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No.17:カイリ「15年前の白い雪と赤い血」

【6月15日 04:30・バルコニー】 また薄暗い早朝に目が覚め、ミネラルウォーターのペットボトルを持って、バルコニーへ出た。 サンデリアナ号に乗って今日で五日目。 船は日本海を北上しており肌寒いが、ずっと降っていた雨は止んでいる。 もうすぐ雲の隙間から太陽が昇るところが、見えるかもしれない。 (多くの人を巻き込み、私は一体何をしているのだろう。いや、弱気になっている場合ではない。成果を出さなければ……) 一旦室内に戻り、ひざ掛けを取ってくる。 そして、バルコニーに置かれたリクライニングチェアに腰掛けた私は、ぼんやりと揺れる海面を見ながら、15年前の鉄橋崩落事故のことを思い出していた。 — あの寒い冬の日。 私は運転手の運転する車に、父と母と三人で乗っていた。 17歳になって、父が出向く先に時々帯同しては、城井財閥の後継者であると認知を広めようとし始めた頃だった。 出先から東京へと戻る途中で、初めは大きな地震に遭遇したのだと思った。 最初の衝撃は覚えているが、そこから数分の記憶はない。 意識を失ってしまったのだろう。 気が付いたときには、どちらが上か下かも瞬時には分からないひしゃげた車の中で、誰のものかも分からない血に塗れていた。 あの頃の私は、自分が生きているという実感が乏しい少年だった。 日々の不満もないが、喜びもない、心が大きく動かない、虚無の中に住んでいた。 だから「そうか、ここで死ぬのか」と、この状況をすぐに受け入れようとする。 父の血の匂い、母の血の匂い、運転手の血の匂い、そして自分の背中から流れ出る血の匂い。 再び意識が遠のきそうになったとき、それら均一な血の匂いの中に、今まで嗅いだことのない匂いが漂ってきた。 知っている匂いに例えるならば、毎年ゴールデンウィークの頃になると屋敷の庭に咲き誇る、ジャスミンの花のようなむせ返る匂いが最も近いだろう。 でもそれは、庭の花のような鼻孔に訴える類のものではない。 もっと別次元で、私自身の心を、魂を揺さぶる匂いだった。 行かなくては。 そう思った。 この匂いのところに、行かなくては。 自分はそのために、17年間生きてきたのだ、とすら思った。 潰れた車から這い出て、重なり合うように崩落している鉄柱の隙間を抜け、匍匐前進のようにして、匂いの元へ進んでいく。 真っ白な雪の上に、たくさんの血が落ちていた。 自分の背中に負った傷だって、動くことで開くかもしれない。 でも、怖くなんてなかった。 使命があったから。 雪の上を這って、這って、車から投げ出され倒れている一人の少年に辿り着いた。 太腿に大きな怪我を追っているようだが、意識はあるようだ。 少年の周りには、あのジャスミンの花の匂いが充満している。 私は少年を抱きしめ、手を握った。 「大丈夫、大丈夫だよ。俺が一緒にいるから。こうしてずっと手を繋いでいてあげるから」 少年は寒さに震えながらコクリと頷いた。 冷たく生気がなかった少年の身体は、徐々に温まってゆく。 彼の心音が安定を取り戻し、トクトクと一定のリズムで動いているのが分かり、私は生きる希望を感じていた。 天候は悪化し、救助が到着するのに随分と時間が掛かった。 それでも、到着した救急車に乗り込むとき、少年は私に向かって「ありがとう」と口を動かしてくれた。 なのに、なのに。 少年は搬送先の病院で亡くなったと聞かされた。 (どうして、どうして、どうして……。財閥の御曹司などと持て囃されたところで、私ではあの子を助けてやることができなかった……。あまりに無力だ) 絶望したけれど、私の心は少年の匂いによって、もう虚無の世界から外へ出たあとだったから、生き続けるしかなかった。 周りの人々は、私が両親を亡くし、悲しんでいると思ったのだろう。 さらに、生存者が一人だけだったということで、奇跡かのようにマスコミに祀り上げられてしまった。 私はその後、こっそりと書物を漁り、あの匂いが大出血により漏れ出たオメガのフェロモンだったと知ることになる。 生きていれば27歳になっているだろうあの子を抱きしめることができないのならば、せめてあの匂いを再び嗅ぎたい。 こうして一人でぼんやりと過ごすときなど、強く強くその欲望に駆られてしまう。 その思いが、こんな大がかりに豪華客船を使ってオメガを炙りだし、最も匂いの近い者を探し出そうと行動に移すほどに、膨れ上がった狂気となったのだ。 — 昨晩の食事会で多めに混入されたハーブにより、オメガ21名の匂いの段階がひとつ上がったものの、交じり合って凡庸な匂いになってしまっていた。 ジャスミンの匂いは微かに混じっているような、いないような、判然としない。 オメガといえども、大きな怪我をするか、ヒートが起こるかしないと、あぁいった匂いが香らないものなのか……。 それとも、そもそも近しい匂いを持つ者が21名の中にはいないのか……。 (この世であの少年だけが持つ、尊い匂いだった可能性もある) そろそろ、蓄積されたハーブの効果でヒートを起こす者が現れ始めるだろう。 今日と明日は面談と称し、個別に部屋を訪問し一人一人の匂いを嗅ぎ分けていくという段階に移行する。 ただ、気をつけなければいけない、と自分に言い聞かせる。 オメガなら誰でもいい訳ではないのだ。 あのジャスミンの花の匂いに近しい者を探し出す。 この目的を忘れ、無関係なオメガの匂いに当てられ欲情することがないように、強く自分を律しなければならない。

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