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第29話 欠落
「あらせんせ、どこ行ってたんです?心配しましたよ」
受付のカウンターで、女将が肘をついて覗き込んでくる。あまり心配していそうには見えない。
女将と遣り手の2人で焚いているいつものお香が、戻ってきた感を醸してくれた。
「いや〜ちょっと立て込んじゃってね。悪かったな。何もなかったか?」
一応愁一がオーナーだと言うことは隠しているのだが、何かにつけこうやって店を気にかけるものだから、女将と遣り手姉さんにはバレていると思っている。
いちいち宣言はしないが、それならそれで、というお互いの暗黙で関係性は良好に成り立っていた。
愁一は、玄関先の小さくはあるがロビーの椅子に腰掛けて、久しぶりに見た女将と話し込む。
「何もないですよ。昨日今日と、少し客足が減ったくらいですかね」
真っ赤な口紅で、短い煙管を吸って豪快に鼻から煙を出す女将は、帳簿を見て眉を寄せた。
まあそうだろう。租界の外では戦争のようなことが起こっているのだから。
愁一もタバコに火をつけて、一息つくと女将を見つめて言った。
【今から話すことを、一両日中に行動してほしい】
急に日本語で話されて女将も眉を上げるが、愁一が自分に日本語で話しかけるときは割と重要事項が多いのはわかっていた。
【なんざんしょ?】
それでも冷静に受け止める。
【租界のすぐ外で、中国軍と関東軍が戦争…とまでは行かなそうだが、結構大きめな戦いを始めたらしいんだ】
女将は少し考えるような素振りをして、
【じゃあ、さっき聞こえたドーンドーンみたいな音はそれだったんですか。たまげましたよ】
と呑気である。
そして
【そう言えばね、最近の客がやれ『筆下ろし』してやってくれだの、『一度男子とまみえたかった』だのが意外と多かったんですよ。それはそう言うことだったんですねえ】
などと楽しそうに語ってきた。
この業界で生きてきた人間の、その業界で感じられる世相なのだろう。
そんなことで、戦が近いこともこの界隈の人間は感じ取る。
愁一は面白く聞き、一方で女将の肝の座り方に感心した。
でもそのくらい肝が座っていてくれたほうがいい。
【でな、フランス租界に一つ、『李 翔梨 』と言う名義で買われているアパルトマンがある。そこに娼妓たちを連れて避難していてくれないか】
そこは愁一が日本租界で何かがあったときのために用意した。異国租界の部屋である。
日本と中国の諍いだ。まさかフランス租界にまで飛び火はしないだろう。
比較的安全な場所だと判断した。
【随分急なんですねえ】
そう言いながらも、女将はその場の帳面を片付け始める。
【中国人狩りが始まってるようなんだ。ここの子たちは半分が中国人だろ。連れて行ってやってくれないか】
【じゃあ私や遣り手の梨華 は日本人ですけど居てもいいんですか?】
【いや、向こうでのまとめ役も必要だし、何より俺がここに常駐できるかも怪しいんだ。女所帯は心配だ。みんなで行ってくれないか】
女将は小さくため息をつき
【いつまでですかね】
【さあてね。外の小競り合いが終わるまでとしか言えないな】
『めんどくさいこと』
帳簿をトントンとまとめ上げて、それを風呂敷で包みあげる。
【全員がここを出るまで俺はいるから。早めに準備してな。今日客のいない子にはすぐにでも話してやってくれ】
【わかりました】
女将は立ち上がり、しゃなしゃなと裾を引きずって娼妓たちの待機する部屋へと向かって行った。
が、愁一が部屋へ戻って行こうとしたとき、
「ああ、そうそう」
言葉を戻した女将が中国語で小走りに戻ってきて
「これが届いていましたよ」
と2通の、洋風と和風の封筒を手渡してきた。
「またあの気色悪い人が来ましてね。先生のこといるかいって言うのでいませんって言ったら『そうだろうと思って、これを用意してきたんだ。渡してくれないか』なんて妙に浮かれて持ってきましたよ」
じゃあ渡しましたからね、と女将は再び待機部屋へと向かって行ってしまった。
愁一は封筒を眺めながら、『鋭泰が来たんだな…あいつここ覚えてから調子に乗ってんな…』と眉をしかめながら階段を上がって行った。
久しぶりの部屋はやはり心地よくて、伸びをしてから座り込み机の上のハサミでまずは和封筒の方を開けた。
女将の言う気色悪い人 が持ってきた方じゃない方。
味気ない和封筒だった。
出してみると四つ折りの藁半紙で、真っ先に目に入ったのは海軍の印。
愁一はドキッとした。上野の容体か…?
