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第32話 気持ちの居場所

 コンクリートの箱の中のような部屋は、以前ヂーフェイを詰めた部屋だった。  前と違うのは、この部屋に入ったところに一枚檻のようなフェンスが施されていることだ。  そのフェンスの前に立って部屋が眺められるようにしつらえてある。  とりあえず今は、泰然、星宇、鋭泰、そして、『多分』ハオレイも、全員大きな檻の中にいた。  鋭泰(ルェイタイ)はその時のヂーフェイと同じように部屋の真ん中にブッ刺さった鉄骨に後ろ手に縛りつけられ、正座のようにさせられていた。  運ぶ際に暴れ回った鋭泰は、結局昏倒させられてここに運び込まれることとなりまだ目を覚まさないままぐったりと俯いている。  そんな鋭泰を、泰然は正面三メートルほど離れたところの丸椅子に座って眺めていた。  新しく仕立てたのかは知らないが、鈍色の光沢を帯びていた濃紺のスーツも、土間でのたうち回って土に塗れてしまっている。  組織の中では真っ当に振る舞っていたのだろうが、少なくとも泰然の前では異常者の様相を呈していたから、ベロアのスーツ、とドレスシャツが気持ち悪さを助長していた。  不意に銃声が響き、鋭泰の膝の間で銃弾が飛び散った。  それに気づいて、時間差で 「ヒッ!」  と声をあげ立ちあがろうとした鋭泰は、固定された腕と動かした足の甲の痛みに顔を歪めた。  ヘナっと膝をつき、その衝撃と手首の痛みでやっと己の現状を理解した。 「泰然!お前何してる!私にこんなっ!ひぃっ!」  鋭泰が怒鳴りつけている最中にまた銃声が響き、鋭泰は熱さが走った耳へ瞳を向ける。  そこから滴る赤いものが濃紺のベロアのスーツに目立たない赤い流れをつくり、胸から下がって地面に滴っていた。 「ピアスとかいう装飾あるよな。あ、それにはちょっとでかいか」  弾け飛んだ耳たぶは、すでに穴ではない。 「こんな真似してタダで済むと思ってるのか!ハオレイ!ハオレイはどこだ早くこいつ…」  いつもならこんな目に遭えばすぐにやってくるハオレイが来ないことを疑問に思い、鋭泰は首を回して部屋を見回した。  きっとどこかに縛り付けられているのだろうと思っていたが、不意に見た右の壁際に異様な生物を見つけて息を詰める。 「獅子(スーズィ)……?(ライオン)」  恐怖心と共に信じられない気持ちが大きくて、止めていた息をようやく吐き出せた時はその生物が咥えているものが漸く理解できた。  それは人の腕だ。しかも、その腕には鋭泰がよく知った刺青が施されている。  それを理解した途端に、胃から競り上がるものに耐える。  泰然は 「福福(フーフー)だ。可愛いだろ?」  同じ空間で、隔たりもなく猛獣と相対している鋭泰と泰然。  気づけば自分の脇に星宇も居た。 「フーフーはいつもならあっちの部屋の檻の中に住んでるんだけど、今日は特別だから出してやったんだ」  可愛いペットを見るようにフーフーを見つめて泰然は言う。 「事情があって餌をあげられなくてな、だいぶ腹が減ってたみたいで…さっきでかい餌を食って今は機嫌が良さそうだよ」  相変わらず優しい目でフーフーを見つめる泰然とは逆に、鋭泰は少しだけ体が震えていた。  『でかい…餌?あのライオンの口周りが赤いのはまさか…。あの胸元にある赤い塊は…… 』それを考えるのを頭は拒否している。 「あの刺青はハオレイのものだ…福福(あいつ)が咥えているのは……」  吐き気で顔が向けられないが、それでも確認がしたくて目だけで追おうとする鋭泰をみて、 「しっかり見てやりなよ」  と、不意に星宇が頭を持ってフーフーの方へ向かせてやる。  フーフーが咥えているのはどう見ても人間の腕で、今は肩の辺りを大人しく噛んでいた。  歯に気持ちいいのだろう。  顔を強引に向けられて、はっきり目にしても腹心の部下がライオンの餌になったなどと言うことは理解が追いつかない。  部下と言ってはいたが、ハオレイは事実上鋭泰には青幇(そしき)の中では唯一頼れて、素が出せる相手だった。  