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第23話 燻り

 帰り道。星宇と2人で店まで向かっていた泰然は、いつも歩いている道の異様さに気づいた。  イワノフの家からは5分ほどの道のりだが、通りの各所にいつの間にか抗日の張り紙がされていた。ここは日本租界だというのにだ。 「随分派手になってきたね」  なんでもなさそうに歩いているが、星宇は張り紙の異様さには思うところはあるようだ。 「やっぱさっきの俺が聞いた日本人を痛めつける話って、こういうことから来てるんじゃないかなって思うよね」  昨年の九・一八よりこっち、関東軍の動きは怪しいことばかりだ。 「関東軍が暴走してるのか…どうなのかってところだよな」  張り紙を目で追いながら泰然は歩いた。  星宇も 「そうでもなきゃこうも酷い張り紙もないだろうし、俺も中国人としては複雑な気持ちもないこともないんだよね」  そんな星宇の感情は、満州鉄道の線路爆破が関東軍によって中国共産党の仕業とされているらしいと言う話を聞いたからだった。  今年になって欧米列強中心の調査団が入るという情報も聞いて、信憑性も増している。  泰然には言っていないが、星宇はこの情報を今日の話を持ってきた友人から聞いていた。  それで張り紙を見てそう感じたのだろう。  泰然はそんな星宇の反応を、ある確信を持ってみていた。  鋭泰(ルェイタイ)の言うように、星宇はまだ若く好奇心も旺盛だ。  少しの情報で気持ちが揺らぐこともある。  だから泰然は九・一八のきっかけ(柳条湖事件)の事は星宇に言わないでいた。  しかしそういう話はどこかから漏れてくるもので、いくら泰然が『まだ若いから』と気を遣っても、その若いもの同士で血の気の多い会話になっていたら元も子もない。  やはりこういうことはきちんと話しておくべきだったかと、密かに反省をする。  が取り敢えず今は、それを責めないでおこうとも思った。 「あ、でもさ」  星宇が立ち止まって振り向いた。 「俺が聞いた痛めつける日本人っていうのが、上野さんって事はない?」  言われてみればそうも取れなくはないな…と泰然も思ったがしかし… 「お前がそれ聞いたのいつなんだよ?」 「一昨日かな。ほら、俺夜中に出かけてたじゃん。みんなと会ってたんだよね」  そういえば、店の仕事を早々に引き上げて出かけてたっけなと思い出す。 「じゃあ違うな」 「何でよ」 「鋭泰(ルェイタイ)は今日俺に依頼したんだぞ。先によそへ依頼してるとは思えない言い方だった。俺らが断ったらよそへとは言っていたけど」  ん〜〜と、星宇はどうも納得できなさそうだ 「鋭泰(あんなやつ)信用できる〜?」  先を歩きながら時々振り向いて星宇は言う。  ……まあ、鋭泰ならそれもあり得るが。 「そこんとこは、鋭泰信じとくわ。『痛めつける』とかの軽いノリで上野さん狙ってこないと思う。鋭泰(あいつ)にしたら確実にやらないとだろうから」  そうかなあ〜。とまだ不満そうではあったが、わざわざ食事の席を設けてそれを『泰然』へ直接依頼してきた経緯を思えば、まあねえ…と納得もせざるを得ないか、と前を向いて歩き出す。 「また明日みんなと会うからさ、詳しいこと聞いてくるな。依頼主とか報酬とか」 「ああ、頼むわ」  それなりに賑やかな通りを歩いて、一際明るい夜蝶楼へと到着した。  星宇は表から堂々と入ってゆき、泰然は裏に回って直接部屋へと向かう。  一度部屋へ戻って着替えてから風呂に直行。  嫌な汗とか、鋭泰の手の感触とかキモいの全部流さねえと気が済まなかった。  流石に仲間に言えなかったが、あの時の狂気のこもった肌の感触を思い出し、フルッと身が震える。  泰然はそれを払拭するように首を振って、風呂へと入った。    鋭泰からの3日の猶予は、その間にどうしても連絡を取りたいと思っていた上野とは連絡は取れず終いだった。  当たり前だが軍の…ましてや特務の人間の行動が公になるはずもなく、街でも歩いてればもしや…と各国の租界を歩き回ってもみたが、結局会えないまま終わる。  まあ特務といえば、自分の身の危険はいつものことなのだろうから、それなりに警戒はしているだろう。そう言った意味では、あまり心配していないのも事実だ。  そしてその3日後の10日に、鋭泰からは意外な方法で連絡が来た。  それは荷物を届ける配送員が持ってきたものだ。  昼は閉めている店の帳場で、愁一が店の帳簿を見ていた時に 「安堂さんですね〜。これお荷物です〜。受け取りにお名前を〜」  との声がした。  顔をあげたら、見たことある配達人が立っていた。  思い起こしてみれば、正月4日におはぎを持ってきた配達員である。  