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第19話 好蟹楼にて

「おお、今日は流石にちゃんとしている」  揶揄うように鋭泰が立ち上がり、コートを預けた愁一を女性をエスコートするように席へと誘導し椅子を引いてくる。 「やめろよ」と怒りたかったが、店の男性の前で声を荒げるのも憚られ、苦い顔をしながら椅子についた。 「じゃあ、お願いします」  鋭泰がドアの前で待機していた男性にそう告げると、男性は 「かしこまりました」  と頭を下げ部屋を後にした。 「見違えるな」  自席へついてナプキンを膝へ乗せた鋭泰が、うっとりするような目で見てくるのが気色悪い。 「デートじゃねえんだぞ。服は店に合わせただけだ。いつもの格好じゃ入れてくれねえだろう」  愁一は手近にあった細工の施された足つきグラスの水を一口飲んだ。 「こんなグラスまで洒落てて腹が立つ」  上海蟹が食べられるからという名目だけで来たし、しかも聞かれることの予測は立っているから余計に腹も立つ。 「台無しだよ。折角珍しく洒落込んでいるんだから、それなりの作法でやってくれないと」  言葉とは裏腹に、唇に笑みさえ浮かべて鋭泰も水を口にした。  そんな鋭泰は、赤のチャンパオに肩口から柄を入れて、下は黒のズボンをだ。チャンパオの袖は肘まで切り込みが入りそこに金糸で細工が施されていた。  また豪華な出立ちだ。 「アルコールはいけるくちだったか?」  食前酒を持ったボーイが入ってきて、小さなグラスに満たされた杏露酒(シンルーチュウ)を右側に置いてゆく。 「嗜む程度にはな」  そう応えて今置かれた杏露酒を、愁一は手にした。  鋭泰は食前酒を置いていったボーイに、『まずはシャンパンを』 と告げて、杏露酒を取り上げ 「素敵な夜に」  と杯を上げ、それを口にする。  その言葉に杏露酒を吹き出してしまった愁一は、膝のナプキンで口元を拭った。 「お前の女関係を俺に見せなくていいから…気色わり。もっときな臭い話で呼び出したんだろ。いいよ気を遣わなくて」  それには鋭泰も心外そうな顔をする。 「折角の食事なのだから、雰囲気くらいは出してほしいな」  近くのベルを鳴らしてボーイを呼び出し、新しい杏露酒を頼んでくれた。  濡れてしまったナプキンも交換してくれて、新しいナプキンを膝に乗せると、愁一は鋭泰に何も言わせずに食前酒を飲み干す。 「で、話って?」  前菜も届く前から、愁一は先を急がせた。  それは『食事はうまく食いたい』だけである。 「せっかちだな。食事も始まってないじゃないか」  届いたシャンパンをフルートグラスに注ぐボーイがいる手前、それなりに紳士的な鋭泰は、残りをどうするかという問いに『あとはこちらで』と置いていくように告げ、ボーイは氷の入った入れ物にシャンパンを入れて去ってゆく。 「じゃあ一つ違う話でも」  注がれたシャンパンを口にして炭酸に眉を寄せながら、愁一が話し始める。 「大晦日…の夜だからまあ新年の朝方になるけど港で一騒動あったのは知ってるか?」  シャンパンの色を見ていた鋭泰の視線が愁一へと動いた。 「日本の軍人と中国人の喧嘩の事か?リーハンだろ?」  なんだ知ってるのかよ、と言った目で鋭泰を見ると興味深そうな目をして言ってきた。 「上海の情報は、些細なことでも入ってくるようになっている」  そんな視線を感じて答えてくるが、逆に問うてくる。 「聞くが、あそこに上野がいたのは気づいていたのか?」  愁一のシャンパンを飲もうとした手が止まり、今度は驚いた目を鋭泰へ向けた。 「あの場に?」 「ああ」  普通に頷いてシャンパンを煽り、自分で瓶を取り上げながら鋭泰は 「君もあの場にいたんだろう?気づかなかったのか?」  普段の上野はスーツを着ていたし、あそこにいたのは制服を着た将校で…と色々思い浮かべると、通訳をしていた白い海軍の制服の… 「あ…」 「なんだ今気づいたのか。喧嘩していた2人と陸軍将校、その通訳をしていたのが上野だよ」  愁一は唇を噛んだ。  おはぎや焼き菓子のことに合点がいく。見られていたんだ。 「普段私服しか見たことなかったからなあ…不覚だった」  話が途切れるのを待っているのか、いつもいいタイミングで酒も料理も運ばれてくるようだ。  前菜が目の前に置かれ、やっと食事が始まる。 「なので、本来なら君に『上野はどこにいる』と聞くところだったが、まあ|こちら《上海》いると言うのは私も把握したので…今日は本当に楽しく食事ということになってしまった」  鋭泰(ルェイタイ)なりに苦笑して、想定していた愁一の嫌な顔を眺めた。 「なあ、鋭泰。