自分にとっては大事な部下がこんな目に遭って、鋭泰(ルェイタイ)は思っている以上に動揺している。 「お前がうちの店に入れようとした若い男の刺客な、うちではヂーフェイって名前つけさせてもらったけど、そいつもさ…ここでフーフーと仲良くしてたんだよ」  泰然が薄ら笑いながらそう言うのに、鋭泰は背筋が凍る。 「見てないから知らねえけど、仲良かったぜ。ヂーフェイ(あいつ)は、フーフーと恋人関係にもなったしな…文字通り一心同体だ」  泰然はくっくっと、嫌な笑いをした。 「恋人関係……?」  鋭泰の元々白い顔がますます青ざめた。恋人関係というのは…まさか…。  もう『まさか』ばかりが頭に浮かび、鋭泰はこんな目に遭っているのとは別に、体調までそこないそうだ。 「志遠(ジーユエン)が……」 「へえ、志遠(ジーユエン)ってのがあいつの本名か…。大層な名前だな。親御さんはさぞや期待を込めてつけたんだろうにな」  銃を弄びながら泰然は、ヂーフェイ…もといジーユエンの綺麗だが邪悪な目を思い出していた。  戻ってこなかったから消されたとは思っていたが、まさかそんな目に遭っていたとは…。鋭泰の背筋がますます凍りつく。  少し…泰然を舐めていたかもしれなかった。 「泰然。私をどうしようと言うんだ。私に何かあったら、青幇も黙ってはいないぞ」  それでも青幇傘下の幹部の矜持で、怯えはおくびにも出さずに冷静に努める。 「そんな体勢で虚勢を張ってもねえ…青幇はお前の事大して気にしてないみたいだぞ?」  イワノフに無理を言って集めてもらった情報だと、青幇の上級幹部らは国民党と関東軍との関係を咎める鋭泰を、少々煩わしく思っているらしかった。 「そんな訳ないだろう!私は組織に尽くしている!仕事もしてるし、ちゃんと貢献もしてるんだ」  馬鹿にされたことがよほど悔しいのか、鋭泰はむきになって怒鳴ってくる。  泰然は椅子から立ち上がり、鋭泰に近づく。 「俺に言われたってな。それより…」  目の前に立って、頭頂部の髪の毛を掴んで顔を上げさせると、 「上野さんの暗殺成功おめでとう。よかったな」  言いながら掴んだ髪の毛を、握り締め根元から抜くように捻りあげた。 「痛いだろう!やめろ!何なんだこの仕打ちは!お前が断ったから違うやつを雇っただけだ。その仕返しなら自業じとくっ!ぎゃっ」  一瞬の間にブチブチブチッという音がしたかと思うと、鋭泰の変な悲鳴と共に泰然の手に大量の髪の毛が握られていた。  一気に一掴みの毛を根こそぎ引っこ抜かれ、じわじわと頭皮から顔に血が流れ落ちてくる。  泰然は大量に抜けた髪の毛を後ろに放り投げて、まだ残っている髪を再びつかみ 「そういうことじゃねえ…。俺は目の前で見てたんだよ。誰に殺させてんだってえ話だわ……」  怒りを抑えた声で、束ねた毛を揺さぶってまだ静かに言い聞かせる。  抜かれた箇所はじわじわと流血を続け、その周辺の毛をまた握られているものだから、痛さは想像を上回る。 「上野さんを殺るにも、格ってもんがあるだろうよ、ん?」  まだ痛みの残る頭頂部に顔を歪めながらも鋭泰は 「上野なんて、あんなやつで十分だ。上野なんか!」  真っ赤に濡れる顔で泰然を睨みつけ、上野への恨みを鋭泰は吐き出した。 「あいつがいるから上海が戦場になった!上野がいたから満州が日本のものになりそうだ!上野がいたから清朝の民族が決起したっ!上野がっうえうえっ!うぎゃあああっ」  再び髪が引き抜かれる音がして、掴まれていた髪がまた大量に引っこ抜かれて鋭泰の顔には滝のように血が流れ出た。 「何も知らねえで、上野が上野がってうるせえな!てめーが実力もねえくせにできる男を羨んでるだけだろうがっ!」  泰然は抑えきれなくなった感情を暴発させ、鋭泰の顔面を何度も蹴りつけ、後ろの鉄骨に打ち付ける。  そして顔を踏んだまま 「お前が名前を言うな。お前が軽々しく呼んでいい名前じゃねえ!あんな…あんなアヘン中毒に殺されていい男じゃないってことがわからない時点でお前もクズなんだよ!」  