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第30話 やるべき事

 租界の外で諍いが始まって半月  2月20日になった外灘(バンド)の外れの高台は戦いの余波もなく、以前と同じ…というわけにはいかないが、それでも夕方になると屋台が集まって来ていた。  それは以前と変わらぬ香りを漂わせ、外で何が起こっていようと普通の生活を続けるという強さのようなものが見てとれた。  以前ここで上野に声をかけられた日と違い、快晴だったこの日は夕焼けも落ち着きかけている。  愁一は黄浦江沿いの壁状のフェンスに寄りかかり、未だ機関砲や激しい声がする方向へ目を向けていた。  『こんな事態を、上野さんは止めようとしていたんだろうにな…』  タバコを吸いながら一人思う。  イワノフの情報では、これまでにも日本軍のほうはかなりの数の戦死者と負傷者が出たということだ。  そこまでして件の『満洲国』を建て、中国へと領土を広げることが関東軍の思うところなのか。  いったい彼らは何を目指しているのだろう。  中国の占有かその奥への侵攻か…なんにしろそれをしたとして、その先には何があるのか。  日本本土はそもそも反対しているようだし、上野もそこまでは望んでいないと言っていた…。  しなくてもいいことをやろうとしている関東軍は、本当に何を見ているんだろう…と本気で考えてしまう。  そして、その上野が亡くなってそろそろ一月(ひとつき)が経とうとしていた。  これまでも自分の『仕事』も数々こなし、胸の中の欠落感と共存してきたつもりでいたが、どうもまだ…うまくはいかなかった。 「もっと…話したかったっすねえ…上野さん」  ふと声に出てしまい、苦笑してタバコを靴で踏み躙る。 「バカか、俺」  フェンスから離れてその場を立ち去ろうとした時に、 【いつまで続くんでしょうね】  以前ここで声をかけて来たのが上野だったことが頭にありすぎて、心臓が飛び跳ねる勢いで振り向いてしまった。  しかしいまのは日本語だ。上野とは、中国語訓練のためにと言われて中国語で会話をしていたから、すぐに違うとは思い至る。  振り向いた先には、品のある紳士であるのは変わりなかったが、上野よりももっと年上の人物が立っていた。 【ああ、そっすね。早く終わって欲しいっすよね、うるせえし】  ありもしない期待で少し動揺してしまった愁一は、つられて日本語で答えた。  そこから早く離れたくて『じゃあ』と足を進めようとしたが、その紳士は 【少し話しませんか?】  と優しい声をかけてきた。 【あ、いや俺はちょっと…】  上野を彷彿とさせる服装の紳士は、喪失感を刺激してきて落ち着かない。 【まあ、一服どうです】  差し出されたタバコは、高級品である。  愁一はタバコと紳士を見比べて、吸ったことがないわけではないが、それでもあまり縁のないタバコに釣られて 【じゃあ…一本終わるまで…】  と、まんまとつられてしまった。 【最近どうですか?生活の方は】  何を聞いてくるんだこの人、と思いつつ 【店やってんですけどね、この騒ぎで閉めていてさっぱりですよ】  なぜか正直に答えていた。紳士は心配そうに、 【それはお気の毒です。早く終わるといいんですがねえ】 【ほんとっすよ】  タバコを一息吸うと、いつもと違う甘い香りとほのかな香辛料のような香りが鼻腔をくすぐり、『あれ?』と上野のタバコを思い出した。 【私の知り合いがね…】  紳士もタバコを一息吸って、吐き出した。 【軍人だったんですけど、戦いが嫌いでね】  愁一は『?』と紳士を見る。 【戦うことを是としない軍人がいるんですか?】  この紳士が悪いわけではないが、少し皮肉を込めた言い方になってしまった。 【戦争をしたい軍人はそんなにいないですよ。そうならないように働いて、そうなった時にも働くのが軍人なんです】  じっくりと吸い、じっくりと煙を吐く紳士の横顔を愁一は見つめていた。  