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小話1 無垢の渓(たに)
冷たい空気が頬を刺す年末、実家の最寄り駅に降り立った瞬間、体の力が抜けた気がした。
渓都 は現在、野球の強豪校に通う高校一年生だ。下宿生活で泥にまみれる日々を送る彼にとって、数ヶ月ぶりの帰省は、何よりも楽しみな休息だった。
家には二人の兄がいる。
実の兄である郁杜と、二年前から事情あって同居している遠縁の親戚、路央。
渓都は、無愛想でデカいだけの郁杜よりも、路央のことが大好きだった。
路央は渓都に優しい。勉強を教えるのが上手いし、背泳ぎやバタフライが泳げる。それに、都会の大学生らしい垢抜けた空気を持っていて、渓都にとってはずっと憧れの存在なのだ。
けれど、この年末。久しぶりに会った二人の様子は、どこか奇妙だった。
リビングで宿題を教えてもらっていても、郁杜が後ろに座っているだけで、路央の肩がかすかに強張る。
みんなで映画を見ている時、ふとした拍子に二人の膝が触れる。
それだけならまだしも、目が合った瞬間に郁杜の目尻がふっと緩むその温度が、渓都の知る「兄貴」のそれとは決定的に違っていた。
「なんか、二人距離近くない?」
無意識に漏らした言葉は、映画から流れる悲鳴に消された。
野球漬けの渓都には、その違和感の正体が「独占欲」という名の生々しい熱であることまでは、まだ分からない。ただ、慣れ親しんだリビングの空気に、自分だけが立ち入れない「二人だけの空気」があるような気がして、なんとなく落ち着かなかった。
◇
年越しの瞬間は、当然、三人でカウントダウンをすると思っていたのに、二人は「友人の家に行く」と言って出て行ってしまった。
結局、渓都は両親と並んで蕎麦をすすり、だらだらと年末特番を見る羽目になった。
とっくに新年を迎えた深夜。両親も寝静まり、音楽番組のボリュームを絞って画面を眺めていた時、玄関が開く音がした。
帰ってきたのは、郁杜と路央だ。
けれど、路央は足元がおぼつかないほど泥酔しており、郁杜の太い腕に抱えられるようにしてリビングに入ってきた。
「え。路央くん、大丈夫?」
心配で駆け寄るが、郁杜は路央の上着を鮮やかな手つきで脱がせながら、短く「大丈夫」と答えるだけだ。
郁杜は甲斐甲斐しく路央に水を飲ませ、その背中を大きな掌でさすっている。心配した渓都が意味もなく後ろをついて回っていると、郁杜はそのまま路央を風呂場へと連れて行った。
脱衣所で路央のシャツを脱がせようとする兄の手を見て、渓都は反射的に手を伸ばした。
「おれも手伝おうか?」
その瞬間。郁杜の大きな手が、渓都の手首を遮るように掴んだ。
「渓都、おまえもう寝ろよ」
「でも、路央くんべろべろだし……」
郁杜が、渓都の目をじっと見た。
それは一瞬のことだったが、兄の瞳の奥には、底が知れない、悍ましくも熱い何かが湛えられていた気がした。
「今すぐ、寝ろ」
きっぱりと言い放たれると同時、目の前でパタンと脱衣所の扉が閉まった。
カチリ、と鍵の掛かる音がした気がして、渓都は呆然と立ち尽くした。
結局、気になってしまって様子を伺っていたが、風呂から出た二人は、連れ立って一階の郁杜の部屋へと消えていった。
「みんなで寝るなら、おれも混ざりたかったのに」
あの二人、あんなに仲良かったっけ。
湧き上がった疑問も、睡魔には勝てない。渓都は大きな欠伸と共に、不可解な胸のざわつきを無理やり眠りの底へ押し込んだ。
◇
元旦。
昨夜の寂しさを取り返すように、渓都が騒ぎ倒して実現した三人での初詣。
地元の大きな神社は、参拝客で溢れかえっていた。数十分並び、ようやく自分たちの番が回ってくる。
(甲子園優勝、甲子園優勝、絶対甲子園優勝!!)
渓都が必死に手を合わせ、神に懇願している横で、大人二人は早々に参拝を終えていた。列を抜け、出店の甘酒を手に取っている。
「路央くん、口に粒がついてるよ」
「まじで?取ってよ」
郁杜の指が、路央の上唇に触れた。
その指先の動きは、赤ん坊か、壊れやすい可憐な花にでも触れるような繊細さだった。野球部時代に鍛え上げた、あのごつい兄の所作とは思えないほど、優しく、そして――吸い付くような、妙に色っぽいものだった。
路央が大きな目を開き、郁杜と視線を絡ませる。
二人の間に、目に見えないほど細くて濃い感情が、熾火のように揺らめいた気がした。渓都はその表情の正体を読み取ることができない。ただ、甘酒の甘ったるい匂いが、鼻をつんと刺した。
帰宅し、玄関のドアを開ける直前。郁杜が足を止めて言った。
「じゃ、俺たち行くから」
「え? 今日は家にいるんじゃなかったの?」
驚いて聞き返すと、路央まで「えっ」という顔をしている。けれど、路央の耳たぶが、みるみるうちに赤く染まっていくのを渓都は見逃さなかった。
「用事ができた。明日には帰るから」
郁杜は淡々と告げると、路央の腕を引いて、再び歩き出した。
あんなに路央を世話し、片時も離そうとしない郁杜の様子。まるで、番を守る狼のような――。
一人残された玄関先。
「大人って自由でいいなあ」
そう呟きつつも、渓都の胸には、名付けようのないわずかな引っ掛かりが残っていた。
――まあ、いいか。
渓都は頭を振って余計な思考を追い出すと、中学時代の友人に遊びの連絡を入れるため、スマホを取り出したのだった。
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