そう叫んでからまた何度も蹴り続け、最後に横から蹴りをいれ頭を薙ぐように右足を旋回させた。  星宇は、今回のこの仕事が最後だと泰然から聞かされていたから、手を出さないようにじっと見守っている。  他の仲間も部屋の外にいた。  ハオレイを運ぶのにリーハンの力は必要だったし、車の運転にイワノフも必要だった。  泰然の最後の仕事に仲間が全員その場に集まっている。  最後の慟哭を皆が聞いていた。  口には出さないが、皆わかっていた。  上野がいなくなったことが、泰然の中でどれだけの消失であったかを。  鋭泰は顔を踏まれたこと自体が屈辱なのか、青幇幹部の意地なのか、蹴られてサングラスもぶっとんだあの青緑色の目で睨んでくる。 「それにな、俺の代わりにあのアヘンクズを選んだ事は、俺のプライドが許さねえんだよ。そこも理解できないバカ脳は、ここでぶちまけられても文句言えねえだろ」  銃を血だらけの脳天に当てて、押し当てると 「ぐっ」  鋭泰の喉の奥が詰まったような音をあげて、覚悟を決めたように目を瞑った。 「お?小便漏らして命乞いはしないのか?」  皮が捲れそうなほど真っ赤になった頭皮に銃口を当てられて、痛みは相当だろう。  それだけでも辛いのにいつ撃たれるかわからない恐怖も、徐々に精神を蝕んでくる。 「命乞いなんかはしない」  鋭泰は未だじっと目を見つめてくる。 「しないのか。そんならそろそろバカ脳を?」  プライドの張り合いだった。  鋭泰はこんな目にあっても情けない姿は晒したくないし、泰然は上野の名誉と傷つけられた自分のプライドをこの男で晴らしたい。  銃口は、いよいよ撃たれるのか…と覚悟するほど強く押し当てられたが、不意にその痛みがなくなった。 「お前は簡単には殺さねえよ」  銃を外して顔の近くでそう言ってやると鋭泰から3歩ほど離れ、縛られている両手の肩の辺りを左右とも撃ち抜いた。 「うぎいいっうううっ」  鋭泰のくぐもった悲鳴と銃声がコンクリートに呼応して、フーフーが立ち上がり唸り始める。 「うるさかったな、悪かったよフーフー。もうすぐ終わるからな」  泰然は今度はフーフーに近寄り、そばにあったもう片方のハオレイの腕を持って鋭泰へ放り投げた。 「おい!なにを!」  身体でそれを弾こうとしたその時、フーフーが咆哮と共に鋭泰へ飛びかかってきた。 「ぎゃあああああああああ!」  耳を塞ぎたくなるような悲鳴が聞こえ、泰然と星宇は耳を塞いで成り行きを見守る。  実はフーフーは太い鎖で元の檻に繋がれており、部屋中を歩き回れるわけではなかった。  その行動範囲は、ちょうど鋭泰の鉄骨まで。  フーフーは鋭泰の脇に投げられたハオレイの腕を取り戻そうと飛びかかってきて、鋭泰の右側を爪で大きく抉ったあと、腕を咥えて戻っていく。  流石に猛獣に飛びかかられる恐怖は耐え難い。  今のでだいぶ精神を削ったらしく、鋭泰は右顔面を深く抉られて、スーツの右側を血でぐしゃぐしゃにした状態で放心していた。 「異様な怯えようだったな」  面白そうに笑って再び近寄ってきた泰然に、鋭泰は赤い唾を吐きかけた。  それは泰然のチャンパオの太もも辺りを汚し、それをみた泰然は笑いながら近づき鋭泰の胸のチーフを抜き取った。  そしてそれを拭うと 「さっきも言ったけど、フーフーはさあ、餌をくれる人間がこなくなっちゃってなぁ、ヂーフェイを食ってから何も食ってないんだよ」  そう言いながら服から拭ったそのものを、鋭泰の顔の血を拭うふりで塗り広げてやった。  本当に嫌そうな顔をして顔を左右に揺らす姿に声を出して笑い、『自分に跳ね返るからな、気をつけな?』と、言ってフーフーをみた。  よほど気に入ったのか、元の位置でハオレイの肩にかみついているフーフーを見ながら 「人の味を覚えちまった猛獣だからさ、あんたが寝てる間にハオレイ投げたら、美味そうに食ってたわ」  笑う泰然の前で、鋭泰はそこで吐いた。 「あっぶね、被るとこだったわ」  泰然はすんでのところで飛び退き、銃身を手で弄びながら見下ろす。 