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第9話 上野

 ヂーフェイのことがあってから数日、愁一は上野が来るのを待っていた。  上野自身が中国共産党に目をつけられていることが判った以上、この店には来ないように言わないとならない。  店も迷惑だし、何しろ上野の命にも関わってくる。  しかし、上野のこととなるとなんでそこまで気を遣ってしまうかなとふと思考が止まった。  時々くる海軍の将校『上野』とは、開業して間もなくが出会いだった。  偉い人には珍しくない男の趣味も相まって、紹介されてきたと言ってやってきたのを覚えている。  それから上海にいるときは週に2回はきてくれる常連客になり、今ではお気に入りの娼妓までできた。  上野の飄々とした感じが愁一の性に合ったのか、それとも自分に流れている多少の日本人の血が呼応したのか、上野が店にやってきては話をしているうちに次第に懇意となってゆき、今では兄のように思えている。  だから心配にもなるんだなとは思っていた。  因みに、愁一は開業した19の終わりに中国国籍を取得し、日本国憲法により日本国籍は喪失となっている。  念願だった店という『居場所』を手に入れた時『もう安心だ。何もいらない』と思うと自分でも思っていた。  が、まだ何かが足りない気がずっとしている。  それは『居場所』のように明確ではなく、ずっとずっと腹の中でぐるぐるしていてもどかしくさえあった。  その腹の中のぐるぐるは、上野と会っている時は不思議と和らいだ。  それもあってか、上野と縁が遠のくことは愁一の中で在るべきものがなくなってしまうようなそんな感じがして、一抹の寂しさは隠せない。 『そんな大袈裟なことか?』とも思ってはみるが、いずれそれを思い知らされることになるとは、この時考えもつかなかった。  ともかく上野の安全を考え『どうせならもう来なきゃいいのにな』という自虐なことまで思いながら、以前自分が書いた上海礼賛記事の載った小冊子を手に取り眺めていた。    そしてまた10日が経ち、11月の1日になった。  毎日店の前や裏やどこかしらから誰かが監視しているような日を過ごしているが、上野は一向に現れない。  窓から通りを見るとただでさえ寒い11月の夕刻に、人足を装った男が薄物だけを羽織ったふんどし一丁でタバコを吸っている。  日本人風に見せているが中国人だ。 「ご苦労さんだよな」  多分共産党軍に雇われて上野が来たら知らせろと言われている見張りなのだろう。  まあ上野含め日本軍も馬鹿ではないだろうし、まして上野はまだ推測だが特務の人間らしいから、そういうところの警戒は早いはずだ。  この店でのヂーフェイの事(トラブル)を知っているかは知らないが、自分が狙われていることはきっと気づいているだろう。 「ま、普通はね…」  そう納得して、新たな依頼の原稿に取り組んだ。   暫く集中していると、頭を冷やそうと開けていた窓から何かが飛び込んでくる。 「ん?」  畳に落ちたものを見てみると、飴のように包まれたチョコレートだ。  まあこんな洒落たものを持っているのは多分…  窓から下を眺めると、中山服(ちゅうざんふく)を着て髭を蓄えた老人が()の入った店先で杖を振って笑っていた。  すぐに上野だと気づいたが、見張りの人足がすぐそばにいるので咄嗟に 「劉さんじゃないですか!なんすかこれびっくりしますよ。入ってくればいいのに」  と笑って声をかけ、店に招き入れた。  女将たちは一見の客と思って接待するだろうから、まず娼妓を選ぶ部屋に招くだろう。愁一はそこへと降りていく。  客のプライバシーを守るためにそこには窓がない、うってつけだ。 「上野さん大胆すぎるでしょう、びっくりしますよ」 「愁一くんが驚いてくれるなら、作戦は成功だな」  髭だけを外しながら、上野はいつものように飄々とした顔で微笑んでいる。  そのいつもの笑みで、元気でいてくれたなと安堵した。それでも 「俺の部屋にもの投げ入れるとか、見張り煽ってるようなもんですから」  飛んできたチョコを指先で提示して、眉間に皺を寄せて愁一はきちんと嗜める。  ここまでするのは上野くらいだ。見張りの人足がそこまでの知識がなくてよかったと思うしかない。 「いやいや、君にも迷惑をかけたようだから、一度謝罪をと思ってね」  と言うことは、やはり自分が目をつけられていることは理解しているようだ。 