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第10話 上野と希佳(シージャ)

 煙を燻らせて上野は目を細める。 「こんなむさ苦しい、トウのたった俺っすか?俺は女役はしないっすよ?」 『もう』とは言わないでおいた。  黒い髪は、元髪結いの遣手姉さんが見ていられないと思った判断で切ってくれるのでそこまでボサボサではないが、本人が構わないのでスッキリしている襟足が襟にかかる程度と言う髪型だ。  格好も店にいる限り、半纏などを着ていて格好も気にしてはいない。  そんな自分なのだから、そんなこと言われてもなあ…と思っても仕方がなかった。 「そこをなんとか」  『なんとかじゃないよ』でもまあ、不思議とこの飄々とした顔で言われるとまあいっか…なんて思…えはしなかったが、 「いや、ええと…上野さんが無事に上海に戻ってくる動機づけ…っていうか呪い(まじない)になるんなら、そう思って『くれててもいい』ですよ」  途端に上野は大笑いをして 「自分をダシにするのかい」  と面白そうに灰皿にタバコを置いた。 「いいって言ってるわけじゃないんで…」 「うん、わかってるよ。ちゃんと戻ってはくるさ。あと少ししたらちょっとした騒ぎが、日本でも上海(ここ)でも起こるかもしれない。君も、そこをきちんと生き抜いてほしいよ」  そんな事言っちゃっていいのか?と、愁一の方が緊張してしまう。 「さっきはああ言ったが、考えてみれば私に向けられた刺客がもうここにいないと判れば、どんな形かわからないが奴らはここに来る可能性があるな…それは今言った騒動とはまた違う話だが…」  ヂーフェイの綺麗な顔が浮かんだ。 「ま、そんな気配感じたら俺たちもちゃんと身は隠せますよ。大丈夫」  上野からタバコを勝手にもらって、火をつけた。  上質な香りがした。 「そうしてくれ。でも居場所はこの辺にしててくれよ。戻った時君が見つからないと、私が困る」  どうにも返答に困ることしか言わないな。今日のこの人は。 「俺ね、上野さんのことずっと…」 「うん」 「兄貴だと思ってますからね。どうぞ無事に戻ってきてください」  うわやられた!と大袈裟に洋風のイスに寄りかかり、また上野は笑った。  実際の年齢差は、愁一は知らない。  24歳の自分が兄貴だと思うほどには、確実に年上だ。  もしかしたらこんなふうに自由に動き回れるところを見ると、尉官ではなく士官クラスの人間かもしれない。  だとしたら年齢は結構行っているのか…とふと考えた。 「絶対戻ってこよう」  寄りかかったまま、愁一を見て『待っててくれ』と言う。 「待ってますよ。兄さん」  それは言わんでくれよ、と起き上がり灰皿に置いたタバコをもうひと吸いしてもみ消した。 「そうそう、日本に行くと言うなら一つお願いがあるんですけどね」  一区切りついたところで、愁一が切り出す。 「なんだろう?」  再び寄りかかって、上野は聞く態勢をとってくれた。 「子供を1人、日本に一緒に連れてってやっちゃもらえませんかね。日本人の子なんですけど」 「子供?」 「ええ、15、6歳なんですけど中々賢そうな子でね。九・一八で両親と離れてしまって、ここに連れて来られた子なんですよ。日本で勉強したいって言ってて、それ叶えてやりたいんすよ」  上野はもう一本タバコに火をつけて考え込んだが、 「先の事変でそう言う境遇になった子なら、連れて行けるかもしれんな。実は何人か民間人を乗せる事にもなっていてね」 「本当ですか、ありがてえ。日本で政治家になりたいそうですよ。よかったら目をかけてやってください」  愁一も、安堵したように寄り掛かる。 「ほう…今の政治家見て失望しなければいいが…」 「もうしてますよあの子。じゃちょっと呼んできます」  そう言われ上野は待たされた。  『既に政治家に失望している』と聞いて、この情勢を読み取って何かを感じているならば、確かに賢そうな子だな、などと考えていたらさっきつけたタバコが終わる頃に愁一が少年を連れて戻ってきた。 「この子なんですけどね、この店では希佳(シージャ)と言う名前で仕事してます。【希佳、この人は海軍の怪しいおじさんの上野さんだ。上野さん、日本語でお願いします。まだこの子は中国語は堪能じゃないんで】」  『怪しいはないだろう』と苦笑しながら、上野は了承した。  希佳は海軍と聞いてより緊張して頭を下げ 【千明絋一(ちぎらこういち)と申します】  希佳(シージャ)と名乗るのが嫌だったのか、それとも海軍の人には本当の名前を言わなくてはいけないと思ったのか、希佳はいきなり本名で挨拶をする。 【お前そう言う名前だったのか、急に驚くわ】  愁一が椅子に促して、自分の隣に希佳を座らせた。が、上野が首を傾げていた。 【千明(ちぎら)と言うと…庄子物産の千明本部長…は…?】  その言葉に希佳は顔をあげ 【父です。千明春男。庄子物産の営業本部長です】  前のめりに上野に食いつき、何か知っているのならと真剣だ。 【庄子物産は軍への投資も多く、少し前に関東軍が営業本部長を招いたんだよな。しかし運悪く満州のあの騒動に重なってしまったんだったね…大連に行くはずだった迎えが遅れて、千明本部長ご家族は先に満鉄に乗ってしまったんだったか…】  迎えに行くはずだった車が抗日の集団に囲まれてしまい、遅れること30分で別働隊が別ルートで出立したと言うことがあったらしかった。 