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小話2 ミティとギャル
路央は、終わりの見えないデスゲームに身を投じていた。
この研究室に籠もり、何度太陽が昇り沈むのを見送ったか、もはや判然としない。デスクの並んだ室内には、徹夜明け特有の饐えた匂いが充満している。床には、精魂尽き果てた同輩や先輩たちの屍が転がっていた。
路央もまた、今にも意識を三千世界へ飛ばそうとしていたその時、スマホの通知音が控えめに鳴った。
そして画面に映る名前を見た瞬間、神からの天啓を得たような顔をして、椅子を蹴って部屋を飛び出した。
研究棟の入り口、初春のひんやりとした空気の中に郁杜は立っていた。
相変わらずフィクションのような長躯と、等身。道行く学生たちが、驚いた顔で振り返る。
郁杜は気配に気づいたように顔を上げ、路央を見つけて笑った。
「路央くん」
声を上げ、少年のような瑞々しい顔を優しく緩めて近づいてくる。
久々に見る郁杜の姿に、路央は思わずドギマギしてしまった。
路央が研究室に引きこもっている間に、どうやら季節が移ろっていたらしい。郁杜は髪を少し短く切り、厚い上着を脱ぎ捨てて、爽やかなカーディガンを羽織っていた。おそらく羽瑠矢からのお下がりだろう。広告のモデルのように完璧に着こなすその姿は、あまりにも眩しかった。
「路央くん、これ着替え。あと、チンして食べられる惣菜がいくつか入ってるから」
郁杜が差し出した袋を受け取りながら、路央はその様子を矯めつ眇めつ観察される。
「路央くん痩せた?顔色がひどいよ。ちゃんと寝てるの?ご飯食べてる?」
心配性の質問責めに、路央は頭が回らず「ああ」「うう」と言葉にならない声を返すのが精一杯だった。
よほど切羽詰まっていると感じたのか、郁杜がそっと手を伸ばした。
「……隈が濃いね」
伸ばされた指先が、目の下の薄い皮膚をなぞる。ただそれだけの触れ合いなのに、身体の芯まで触れられたような錯覚に陥り、路央は背筋を泡立たせた。
郁杜は路央の密かな反応も見逃すまいと、じっと見つめてくる。
路央は知っている。この漫画から飛び出してきたような風体の大男が、どんな瞳で自分を見つめ、どんなふうに肌に触れるのか。
瞬時に、彼の匂いや汗の味までもがまざまざと蘇り、路央の顔は爆発したように赤くなった。
郁杜はそんな路央の様子から全てを察したようにふっと笑うと、耳元に顔を寄せ、低く、熱い吐息と共に囁いた。
「早く、帰ってきて。……触り足りない」
顔を離した郁杜は、茹で上がった路央の顔を見て大きな笑い声を一つ上げると、ひらりと手を振って去っていった。
路央は、遠ざかる大きな背中を見送りながら、そんなにおかしな顔をしていただろうかと首を傾げた。
着替えを持って研究棟の廊下を歩いていると、突然、背後から腕を掴まれ連行された。
自販機前のベンチに無理やり座らされると、目の前に鋭い影が差す。
「ミティ!一体どういうこと!?あたし聞いてないんだけど!」
この薄情者!と罵ってきたのは、同期の女子だ。
同じくデスゲームの真っ只中にある彼女は、いつも艶やかに巻いている髪を頭のてっぺんでお団子にしている。フルメイクよりも、すっぴんの方が睨んだ時の攻撃力が高いのだと、路央はその時初めて知った。
「ごめん、何の話?」
「さっきの大きい男の子!カレシでしょ!あたし、わかるんだからね!!」
傍から見れば修羅場のような剣幕に、路央は必死に弁明を試みる。
「いや、違うんだよ、彼氏っていうか……」
「でもやることやってるんでしょ!」
路央は速攻で言い返せなくなり、もごもごしながら黙り込んだ。
彼女は路央の焦った様子を見て、「冗談だよ」と笑いながら隣に腰掛けた。
「それで、煮え切らないその態度はなにゆえ?」
追求の手を緩める気はないらしい。路央は観念し、目の前のギャルに洗いざらいを打ち明けた。
自分の気持ちを確かめる前に、なし崩し的に始まってしまった関係。けれどその関係性が、思いのほか心地良くて、泥沼にはまったように抜け出せなくなってしまったこと。
「多分、郁杜は俺のことを大切に想ってくれてると思う。でもさ、あいつ元々ストレートだと思うし、やっぱ違うなとか、思われたら……俺、もう立ち直れないよ」
俯き、辿々しく話す路央。彼女は黙って聞いていたが、やおら口を開くとはっきり告げた。
「ミティ。今、相手にすごく失礼なこと言ってるって、気づいてる?」
路央が顔を上げると、彼女は真摯な瞳で射抜いてきた。
「そりゃあ、与えられてばかりの関係なんて、すぐ終わりが来るよ。でも、そうじゃないんでしょ。想い合って与え合って、大事に育てた気持ちなんでしょ?」
彼女は癖で髪をいじろうとして、団子にしていることを思い出したのか、指先を空振りさせた。路央はその動きを黙って見つめていた。
「流れに身を任せているだけじゃ、他人同士が一緒にいるなんてできない。たくさん話して、触れて、常に関係性をアップデートしていかなきゃいけないの。男とか女とか、関係なく。ミティはそれをできる?したいと、思える?」
路央は郁杜のことを考えた。
彼が大切だ。できればこれからも、ずっと一緒にいたい。彼の笑顔を、一番近くで見られるのが自分であればいいと思う。
「……うん。できるかわからないけど、そうしたいと思うよ」
路央の素直な言葉に、彼女は満足そうに微笑んだ。「ミティは大丈夫だよ」と、太鼓判を押すように。
「あー、いいなあ。聞いてよミティ!あたしのカレシなんてさ、パチスロと女ばっかりでいつも金ないの。あたしだって仕送り生活でひもじいのに」
「例のクズ男くんとまだ続いてたんだ?」
「だってね、顔とエッチが良いんだもんっ」
路央は「救いようがないな」と言って、今日初めて心から笑った。
すっかり霧が晴れたような気分で、彼女の愚痴を聞き流しながら、手元のスマホでメッセージを送る。
『明日帰るね』
関係性を維持するための、努力。
生まれも育ちも違う二人が、隣に居続けるために必要なこと。
それらの一つ一つを、郁杜と手を取り合い、時には言い合いながら、大切に、大切に育んでいきたいと願った。
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