「迷惑なんて思ってやしませんけどね、上野さんにここに来ないように伝えたかったんですが、なんせ連絡手段がなくて。探すのも外の見張りがいるのでそれもできないで困ってたんでちょうどいいです。けど、冒険し過ぎです。呼び出してくれればいいのに」  お茶を持ってきた女中に、自分が接待するから暫く来ないでいいと伝えお茶を上野の前におく。 「まあ、来ないでおこうとは思ったんだけどね。いきなり消えるのもなと思ってね。でも愁一くんが心配してくれて嬉しいよ」  またそう言うこと言う…と内心思うがまあいつものことだ。 「そりゃね、心配もしますよ。あんなの店に仕込もうとしてた奴らですからね」  ヂーフェイを思い出し、その末路にため息を漏らす。  ヂーフェイはあれから3日後に亡くなったらしい。  らしいと言うのは、フーフーに食事を持っていっている者にヂーフェイの食事も頼んでいたが、その日舌を噛んで横たわっていたそうだ。  亡くなった確認はできていない。  まだふぇろもんとやらが残っていたのか食われてはいなかった様だが、給餌の者にしても檻に入ってヂーフェイを救出する勇気もなく、連絡から1週間経つが次の連絡はない。まあそう言うことなのだろう。 「あんなの?」  上野は事実は知っていたが詳細までは知らなかったようだが、当事者としては知る権利がある。  愁一はこの店での出来事だけを語って聞かせた。  結末は、その筋の方にお願いしたと伝えて。 「なるほどねえ…中共軍の噛ませとしても、美少年が1人この世から消えたのか…」 「あんた緊張感無いんですか?」  飄々とした顔で言われると呆れて笑うしかなかったが、上野は至極真っ当なことを言ったと言う顔だ。 「そう言うことも含めて、暫く日本へ帰ることになった。軍艦で戻るからそんなに危険ではないよ。身の安全もあるが、満州のこともあって少し軍や政府との話し合いもあるんでね」  満州と聞いて、少し前に鋭泰が入っていたことを思い出した。  『満洲国建国』 「満州が国になる話でですかね?」  その言葉にも飄々とした顔を向け 「どこからそんな話を?まあ、あれだけ大きく動いてれば聞こえてくるか」  とお茶をすする。 「それについて答える立場にはないが…確かに陸軍…特に関東軍が沸き立っていてね…ああ、言い過ぎた」  茶托に茶碗を置いて、一転少し怖さも込めた瞳で愁一を見返してきた。 「君にこれ以上この事で直接何かが起こることはないとは思う。ただ私と懇意だったことも、中国軍はもちろん関東軍も把握しているはずだ。不用意に悪いことをしたと思っている」  軽くだが頭を下げてくる上野に愁一は困惑して 「ほんとうにやめてください。そんなことしないでくださいよ。俺は大丈夫です。ただの売れない小説家ですし、この店にいる以上は良くも悪くもただの民間人ですから」 「店にいる限りは…だろう?」  愁一のこめかみがピリつき、一瞬で泰然の目になった。 「ご存じ…なんですか」  そんな顔に、上野は再びいつもの表情に戻り 「どう言う思想で、何を求めているかなんてのは知らないよ。ただ楽しくやっているだけなんだと思ってる。さっきの刺客もきっと君らでやってくれたんだろ?」  解っているようだった。  裏で仕事を取り裏で行ってきていたことも、この人は知っている。  上野の言う通り、自分らに思想はない。強気を挫いて弱気を助けるなんていう大義名分もありはしない。  ただ目の前にある事に、楽しく関わっていたいだけだ。  星宇や力行(リーハン)、焼き芋屋等、みんな平等で同じ考えである。 こんな混沌とした街に住んで、面白く生きないほうがつまらない。ただそれだけだ。 「ああ、心配しないでいいよ。その事は私だけ…とごく少数の身の回りのものしか知らないことだから」 「軍ってのは、おっかないっすねえ」 「私利私欲の塊だからねえ。自分達に害が及ぶんじゃないかっていうものへの嗅覚は半端じゃない」  そんな事を笑って言う軍人初めてだ。 「私利私欲ねえ…人間少なからず誰でもそうじゃないっすかね」 「そうだね。私もそうだし…」  言いながらタバコを咥え火をつける。 「私利私欲ついでに、今度戻ってきたら私の相手してくれる?」  話のついでにいきなり言ってくる言葉じゃない。 「え?俺?」 「そう、君」  煙を燻らせて上野は目を細める。

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