【軍からの招待…ってことだったんすねえ…】  愁一も、駐在員の迎えが来ていなかったと聞いて変だなとは思っていたのだが、まさか軍の招待と聞いてあの時期に…?と思い出して眉を寄せる。  そこから希佳は、ここへ来た日に愁一に話した内容を上野にも話して聞かせた。  汽車に乗ったこと、途中で降りて奉天へ向かい奉天で両親が連れ去られたこと、そしてここへ来た経緯などを、言葉を詰まらせながらも上野に話す。 【…大変な思いをしたね…。よく無事で居てくれたよ。海軍(我々)には御家族が行方不明だとしか知らされなくてね。手は尽くしたんだが探せなくて…。そうかご子息がここでね…】  様々な思いを含みながら、上野は顎をさする。  希佳は軍の人がまだ行方不明などと言ってるなら…と徐にがっかりした。父や母はどうなったのか。なんでもいいから知りたい。  愁一は愁一で、上野の含みのある声にも嫌な勘が働いている。  希佳(シージャ)の話を聞いた時に、父親は見せしめで銃殺されただろうと予測はしていた。  多分それは事実なのだろうことが上野の表情で読み取れた。 【まあ…】  幾分言いにくそうに、がっかりと肩を落としている希佳に向う。 【関東軍も、庄子物産の資金でいま色々動いている手前現地の視察ということで君のお父上を招待したんだが…。とんだ不手際の上…】  上野は、言葉を慎重に選んでいた。  軍関係者である以上、線路爆破が関東軍の仕業ということはもちろんわかっている。  そんな計画がある中、民間人をその時期に招待をしたこと自体がもう不手際なのだ。  だがここでそれを話すことはできなかった。  だからじっくりと言葉を選ばざるを得ない。  考えながら話している上野に、『うぅわ、言いにくそう〜』と愁一は、顔には出さずに茶を啜り、どう説明するのかを聞いている。  裏情報の噂程度では知っている愁一は、軍の『不手際』で民間人の家族が離散した結末をどう伝えるかを見守っていた。 【満州は日本人も多いからご家族も…などとこちら側から言ってしまったのもいけなかったのだが…】  上野は本当に言いづらそうに再び顎を撫でた後、 【いや…はっきり言おう】  そう言って身を起こした。 【先日と言っても2週間ほど前だが、満州の軍施設へ我々の調査隊から北京で大規模な銃殺刑が行われたと言う情報が入ってきたんだよ。その時に刑に処されたのは、スパイ容疑のフランス人やイギリス人、他…日本軍に加担している…各組織の人間…だと…】  希佳の顔が上がり、絶望的な目が上野を見つめた。  さっき、庄子物産は関東軍へ多くの資金提供を…と聞いたばかりである。  そして敢えて言わなかったが、北京では中国共産党から粛清リストなるものが公開されていて、そこには庄子物産の名前があったことを上野は確認していた。  この時期に中国に来ていた庄子物産の人間は、千明家族だけである。 【父と…母は…それで…】 【いや…母上はまだ確認はできていないんだ。刑を受けたのは1名と聞いている、父上だと思う】  希佳の拳が握られ、涙が溢れ出た。  覚悟はしていた。  よもや生きてはいないだろうと思ってはいたが、どこかで…と一縷の望みを抱いていたのも本当で、それが今打ち砕かれた。  では母は…と考えれば、自分がこんな身に落ちている現状を思うにつけ、女性である故にもう想像はついた。 【母上に関してはもしも無事だった場合、私の命で確実に君に合わせると誓おう】  上野さんと言う人は自分を励ましてくれているんだな…というのは解った。  自分が母のことを諦めたのを見抜かれたのだろうが、でもそれはもう期待はできないと踏んだ。  暫く黙って聞いていた愁一も、希佳の気持ちを思い父親を心の中で悼んだが、ここに希佳を呼んだのはこの話のためではない。  喜ばしい話をしようと呼んだのに、結果希佳の心を抉ってしまうことになってしまったが、それでも…辛い話の後ではあったが伝えなければならない。希佳の未来のことだから。 【希佳、色々思う所はあるだろうけど本題だ。このおじ…上野さんが近々日本へ渡るそうなんだが、お前を一緒に連れて帰ってくれると言ってくれた】  失望の中、希佳は再び上野を見てそして愁一を見る。 【思ったより早くチャンスが来たな。日本へ戻れるぞ。急だが今日この人と一緒に店を出るんだ】  両親もいなくなった今、日本に戻ったとて…とでも思ったのか、希佳はあまり嬉しそうではない。 【日本(向こう)に身寄りはないのか?】  愁一の言葉に、静岡に住む祖父母の顔が浮かんだ。  やはり元商社に勤めていた祖父と優しい祖母。  母方の祖父母は東北に住んでいてあまり会ったことがなかった。 【静岡に…祖父母が…】 【それならそこへ行けばいい。住所はわかるのか?】 【住所までは…気にした事なかったです…】 【名前がわかればこちらで調べよう】  上野の言葉は力強い。  両親のことで絶望したが、夜蝶楼(ここ)を出て日本へ帰れるのはやはり嬉しいことだと希佳は思う。 【辛いだろうが…頑張れよ。政治家になって、世の中を変えて見せろ】  愁一の言葉に、自分の夢が追える喜びが湧いてきた。 【じゃあ、準備してこい。そんなに荷物はないだろ】 【はい】  そう言って希佳は部屋を出て行った。

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