そして開き切った用紙へと目をやった瞬間に目の光が消えた。
「……は?」
用紙には
『安堂愁一殿
先日貴殿が救ってくれた海軍通信隊 上野征尋少佐は
1月25日の深夜1時に永眠
兼ねてから、親交厚い安堂氏には伝えよと最期の言葉をいただ
き、ここにお知らせするものとする。
なお葬儀等は行われず、本来であれば航海中の作法である水葬
が本人の希望であったため、28日日本帰還の艦により執り行わ
れることが決定した。』
他にも色々書いてあったが目に入らなかった。
座りながらも世界が回っているような感覚に陥る。
『あの時つまらねえこと言って……なんでもなさそうだったじゃないか……え…なんなんだよ…』
手紙を持つ手が震え、呼吸も荒くなる。
「上野さんが……死んだ?嘘だろ?」
暫くの間、愁一は放心していた。
手紙を握りしめ、それを見ているようで見てはいず、『永眠』の文字だけが脳に焼き付いたように離れない。
涙が出るわけでも、喚くわけでもない。ただただ放心しているだけだ。
一瞬我に帰り意味もなく首を巡らせると、正月に『星宇に』と、くれたガレットの箱が目に入る。
ここにくるときに持ってきてくれた焼き菓子の味が蘇った。
その菓子は買えないわけじゃない。
いつだって手に入る物だ。
しかし、それをここに持ってきてくれた人物は、もうこの世にいない。
それが実感できない。
そしてまた、手の中の手紙に目がいった。
人の力ではどうにもできない2文字に囚われる。
「……なんでだよ…」
『永眠』と言う文字を……脳がその文字の意味を頭で理解しない状態になっていた。
『……永眠って……なんだっけ……』
しかしその感傷を、時代は許してはくれなかった。
耳に入ってきたのは地響きがするような爆発音。
愁一は瞬時に窓を開け確認した。
目に入ったのは炎を映した煙で、だいぶ距離があり租界自体に影響はなさそうではあったが、音からすると、かなり際を攻められた感じだ。
「明日にでも店の子を移動させなきゃだな」
図らずも、関東軍が仕掛けた争いの爆発音が愁一を引き戻してくれた。
胸はざらついている。自分の中の何かが欠落した感が重くのしかかってくるが、今は動かなければならなかった。
そしてもう1通の手紙を思い出す。
鋭泰からのものだが、こうなると内容がわかりすぎて見る前から憎悪が湧く。
思えば女将は『妙に浮かれて』と言っていた。あの時なぜ気づかなかったのか。
今、鋭泰が浮かれることなどと言ったら一つしかないのに。
そしてその内容は、多分こうだろう。
封筒を開けながら呟く。
「泰然、私は一つの希望を叶えたよ」
中の紙を開くと
『泰然!私は希望を叶えたよ!』
わかりやすい奴…ほぼ推測通りの言葉に笑みも出ない。
「上野を仕留めた!あいつがこの世から消えた」
『上野が死んだそうだよ!私が送った刺客の傷が致命傷でね!上野がこの世から消えたんだ!』
『私が送った刺客』…だ?
「あんなのが刺客か?ただの社会のクズじゃねえか!あんなのに上野さんが…」
両手で持った紙の端が強く握り込まれ、さっきとは違う意味で手が震える。
『これで我が組織は真っ当になる!素晴らしいことじゃないか!泰然!祝いにまた蟹を食おう!近々招待するよ。待っていてくれ』
自分でさえ上野の安否は軍からの『特別待遇』だったと言うのに、こう言う奴らはどうやってこう言った情報を仕入れるのか。
青幇と軍が密接だと言う噂の立証を見ているようでもあり、それすら腹が立った愁一は、鋭泰の手紙を丸めて畳に叩きつけた。
兎も角動くことだ。
鋭泰のことはじっくり考えよう。
弔いはもちろんだが、自尊心の話だ。
自分 の代わりの暗殺者を誰に設定して何をしたかは、本人に思い知らせなければならない。
愁一は胸の中の欠落感を抱える覚悟を決めた。
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