「お前ら気狂いか!」  鋭泰(ルェイタイ)はだいぶ弱くはなってきたが、それでもまだ蒼い目で睨んでくる。 「でも俺、青幇(お前ら)のもっと酷い拷問知ってるよ?」 「私達は猛獣なんかに頼ったことなどない」 「あ〜そこは許してよ。か弱い一般人なんだよ俺は。猛獣の手でも借りないと、なかなかこうはね」  言いながらその腹に一発ぶち込んで泰然は近寄った。  嘔吐物があるので、鋭泰の正座のようになった足の上に立ち、鋭泰を見下ろす。 「狂ってるのか!泰然っ」  声が裏返って鋭泰のプライドが漸く崩れ始めた。 「それは自覚してるよ。でもな、流石にここまでやるのは滅多なことじゃない…誰がそうさせたのかまだわかってないのか?」  星宇から見ても、今日の泰然は常軌を逸していた。  仕事も冷淡にこなすが、情のようなものがどこかにはあった気がする。  しかし今日はそれがない。  本当にこんな容赦のない泰然を見たのは、星宇ですら初めてだった。  それの原因を理解している星宇は、自分の胸の痛みの正体をを測りかねている。 「でな?この角度で撃つと、心臓いっちまうらしくてな」  泰然は、座った鋭泰のその肩口に銃口をあて、そこをゴリゴリと押しながら何やら説明を始めた。 「まあ心臓いっちまうと、お前死んじゃうだろ?今日はそう簡単に死なせるわけにいかねえからさ、こういう角度で撃つと…」  そういった途端に引き金を引き、弾丸は瞬時に鋭泰の腰から抜けて地面に突き刺さる。 「ブフッ!」   その直後に、鋭泰の口から血が溢れ口元から喉元へと流れていった。 「あー、ほんとだ。この角度だと肺を貫通して腰から抜けるって聞いてたんだ。へえ…」  鋭泰はこの狂気に、正直気持ちが萎えてきた。  胸が苦しくて、息がしづらくなってくる。  泰然(こいつ)をこんな風にしたのは自分だと、今やっと気づいた。 「これな、最初に銃を買ったオヤジに拷問でやると相手の気力削ぐって教わってたんだけどさ、普通に考えて人道的に実践なんかできねえじゃん?お前で試せてよかったよ」  すでに泰然の中では鋭泰は人ですらないらしかった。 「たっ泰然!俺が……もう…」  血が溢れ出ている鋭泰(ルェイタイ)の口から、弱気な言葉が溢れそうになる。  未だ逡巡しながら鋭泰は唇をかみしめていた。  数十センチ前に立っている泰然は、 「あ?まさか命乞いなんてしねえよな。青幇の小せえ下請けの大幹部さんだしなあ!命乞いなんてするわけがねえよな」  冷徹な目で見下ろし、顔面に膝蹴りを一発入れて膝から降りる。   泰然はだいぶ地面に浸透していた嘔吐物の上に立ち、その足でまた顔を踏んでやった。 「許せと言われたって許さねえし……そんな問題を超えてるのもわかってないお前の命乞いなんか効かねえからな」  靴の裏でにじられて、必死に頭を逃すがそれも叶わない。  そうして泰然は再び片足を膝に乗せ、髪を掴むと自分の左後ろへと角度をとる。 「見えるか?あっちの扉な、アヘン中毒者を軟禁してるところなんだ」  もうその気力もないだろう鋭泰に見せるように顔を向けてやる。 「10人はいるかな…」  泰然は鋭泰から離れ、ポケットからアヘンの入った小さな紙袋を取り出した。 「これな〜んだ」  鋭泰はすぐに理解する。 「どうするつもり…ぶふっげほ」  鋭泰が言い終わる前に、泰然は袋を開けて全てを鋭泰にかけた。 「なにをっ…げほげほっ!」  肺が片方潰されてただでさえ咽せるのに、粉をかけられてより一層蒸せて胸が痛くて苦しいしかない。  しかしそれと相まって、アヘンの粉をかけられた事実も鋭泰を不穏な気持ちにさせる。  顔を上げると、人としては見たことのない笑顔の泰然が立っていた。 「きったねえアヘン中毒者にしがみつかれる喜びを、お前も味わうといいかなと思ってな……」  言いながら泰然はそのドアへ向かって歩き、持っていた医療用マスクで口元を覆った。  中はアヘンの煙が充満している。少しも吸いたくはないので医療用をわざわざ用意した。  星宇もマスクをして、ドアのある壁と檻の間に移動する。 