あんたはなんでそんなに上野さんに執着してるんだ?」  ついでに口にした酔い鶏につい『うまっ』と声を出す。 「執着と言われるのは心外なんだがね…上野が優秀すぎるから…かな」  シャンパンを飲み干して些か感傷的な鋭泰を、珍しいなと思う。 「なんだそれ。嫉妬か?それが理由で俺がお前に拉致られたり、こうして飯食ったりしなきゃなのか?」  少々うんざりして、エビとキクラゲの和え物を口に放り込む。  鋭泰にグラスをターンテーブルに置くように言われ、鋭泰はそれを回してシャンパンを注いでくれた。 「前にも言ったと思うけど、俺は上野さんの仕事なんて全く知らないし興味もない。客と店の人間、それだけだ。だから俺に聞いてもお門違いなんだって」  前菜を全て平らげると、やはり見ていたようにスープが出てきた。 「蟹と卵のスープでございます」  蟹と卵という簡単風なこと言ってるが、フカヒレの繊維がキラキラと光り、金箔まで乗っている。 「満洲国の話だが…あれを進めている一派に奴はいるんだよ」  スープをレンゲで品よく口に運んで、鋭泰はいきなり確信をつくことを言ってくる。 「俺は…これも前から言ってるけどそれに興味はないし、満州がどうなろうと俺には関係ない。だからそういう話、俺にすんのもやめてくんねえかな」  愁一の食事の仕方は、普段かまわない食生活をしていると言う割にはきちんとマナーもできていて、それには鋭泰も密かに感心はしていた。 「そうか…でもいずれそういう風に言っていられなくなる事態も起こりうる…かもしれないよ?」  何かを含むようにそう言って、鋭泰は飲み干した器の受け皿にレンゲを置く。  微かに陶器が当たる音がして、それが言葉と共に愁一の神経に触る。 「どういう意味だ?」  鋭泰とは逆に愁一はレンゲをスープに差して身を起こした。 「星宇(シンユー)…あの子は好奇心旺盛だよね」  愁一の眉が上がる。 「おまえ…」  殺気のこもった声が愁一から漏れた。 「いやいや、勘違いしないでくれよ。私たちがどうのじゃない。時勢は動いているんだよ。あの子の隙をつかれないように…という警告さ」  鋭泰がこういう時は、星宇がどうのというより本当に時勢がどうにかなっていると思わせる。  星宇はあれでいてきちんと話をしてくる奴なので、そこの心配はしていなかった。  今はまだそんな危なげな話は星宇から出てきていないから。  愁一はスープを飲み干してレンゲを置くと、また見計らったように次の品がきた。  今度は海鮮の炒め物だ。 「ま、こんな食事に合わない話はやめにしよう。せっかく食事会になったんだし」  大ぶりなエビの入った炒め物は、香辛料の芳しい香りを立てて誘ってくる。  今の会話で部屋を出ようかとも思った愁一だったが、こんな嫌な気持ちにさせられて上海蟹を食わずには帰れない、と次の料理に手を出した。  サーバーされて皿に盛られた残りの大皿はターンテーブルに乗せられ、サーバーしてくれた女性は粛々と去ってゆく。 「君の食事マナーは、驚くくらいできているね。どこで習ったんだい」  話を変えるならと、興味本位に聞いてきた鋭泰の顔を愁一は意外にも微笑んで見返してきて 「あんまり…人の過去を詮索するのはよくないぞ。悪趣味だ」  よほど言いたくないのは伝わった。  鋭泰は 「しかしな…」  とナプキンで口を拭い 「お前は、先日の取引のときに私の出自を言ってきたよ…」  急に砕けた話し方で、シャンパンを飲み干す。  うわ、こいつ粘着質なやつ… 「じゃあ、相殺だな。お互い痛い腹を探らないようにしようぜ」  こういうしかない。蟹のために。  それでもきいておかねばならないことがある。 「話戻して悪いが鋭泰。お前星宇に何かしようとしてるわけじゃないよな」  さっきの言い草が気になって仕方なかった。 「そんなこと考えてないよ。たださっきも言ったけれど時勢は動いているんだよってだけだよ」  興味がないのは、関東軍及び中共や国民党のいざこざだけで、いくら何でも時勢は読んできたつもりだ。  星宇のことは気をつけるつもりだが、鋭泰は一体何を持ってそれを言い出したのか。 「関東軍は思ってる以上に気が強いし、根深く入り込んできている。足元をすくわれないように我々も必死なんだよ」  最近の抗日の激化はそれに反応しているのかもしれないと愁一は思うが、判断は難しい。  それでも今まで勘だけで生きてきた自分が、この時勢についていけるのかいけないのか。  食事は揚げ物2種が配膳され、好みでソースが作れるように綺麗な器に入った調味料が5点、ターンテーブルに置かれた。

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