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第28話 衝動抑制

 二、三日愁一の機嫌が良くないことに、イワノフも星宇もかなり気を遣っていた。  機嫌が悪いと言うよりは元気がない。  あれから逃げおおせた愁一は、夜中の二時であるにもかかわらず焼き芋屋へと向かった。  習い性で起きていた星宇が驚いて中へ入れると、仕事着のカンフー着は雨と血にまみれ、伸びた前髪から水滴が滴っている。  普段あまり返り血を浴びない仕事をする泰然(愁一)が血塗れなことに、星宇は『何かあった』ことを察してはいた。  泰然もどことなく疲れているようだったからその場で服だけを脱がせてタオルをかけて座敷へ通した。  寝ていたイワノフもやってきて 「どうした?」  と声をかけるが、無言であぐらをかいて座っている愁一を見て、何かあったなと思い、風呂は火を落としてしまって時間かかるからと、取り敢えず暖かいお茶と桶に暖かいお湯を用意してくれて、それで星宇が泰然の身体を拭ってくれたものだった。  あの日から数日、愁一は星宇とともにイワノフの家に居続けたが、言葉は少なく、やはり元気はない。  それでも何だか意味のわからない覇気だけは感じ取れる。  愁一自身は、こんな現状の自分が理解できていた。  今は出すべきではない感情を抑えているからだ。  目の前での上野の暗殺。その手段。暗殺者の正体。どれをとっても納得のいくものではなく、今外に出たらすぐに鋭泰を呼び出す自信まである。  が、それは上野の状態がわかってからと決めていた。  暗殺が失敗に終わり、上野の無事が確認できた時と暗殺が成功して上野が……となったときの鋭泰への対応は、まるで違うから。  直前まで軽口を言っていたから大した怪我ではなさそうに思えたが、出血量が酷かったのも覚えている…。それが気がかりではあった。  その情報さえどうすれば知れるのかはわからないが、それでも結果を確かめるまでは動けないでいた。  星宇は愁一から自分の顔を見た日本人は始末したと聞いて『もう店に戻れる』と喜んだが、愁一が店に戻る気配がない。  愁一の様子も心配だし、と、付き添ってそばで見守ることにした。  「何かあったんなら話せよ」  それだけ言って、それ以上は聞いてこなかったイワノフには愁一も感謝はしている。  だが、その日の夕方に事態が動き始めた。  リーハンがイワノフの焼き芋屋へ飛び込んできて、 「えらいことになった!租界の外で戦争が始まったぞ!」  日本家屋であるイワノフの家の玄関引き戸をガラッと開けた瞬間に、リーハンがそう叫ぶ。  その声に店で焼き芋を売っていたイワノフも、部屋まで戻ってきた。 「穏やかじゃねえな、戦争だ?」  愁一はそれを聞いて、『これが上野が言っていた『大きな事』だと言うことか』と認識はしたが、戦争か…と考えると関東軍の容赦無さにつくづく嫌気がさす。 「何日か前から、上海陸戦隊のやつらが租界から出て行ってたんだよ。あの人らは、日本租界を警護してるようなものなのに、変だなあとは思ってたんだよ。しかも中国領へ移動しててさ。海側には日本の戦艦が徐々に集まってきてたし、確かにきな臭かったんだ」  イワノフは、リーハンが走ってきたのだろう息を切らせていたので水を与えて、ゆっくりでいいと話を促した。 「最近聞こえてきてたのは、中国人も日本人もお互いの悪いことばかりだし、これは近々何か起こるなとは、誰でもわかる空気だったんだけどさ」  星宇は、港で働いていたままの格好で来たリーハンが寒そうだったので、毛布を肩にかけてやる。 「ありがとな、星宇。