、やめるならば今なのです。どうか賢明なご判断を」 有能な秘書ユウシは、財団の代表である私に意見してくれる貴重な存在だ。 しかし、これは考え抜いて決めたこと。 ユウシに何を言われようと、船は港を離れ大海原へと出たのだ。 (ユウシだって、もう後戻りはできないと十分承知しているくせに。私はあの匂いに囚われている。もう15年も経ったのに、忘れるどころかより強く渇望してしまう、ジャスミンの花のようなむせ返る匂いを……) ユウシは私に聞こえるよう白々しい嫌味な溜め息をつき、「では、改めて確認をいたします」と手元のタブレットを操った。 「セミナーに参加する乗船者は予定通り、1000名。アルファではない、20代から30代の男性のみが集まっております」 (1000名。この中から、私の心の中に住みついて離れないあの匂いに、最も近しい香りを放つ者を選び出し、私のものにする) 「また、彼らへのセミナー講師となるべき人間も、精鋭揃いの優秀なメンバーを揃えております。乗客の98%は、ただただこの船で、異業種交流や勉強会を行い、ビジネスの足掛かりやヒントを得て、有意義な時間を過ごすでしょう」 「だろうな。それで、残りの2%に症状が現れるのは、いつ頃だ」 「そちらはコック長と船医から説明させます」 ちょうど見計らったようなタイミングで、部屋をノックする音が聞こえる。 ユウシがドアを開け、二人を招き入れた。 — 第二の性とされるオメガバースは、古くは、あらゆる面で秀でたアルファと、平凡なベータ、そしてアルファを夢中にさせる強い匂いを持つオメガで構成されていた。 しかし現代社会では、世界中の水道水および飲料水に、オメガ抑制剤が混入されているのが常識だ。 これは先人たちが編み出した、秩序を保つための防衛であり、公共マナー。 よって、全体の5%のアルファと、それ以外という区別のみが行われている。 出生時の診断でアルファと判明した者は、身分証明書にも記載の上、優遇される。 しかし全体の2%存在するというオメガは、自分がオメガであることを知らぬまま生き、知らぬまま死んでいくのだ。 「ごく普通の日常生活を送る中で自然と摂取していた抑制剤が、この船の中には存在しません。よって、オメガは徐々に彼ら特有の匂いを発するようになるでしょう。明日の夜にはごく僅かに、そして徐々に強くなっていくはず。しかし、その匂いを嗅ぎ取れるのは、アルファのみです」 この場にいる皆はすでに周知していることだったが、船医は今一度確認するように、そう告げた。 「現在この船に乗船しているアルファは、乗組員、講師を含め、カイリ様お一人です。これに関しては、リストを精査いたしましたので間違いありません。つまり、誰が匂いを放っているのか、嗅ぎ分け、選別できるのは、貴方様だけでございます」 船医の言葉を受け、コック長が付け加えるように話しだす。 「船内にて提供する食事、飲料には、オメガのヒートを誘発する効果があるとされるハーブを、少しずつ添加させていきます。そちらが最大の効果を発揮するのは、出航から6日目でしょう」 「そのハーブは、オメガ以外が口にしても、何の影響も及ぼさないのだな?」 私は念を押す。 ギリギリアウトな違法行為だとは承知の上だが、体調不良者を出すなど、騒ぎになるような真似はしたくない。 「ええ、もちろん。多少味覚が鋭い者が、甘みを感じるかもしれませんが、ほとんどの者は気付きません。健康被害も、全く無いと言えるでしょう」 「承知した。では万事、当初の予定通り進めてほしい。くれぐれも、この件は他言無用で頼む」 彼らを持ち場へと帰し、私は一人、バルコニーへ出た。 泣き出す寸前のように曇っていた空から、ポツポツと雨が降り出し、潮の香りと雨の匂いが入り混じっている。 梅雨時らしい湿った空気が私に纏わりつくが、探し求めているあの匂いに近しいものは、まだどこからも漂ってこない……。 (今回の航行で、オメガを炙り出す実験は成功するだろう。しかし、オメガの匂いにどれだけの個体差があるのかは、未知数だ。早く、少しでも早く、あの匂いと巡り合わなくては。この焦燥感に耐えられなくなる前に……) 横浜から鹿児島まで航行し、その後、日本海側を通り、津軽海峡を抜け、また横浜へと戻ってくる。 どこにも寄港しない6泊7日豪華客船の旅。 再び陸地を踏むとき、私は何を得ているのだろうか。

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