独特の間延びした語尾が印象深い。  今回は結構小さな箱を持ってきてカウンターへと置いた。差出人は鋭泰だった。  『受け取りにお名前を〜』と言うので受け取ったらそこに『依頼の件、丸かバツか』と書かれている。  『なるほどね』と納得して、バツをでっかく描いてやり、返したら 「お名前もです〜」  と突き返され、それもそうだと名前を書いて返す。 「毎度〜」  と言って帰ってゆく配達員の背中を、愁一は『また来てほしい奴だな…』などと見送ってから、改めて箱に目を落とした。  12、3cm角の正方形の薄い箱は本当に軽くて、紐で括ってあるのを解いて箱を開けてみれば黒い万年筆が対角にぴったりハマって入れられていた。 「なんだ?」  と、ペンを取り上げたらその下に一枚の紙が入っている。  開くと 『きっと君は断ってくるだろうと思って、先回りしてプレゼントだ。この万年筆で上野への弔辞でも書いたらいい。それはちゃんと聞きに行くから。文筆業の君ならさぞや泣ける文章を書くんだろうね。楽しみだ』  先読みをされたのは別段悔しくはなかった。  そういう空気でいたから鋭泰(あいつ)も期待なんかしていなかったろう。  それよりも、表の仕事まで『わかってる』といった風なこのやり口はかなり勘に触った。  愁一は『気に入らねえな…』と露骨に唇を歪めて、万年筆を戻した箱をカウンターに放り投げる。  しかし、これでいよいよ鋭泰が動き出すことが判った。  あとはもう…上野を信じるしかない。  あの食事会から11日が経った、1月18日。午後4時5分ごろ。  愁一は部屋でぼんやりと文机に向かっていた。  特に本業の依頼があるわけでもなかったが、たまには作家活動も…などと思い机に向かってみたが、どうもやる気が起きずに昼からずっとこんな調子だ。  動き出したと思っていた鋭泰の動向だが、今日18日になっても上野に関する情報は入って来なかった。  仮に上野暗殺が完遂できたとしたら、鋭泰が自分から言ってくるに決まっている。  情報がないということは無事でいるのだろう。  文机に着いて原稿用紙を前に、どうなってるんだかな…などとぼんやりとしていたら、通りに面した窓に何かが当たった。  前にも似たようなことがあった…上野だ。  まさかと思い立ち上がって窓を開け下を覗くと、短髪に手拭いを巻いた仕事仕様のリーハンが手招きをしていた。  リーハンが自分を呼び出すなんてことは滅多になく、愁一は万が一を考え裏から店を出た側道にリーハンを呼び寄せる。 「どうした。リーハン(あんた)がくるの珍しいな」  一月の四時頃はすでに薄暗く寒い。  愁一は手にしてきたコートを羽織りながら、やってきたリーハンにそう問うと、リーハンは 「星宇がな…」  と、なんだかはっきりしない。 「星宇がどうした?今日は店休んで遊びに……なんかあったか?」  少々思い当たることもあり、愁一は眉をひそめた。 「星宇が、港に走ってきたんだよ。だから何してるのかと思って声をかけたら『探してた!どこでもいいから匿え』と言ってきてな、今いつも俺が昼寝してる倉庫にいれてるんだけど…」  一瞬で顔つきが変わった愁一をみて、何か知っているのか…?とリーハンの声が弱くなる。 「様子はどうなんだ?」  愁一はリーハンの作業服の肩を叩いて連れていけ、と合図しながら星宇の様子も伺った。 「怪我も特にはしてないんだけど、元気はねえな。泰然、何か知ってるのか?星宇は何も言わねえんだよ」  上野の暗殺を示唆された日に、星宇から聞かされた依頼の話。  あれから星宇も知り合いと話して色々詰めていたようだが、愁一が聞いた話では依頼主は青幇のチンピラだと言っていた。  その時既に数十人集まっていたらしく、1人5元という報酬だとも聞いた。  何十人もいるなら仮に30人としたって150元だ。  チンピラがそんな大金を持っているわけもなく、おそらく青幇本体がついているのだろうことは想像に難くない。  そしてその背後にはおそらく…と考えるとそんな楽観視できる仕事ではないと感じて、そんな大元があやふやな件は、勧めない。止めておけ。と言い渡した筈だった。 「抗日感情の激しい若い奴らを扇動したか」  リーハンが『なんだ?』と聞き返すが、愁一は『後で話す』と足早に歩いている、リーハンの後に続く。  しかしそれならなんで、星宇は匿えなどとリーハンに助けを求めに行ったのか。  ものの数分でリーハンの昼寝小屋へと着いたが、そこは小さな倉庫だった。  愁一は入口の前で一呼吸してから、結構な音のなる鉄の大きな引き戸に手をかけた。

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