で、星宇も巻き込まれた坊さんが襲われた話と、少し前にその坊さんが襲われた場所近くで中国人と日本人が1人ずつ死んでたっていう話が出てきていてな、そういうのが原因なんじゃねえかとか、憶測が飛び交ってるんだよ」  愁一は、日本人と中国人のほうは『俺がやったわ』と申告した。  その日本人の方が、星宇の顔を見た最後の一人だとも言っておく。 「なんだ、じゃあそっちは戦争には関係ないんだな。でもその話と、坊さん襲撃事件のどっちの話でも中国人の憤りが再燃しちまっててな、まあそれが原因じゃあないだろうけど、夕方さ」  水を一口飲んで、タバコをくれと手つきで合図する。それを貰いながら 「数人の中国人と日本人が港で喧嘩を始めたんだよ。俺らもそれは止めようとしてたんだけど、別にそれがきっかけ…なわけじゃないんだろうが、直後に中国領の方で派手に大砲が鳴ってすぐ後に機関銃の音がな…」 「怖いね…リーハンよくここまで無事に来たよ。よかった」  お代わりの水を床において、星宇も心配そうにリーハンに寄り添う。  愁一は渡したタバコにマッチで火をつけてやって、そこで日本人を消し込んだときに上野が現れ、その上野から聞いた今回のその戦争もどきの『意味』を三人に聞かせることにした。  今日始まった諍いが満洲国建国のための陽動だと言うこと。そしてこの戦争を起こすきっかけとするために謀略を図ったのが、星宇も関わったあの坊さん襲撃事件だと言うこと。  そして…戦争とは関係ないけどと前おきしてから、上野が刺されて軍関係者に連れられて行ったこと。 「え、上野さん無事なの?」  星宇が乗り出して聞いてくる。 「わからん。ただ運ばれながらいつもの軽口叩いてたから…平気じゃないかとは思う」  愁一は感情を出さないように淡々と話していた。 「それって、前にお前が依頼断った件ってことだよな。やっぱり他所へ依頼してたんだ」  リーハンの言葉に愁一は少しピリッとなったが、そのことに関しては、それ以上言うのをやめる。  イワノフがその空気を察して、話を変えてくれた。 「じゃあ、あれか……やっぱりあの坊さんの件は、愁一(お前)の想像通り後ろに関東軍がいたってことなんだな」 「……そう言うことになるな」  愁一の言葉にイワノフもタバコを咥えたが、火をつけずに苦い顔をした。  推測だったことが現実になって胸糞が悪くなってくる。 「結局奴らは中国を食い物にしようとしか思ってないんだろう。それを止めようとした勢力も日本軍には居たらしいんだけど、それは随分潰されたらしいしな」  潰されたと自分で言ってみたが、それはあの時の上野の表情や空気感で上野自身も軍部…と言うより関東軍から睨まれて、中国で好きに動けなくなっていたことが推察された。 「上野さんは…満洲国建国の全てを整えた後、その全権を関東軍に持っていかれたんだろうな…」 「じゃあ、その『満洲国』って言う国ができたらどうなるの?」  星宇が不安そうに聞いてくる。  中国人としたら当然だ。 「まあ…そこを足掛かりに、中国やモンゴルへ侵攻するんだろう……ひいてはロシアも視野に入っているかもしれん…」  イワノフも渋い顔のまま星宇に教えてくれる。そして、『それしか考えられんしな…』と小さく呟いた。  部屋の空気が重くなって、誰一人言葉を発しなくなったその時だった。 【すみませーん】  玄関口で日本語で呼ばれる。  4人は動きを止めて様子を伺った。  関東軍や反中の中国人狩りだったら出ない方がいい。  しかしこの諍いで何か困っている日本人だとしたら、少しは何とかしてやりたい。  どっちだ。 【この辺に宿があったら教えていただけないかと】  困りごとか…まだ夕方の5時頃だ。案内出来るならと日本語対応で愁一が出て行った。 【どうしました?宿ですか?】  引き戸を開けた瞬間、声をかけてきた者はずいっと玄関の三和土まで入り込み、いきなりナイフを首元に当ててくる。 【ここに中国人が出入りしてるのを見た。