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補足編 野良猫は、まだ檻を知らない

 ある日、両親が夕食の席で唐突に告げた。 「郁杜、あなたにお兄ちゃんができるわよ」  事情を聞けば、眞壁本家の当主の意向に背き、家を追い出された親類が一人、葉山家に身を寄せることになったという。  きっと、理不尽な境遇に打ちひしがれた、陰鬱で悲観的な男がやってくるのだろう。十八歳の郁杜は、漠然とそんな予想を立てていた。  けれど、数日後に父に連れられて現れたその男は、郁杜の予想を鮮やかに裏切った。  一言で言うなら、彼は「光」そのものだった。しなやかな体を凛と伸ばし、猫のように大きな瞳を爛々と輝かせている。  眞壁路央。二十歳そこそこのその青年は、丁寧に挨拶を済ませると、リビングのソファに招かれるなり、前触れもなくノートPCを開いた。 「お世話になるにあたって、私という人間を知っていただきたくて」  そう言って家族全員に配られたのは、丁寧に製本された紙の束。始まったのは、前代未聞の『眞壁路央に関するプレゼン』だった。  これまでの経歴、特技、大学での専攻。己の人柄や弱点、将来の展望から性的指向まで赤裸々に。やたらと見やすいスライドを駆使し、彼は自分という商品を巧みな言葉で売り込んでいく。  理路整然とした説明を、研究者気質である父母は、かつてないほど鋭い眼光で聞き入っていた。最後の質疑応答では、父が「素人質問で恐縮だが」と鋭く切り込んだが、路央はそれさえも果敢に、かつ論理的に打ち返してみせた。  一通りの儀式が終わる頃には、葉山家(主に夫妻)は完全に陥落していた。満場一致で、路央の入居が決まったのだ。  共に暮らし始めて気づいたのは、彼がとんでもなく「いい奴」だということだ。  捻くれたところなど微塵もなく、竹を割ったようにさっぱりとした性格。それでいて困った人間を放っておけない情の深さがあり、周囲には常に人が集まっていた。  その堂々とした振る舞いからは、「ゲイだとバレて家を追われた、可哀想な青年」という悲壮感など、欠片も読み取れなかった。  ◇  ある夜。学校の課題で行き詰まった郁杜が、路央の部屋を訪ねた。  路央はちょうど電話の最中だった。受話口の向こうからは、楽しそうな男の声が漏れている。少し待つとすぐに通話は終わり、路央は郁杜を手招いて隣に座らせた。  しばらくの間、静かな解説の声と、ペンが紙を走る音だけが室内を満たした。郁杜は次の設問を考えるふりをしながら、横目でこっそりと隣の様子を窺う。  卓上灯の光に照らされた路央の横顔は、なだらかな頬も大きな瞳も、まるで自ら発光しているかのように白く、美しく見えた。  気づいた時には、抑え込んでいた問いがぽつりと唇から零れ落ちていた。 「路央くんって……ゲイなんでしょ」  路央は少しだけ目を丸くすると、いたずらっ子のような無邪気な笑みを浮かべた。 「そうだよ。気になる?」  郁杜が素直に頷くと、路央は「恋バナだ」と弾んだ声を上げ、語り始めた。  祖母に脅迫され、好きでもない男と形だけの恋人になったこと。その男が唯一無二と定めた相手に、場違いな恋情を抱いてしまったこと。そして、その星屑のように煌めく初恋が、成就することは一生ないのだということ。  淡々と、どこか他人事のように語られるその独白は、郁杜にまるで美しくも残酷な映画を見ているような感覚を抱かせた。  白い横顔にはいつもの明るい微笑が張り付いていたが、郁杜はその奥にある「本当の顔」を、暴きたくて仕方がなくなった。  数日後。帰宅した郁杜は、リビングで寛いでいた路央に告げた。 「俺、路央くんの大学に編入することにした」  路央は、持っていた本を落とさんばかりに驚愕した。  郁杜は高専生で、毎学期優秀な成績を収めている。本来なら、地方の専門的な大学にも編入できるはずだ。 「お前の経歴なら、もっと専門の研究機関がある大学に行けるだろ?」 「もう、父さんと母さんも納得済みだから」  郁杜が淡々と返すと、路央は納得いかない様子で首を傾げたが、それ以上追及してくることはなかった。  郁杜は路央の隣にどすんと腰を下ろした。路央は「お祝いだ」とでも言うように、傍に置いていたキャンディチーズを当たり前のような仕草で郁杜の口に押し当ててくる。  郁杜は抵抗せず、その指先ごとチーズを食らった。ついでに、しっとりとした指先を舌でひと撫でしてやると、路央の肩がピクリと震えた。けれど、彼はやはり何も言ってはこなかった。  あまりに人を疑うことを知らない、無垢な猫。  その猫が、狼の腕の中で安らかに喉を鳴らすようになるまで――そう時間はかからなかったのである。

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