「きっと楽しいぞ」  泰然がドアを開けると、ムワッとした煙が天井へ上がり匂いが途端に充満した。  その中からフラフラと3人くらいの痩せ細った人間が現れる。  最初泰然に興味を持ったが、もう一袋の粉を鋭泰の方へ投げてやると紙の小袋から撒き散らされた粉が舞い上がり、その匂いに釣られてそっちへ向かう。 「いやだ…いやだやめろ!臭い!くるな!」  部屋の中からはまた数人が出てきて、アヘンの匂いに釣られ鋭泰の元へ寄っていった。 「やめろ!やめてくれ!泰然とめろ!どかせ!」  粉のアヘンをどう吸うのかまで泰然は知らない。だがこの中毒者たちは、そんな粉でもありがたがって鋭泰へ寄って行く。  この光景を泰然は笑って見る事はできなかった。  それは、上野に抱きつくようにして刺してきた中毒者が思い起こされるから。  アヘン中毒者数人に縋られて、鋭泰は罵詈雑言の限りを尽くし、できる範囲で暴れ、蹴散らそうと痛いだろう足を振り回す。  泰然も檻から出て星宇に並び、その光景を笑うでもなく眺めていた。  自分では気づかなかったことがある。  鋭泰に怒鳴り散らした時、自分で言っている言葉に自分で驚いていた。  上野の殺され方や、殺した相手の汚さや惨めさ。『大事な人』がそんな奴に殺された人間の叫びだった。  こんな気分になるなら、まだ自分が殺した方がマシだったとさえ思う。  『大事な人』ってなんだと自分に問うと、恋愛感情ではない。しかし恋慕にも似た…肉親への想いに近いものか…。  満州を出てから必死に『居場所』を探した。  苦労して今の『夜蝶楼』を手に入れて物理的な居場所は手に入れたが、それからの腹の中のぐるぐるが悩みでもあった。  『居場所』は得たのに、なぜだか満足がいかない。  それがさっきわかった。  気持ちの『居場所』がなかったのだ。  両親に裏切られたも同然で一人で生きてきた自分は、身を置く居場所があればいいと思っていた。だから店を手に入れた。  しかし、やはり14歳はまだ親を慕いたかっただろう年齢だ。そこから気持ちの居場所探しも、同時に始まっていたのだろう。  そして、その気持ちの居場所探しの終着点が、『愁一』にとっては上野だったのだ。  隣に立つ星宇や、希佳(紘一)が気になったのも多分それで…この子達の力になろうと無意識で思っていたのは、自分がそれを求めていたからだった。  上野が消えた今、その消失感は測り知れない。  それを自覚した瞬間、周りの音が消えた気がした。『消失感』が胸を締め付ける。  泰然の両目から涙が溢れた。  上海に来てから7、8年経つが、初めて泣いた。  大事なものを失った涙なのかはわからない。  でも大事なものを失った復讐として今自分はここにいるのだと気づいた。  だからハオレイを先に制裁した。  鋭泰(あいつ)は今、俺の気持ちがわかったのだろうかと、鋭泰を見る。  アヘン中毒者に縋られて服までビリビリにされ、惨めな姿で身体についた粉を舐めまわされて、情けない声をあげている鋭泰を見つめている。  顔面が血塗れで、鼻が変な方に曲がってる無様な姿はもしかしたら自分の内面かもしれない。  今日の今日まで気づかないという無様を晒して、『大事な人』を失くしてしまった自分だ。  そう思いながら…涙を拭きもせずマスクを外し、外灘の外れで老紳士にもらったタバコに火をつけた。  上野が吸っていたタバコだ。  懐かしい香りに包まれた。  星宇は、泰然がタバコを吸う一連の動作で何気なく泰然を見上げてから、その涙に驚いて顔を見つめてしまった。 「見るなよ…」  静かに、少し照れたように言ってタバコを吸って煙を吐く。  その香りが『もういいだろう?充分だよ』と言っているようにまとわりついてきて、それに小さく笑うと 「楽に死なせたくはなかったんですけどね…」  と、一言呟いてから撃鉄を起こし、檻の隙間から鋭泰へ向かって銃を撃った。  それは銃に残った最後の一弾だった。

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