いるなら出してもらおう】  中国人狩りだ。人数は2人。 「星宇」  愁一は星宇を呼び、日本語で対応してるはずなのに何だろう、と出てきた星宇は、愁一がナイフを突きつけられているのを見て 「どういうことなんだ?」  と、一瞬で顔つきを変え、いつも忍ばせている自前のナイフを腰から抜き出した。 【やっぱりいたぞ、中国人だ!お前もそうなんだな、流暢な日本語で騙されるところだったぜ】  愁一にナイフを当てていた男が胸ぐらを掴んできて、愁一を表に引っ張り出そうとした。  が、愁一はナイフを持った方の手首を掴み上げ、容易くナイフを取り上げるとその男の首の根元に迷いもなく無表情で差し込んだ。  ガッとかゲッとか言う短い声が出て、男は自分の胸元が赤く濡れて行くのを目で追っている。 【な…にを…】  それを見ていたもう1人の男が 【うわああっ!】  などと、情けない声をあげながら一度尻餅をつき、逃げ出していった。  その逃げ出す男を目で追って 「星宇任せた。暫く閉じこもってて鬱憤溜まってるだろ。目立たないところ連れてってからやれよ」 「了解!やったー」  星宇は家を飛び出して、腰が砕けたようにヘナヘナと逃げてゆく男を追いかけていった。 「何事だ?」  イワノフが出てゆくと、そこには首の根元を刺されてどうにもできなくなっている男が、救済を求めてイワノフを見ている。 〔わたし日本語わからないので〜〕  イワノフは微笑みながらロシア語でそう言って奥へと引っ込んで行った。 【特別に日本語で話してやる。俺はいますげー機嫌が悪いんだよ。タイミングが悪かったなお前。ふざけたことしやがって】 『そんなの俺が知ってるわけがない』みたいな顔を男がした瞬間に、  半分ほどだったナイフがググッと奥へ押し込まれ、男の口から人の声ではないような『音』が鳴る。  その後すぐに男の足から力が抜けて、その場にへたり込んだ。  まだ息はあるがゼエゼエと、喉を鳴らしナイフだけに支えられているように上半身をふらつかせていた。 「どうしたって?イワノフがおっかねえって言って怖がってるぞ…ああ…」  へたり込んだ男とともにしゃがみこんでいた愁一の元へ、リーハンがやってきて、現状を確認して納得する。 「また地味に酷いことを」  口元だけで笑ったリーハンは、玄関の三和土におりると男の両手両足を玄関の棚にあった梱包紐で縛りあげた。 「どうする?」 「陽が暮れきった頃にでも黄浦江に捨てちゃえ」  1月の終わりのこの時間は、もうだいぶ暗くはなっている。もう少し時間を置けという意味か。  ナイフを外して血が吹き出してもイワノフに迷惑なので、そのままにして愁一は男を転がして外に出た。 「そう言えばリーハン、お前仕事はどうなったんだ?」  港で荷運びの人夫をしているリーハンだが、戦場と地続きみたいな場所だ。 「親方に暫く休みだといわれた。まあ仕方ないな」 「そうか、じゃあここ頼むな。星宇もその辺で1人仕留めてると思うから、そいつも一緒に川に持ってってくれないか。俺は今ので店が心配になった。行ってくる」 「わかった。星宇が戻ったら、そっちへ行かせるか?」  転がされた男を玄関の脇へ立てかけて、問うと 「いや、ここにこいつらが来たってことは、もしかしたら目をつけられているかもしれん。星宇を護衛に置いてゆく。またこんなのが来たら容赦しなくていいって言っといてくれ。俺は2、3日戻れねえからお前らも気をつけてな」  愁一は少し足早に店へと向かった。少し久しぶりの店だ。  18日に出て以来10日ほど空けている。何事もなければいいが。  店は今日も明るい入り口でお客を迎えていて、それを見てホッとした。

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