そんなこと言う人を初めてみた。 【その人はね、今目の前で起こっている事態を止めようと頑張っていたんですよ。でも、その途中で図らずも事故に遭ってしまってね…】  愁一も煙を吐いて黙ってそれを聞いていたが、なんとなく気になる言葉だった。既視感とでもいうか…。  どことなく、上野のやってきたことに似ているのだと思う。 【事故ですか…お気の毒でしたね。亡くなったんですか?その人】  紳士はそれには応えずにただ微笑んでいる。 【頭もよく、仕事のできる優秀な人でしたけれど、それでもこの事態は止められなかったとだけね…】  悲しそうな声だった。  それが返事なんだろうなと愁一は認識したが、やはり上野のことが頭をよぎって仕方がない。  上野は言っていた。止めようと頑張ったが限界だったと。近々大きなことが起こると言っていたのが、今の戦いなのだから。 【ただこれからは…もっと酷くはなるだろうね…】  『何がだろう…』そう聞きかけたが、なんだか胸がざわついた。 【失礼ですが、あなたも軍人ですよね】  特有の匂いがするものだ。  上野と同じような…物理的なニオイではなく所作や話し方で香る特別な香り。 【おや、バレてしまいましたか。鼻が効きますね?】  と、紳士はわははと笑った。 【軍人である私が言うのもなんですけどね。関東軍はもう誰も止められない所まで来ちゃいましてね。困ってるんですよ】  少し前に、この戦いが関東軍の暴走なのではないかと仲間内で話していたのは、満更嘘でもなかったんだなと思う。  愁一の脳裏に、あの裏路地でマッチの光に照らされた上野の顔が浮かんだ。  あの時既に、止められないところまで来ていたんだろうな、関東軍は。 【中国で好き放題するってことですかね】  紳士は曖昧に頷くとも首を振るともわからない仕草をする。 【そうならないように…努力はしたいと思ってはいるんですけどね…さっき話した彼に報いるためにも】  紳士は寄りかかっていたフェンスから身を起こし、タバコを一箱投げてよこした。  それを受け取った愁一は、『え?』と紳士を見る。  その箱は上野が吸っていたタバコの銘柄だった。 【これは…】 【お分かりになりましたか。彼が吸っていた銘柄です。差し上げます】  と言って笑う。  やはり、話していたのは上野のことだったか。  紳士は帽子をとって 【ではまたいつか、お会いできたらと思いますよ。安堂さん】  そう言って去ろうとした紳士に、自分の苗字を呼ばれて確信をした。 【お知り合いって…上野さん…でしたか】  その言葉に紳士は立ち止まる。 【はい。優秀な人でした。今の日本軍には必要な男でしたね】  こんな年長の人にまで重用されるほどだったんだ…。 【俺も知り合いでしたが、俺のせいであんなことになって…。今日話を聞いて優秀な人を亡くさせてしまい申し訳ない気持ちになりました。俺がもっと守れていれば…】  紳士は止めた足を愁一に向けて 【誰のせいでもないですよ。特にあなたが気に病むことはない。時代……と言うには些か格好つけすぎですけれど、軍人として彼は十分働きましたからね】  微笑む顔が上野に重なり、日本の軍人も上野やこの紳士のような人が多ければ…と思うしかできなかった。 【それでは…】  紳士が歩き出した薄暗くなった先には、立派な車が止まっていた。  愁一はその背中を見送った後、手の中のタバコを一目見てそれをポケットにしまう。  そうして、上野のためにもやるべき事をやってしまおうと、未だ人が戻らない店へと帰っていった。  2月25日  上野が亡くなってちょうど1ヶ月の日である。  泰然は事前に鋭泰(ルェイタイ)に、この日に会おうと連絡を取っていた。  鋭泰は自分を泰然と呼ぶから、今日は泰然で行くことにしたが、もうかつらはつけない。  愁一は今日を限りに『泰然』を名乗るのはやめることを決めていたのだ。  それは奇しくも、仕事も辞めることに直結していた。  最後の仕事は華々しく。  そんなこともあり今日の服は改めてしつらえた、前とは違うシルク織りの黒いチャンパオに、黒いクーズーを履くという一見地味なものとなった。  錦糸の縁取りはあるが柄はない。  そう、礼服に準えた服を選んでいたのである。  かつらをつけない髪も、今は女将も遣り手の姉さんもいないので、自前でワックスのようなもので後ろへ撫で付けて、それなりの盛装で鋭泰の迎えを待っていた。  店の玄関の上がり框に座り、足を組んでタバコをふかしていると数分で店の前に鋭泰のフォードが止まる。  『時間には正確なんだよな…半分中国人の割に』  左ハンドルの車から最初に降りたのはハオレイで、その流れで後部座席を開けて頭を下げ鋭泰が車から出るまで待つ。  細身の体が車から降り、ハオレイに礼を言ってるような素振りをしてから二歩三歩と店に近づいてくる様を店の中から見ていた泰然は、タバコの煙を吐き出しながら 「何様なんだよあいつ」  と表情を変えずに呟いた。  鋭泰は晴れやかな顔で赤く塗られた店の引き戸を開けて 「いやいや、今日も着飾ってくれてありがとう泰然。前回とは違う、もう一つ上のランクの店を予約した甲斐があるよ」  両手を広げて大袈裟に言いながら、白のドレスシャツに紺色のベロアスーツの鋭泰は手でも取ってくれようとしているのか、ほぼステップを踏むように泰然へと近寄って来る。 「気色わり…」  泰然はそう呟いて実は右手に持っていた銃を上げ、2mあたりまで近づいてきた鋭泰の両足の甲を一発ずつ撃ち抜いた。  鋭泰は銃を確認はしたが、それでなぜ足がもつれたのかわからないような顔をして泰然を見つめたが、そのまま前にツンのめるように倒れ込んでくる。  自分に触れない距離を計算したつもりだったが思ったより手が長く、鋭泰の手が泰然のつま先に届いていて 「なにをするんだ!」  とそれに縋って、文字通りの血眼で這い上がってこようとした。  その必死な目を見て一瞬で血が湧き上がり 「さわんじゃねえよ!」  と、腹立ち紛れに思い切り鋭泰の顎下真ん中を蹴り上げた。  鋭泰は真後ろに捲れ上がり、後頭部を打ち付ける。  『ゲェェッ』と苦しそうな声を上げながら足をバタつかせている鋭泰を、銃声を聞いて飛び込んできたハオレイが目にすることとなった。 「泰然!お前ええええっ!」   こちらも激昂して泰然を睨みつけると、唸るような声を上げて巨体を嘘のように跳ね上げ泰然へ向かって突進してきた。  立ち上がっていた泰然は、そんなに距離のない突進ではあったがタバコを咥えたまま冷静にその膝を両方撃ち抜いてやる。 「ぎゃあああ」  鋭泰と同じように前にのめって倒れ込み、腹が支点となったのか顔面まで地面に擦られることになっていた。 「腹がデカすぎんだよ」  銃を手で遊びながら、泰然はせせら笑う。  それでもハオレイは泰然を睨みつけ、少しでも一手を打とうと匍匐前進の如く這ってきた。 「泰然!ハオレイになにを!」  顎下の窪みを蹴られているためか、嘔吐く(えずく)ような苦しいような弱々しい声になっていたが、まるでハオレイを庇うようなことを鋭泰は言ってくる。 「美しい師弟愛か?ハオレイはお前にとってそんなに大事か」  膝が使えずに腕だけで近づいてくるハオレイに、愁一は再び銃を向けた。 「組織で役職をもらった時からの部下だ…大事じゃないはずがないだろう」 「じゃあ……お前にもわかってもらおうかな……」  と言いざまに、這って来ようとしているハオレイの手の甲を両方撃ち抜いた。 「ぐうううううっ」 「ハオレイ!」  土間で蠢く二体。 「俺のこと豚だのなんだの言ってたけど、お前らの方がよっぽどだぞ。今から素敵な場所へ案内してやるから、楽しみにしておけ」  そう言ってハオレイの後頭部を銃の台尻で殴りつけ昏倒させた泰然は、首を曲げて鋭泰へ向き直ると 「さて、お前はどうやって運んでやるかな…」  と嫌な笑みを浮かべて鋭泰に近づいていった。

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