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第3話 マシュマロハウス事務所
家事代行会社マシュマロハウスの事務所は、新宿三丁目の雑居ビル二階にある。
夕暮れが過ぎて空に群青が降りた頃、使冴は事務所に戻った。
「ただいまぁ。あれ? もう店長だけ?」
事務所の中に他のスタッフの姿がない。
白髪交じりの頭に似合わない、鍛え上げられた背筋と上腕筋が見える。
マシュマロハウスなんて可愛い店名からは程遠い、鋭い眼光が振り返った。
「スタッフルームに倫太郎がいるだろ。上がりは、お前ぇが最後だ。お疲れさん」
「そっか、そうだよなぁ。疲れたぁ」
家事代行の仕事は、時間の調節が割と自由だ。
早ければ十五時上がりが出来た時期が、使冴にもあった。
「最近、俺にシフト振り過ぎじゃない? 減らしてほしいなぁ」
ソファにどかりと腰掛け、アイスコーヒーの蓋を開ける。
「御指名が多いんだから仕方がねぇだろうが。天使すぎる家政夫さんよ」
いつも不機嫌で口の悪い店長が、いつもより不機嫌そうだ。
「俺に言われてもさぁ。取材を受けろっていったの、店長じゃん」
「あれは仕方がねぇ、付き合いだ。嫌ならもう写真、撮られんなよ」
「気を付けてるよ。でもさぁ、隠し撮りされたら、どうしようもねぇよ。不可抗力だよ」
つん、と顔を背ける。
何となく、じっくり見詰められている視線を感じる。
事務所の扉が開いて、倫太郎が顔をのぞかせた。
「あ、使冴君、おかえりなさい。今日も遅くまで、お疲れさま」
「倫太郎さんも、お疲れ。相変わらず店長に事務仕事、やらされてんの?」
マシュマロハウスでのハウスキーパー歴が長い|根元《ねもと》|倫太郎《りんたろう》は、現場の傍らで事務仕事を任されている。
最近は、事務と家事代行が半々といったバランスだ。
「夏場は外に行くより、事務所でデスクワークのほうが涼しくて、ちょうどいいよ。暑さが堪えるって、歳かなぁ」
倫太郎が控えめに笑う。
笑顔と同じで性格も控えめな人だから、任されたら断れないんだろう。
店長とは付き合いも長いらしいから、余計だ。
「三十三歳なんて、全然じゃん。店長なんか、いくつよ? 六十だっけ?」
「俺ぁ、まだ五十六だよ。年寄扱いすんじゃねぇ」
使冴を睨みつける店長の隣で、倫太郎がクスクスと笑っている。
性格は違うのに、昔から妙に馴染んでいる二人だ。
「暑さで死ぬかもって感じるの、倫太郎さんだけじゃねぇから安心して。俺もだし」
「使冴君は、今年で二十五歳だっけ。若くたって、辛いよね」
倫太郎の手が使冴の胸を、するりと撫でた。
「夏は暑さで消耗して、疲れるでしょ? 家事代行は体力仕事なんだから。余計な疲労、溜め込まないようにね」
倫太郎の顔が近付く。
息がかかるほど近くで話されて、思わず顔を離した。
使冴の顔を見おろして、倫太郎がふわりと笑んだ。
「それじゃ、先に上がります。お疲れさまでした。使冴君、また明日」
「倫太郎さん、おつかれ」
ひらひらと手を振って、事務所から出ていく倫太郎を見送った。
(相変わらず距離が近い。スキンシップ過剰だ)
倫太郎の使冴への距離感は昔からだ。
だからといって、それ以上はないのだが。
(仕事の同僚以上の好意を持たれているんだろうな、とは思うけど、ね)
気持ちに応える気がないから、気付かない振りをしている。
横から店長の視線を感じて、使冴はおずおずと振り返った。
「倫太郎の言葉の意味を噛み締めろ。いい加減に夜の仕事、辞めやがれ」
「ゲイ風俗のシフト組んでんのも、アンタだろ。白玉さんよ」
仕事中の美声を仕舞い込んだ低めの声で、じっとりと冷めた視線を返す。
白玉の目が、シフト表に向いた。
「ウチがやってんのは、風俗じゃねぇ。あくまでアルファとオメガ優先の、恋愛結婚斡旋所だ。手前ぇが遊びに傾倒しすぎてるだけだ」
「言い逃れが苦しすぎんだろ。俺だって遊んでるつもり、ねぇよ」
不貞腐れた声で、使冴は目を逸らした。
「なら本気で恋人探し、してんのか? 特異なオメガだからって漁りやがって」
「別に、漁ってねぇから!」
この世界には、男女の他に──第二の性《バース》が存在する。
今ではαとΩは、一割以下だ。実際に出会う機会もめっきり減った。
だからこそ、斡旋所は重宝される。
社会的希少性の高いαやΩが出会って、体を含めた相性を確認し、恋愛に繋げる場所。
それが白玉の営む恋愛結婚斡旋所『マロー』だ。
激減したαとΩの救済措置として、斡旋事業には国が助成金を出す。
ギリギリ風俗のグレーな商売も見てみぬ振りをして許可が下りるのは、第二の性を増やしたい国政事情もある。
「俺は元々、店が用意したサクラだろ。オメガってこんな感じですよ、って教えてやるための、お試し要員だろ」
今の世の中じゃ、αもΩも滅多に見ない。本物なんて、ほとんど幻だ。
αにΩのフェロモンを体験させる、それが使冴の仕事だ。
「あれは立ち上げ当初のオプションだ。辞めていいって再三言ってんのに、続けてんのは手前ぇだろ」
「何のかんの、予約とるじゃん」
αにΩのフェロモンを体験させるのは、大変危険な行為だ。
Ωのフェロモンで、αは自制を失うほどに酔う。レイプまがいの事件や事故も多い。
それ以上に危険なのは、Ωの人身売買をする闇取引だ。
絶滅を危惧されるほど希少性が高いΩは商品にされる。
(フェロモン量のコントロールできるΩなんて、他に聞いたことねぇし。自分が希少価値だって、自覚はあるけどさ)
その手の人間に誘拐されたら、商品としてさぞや重宝されるんだろう。
身の毛がよだつ話だ。
「プロフィール下げなきゃ、指名が入るんだ。組むしかねぇだろ。斡旋所は充分、軌道に乗ってる。お試し要員は、もういらねぇ」
「アルファのフェロモンで発情もしねぇし商売向きだろ。変わったオメガの|冴《さえ》くん、いたほうが繁盛すると思うけどなぁ」
斡旋所『マロー』の客には暗に「天使みたいなネコ」と呼ばれている。
昼も夜も、客は天使な使冴が好きだ。
「昼間の仕事で面が割れ過ぎだ。潮時だろ」
「もしかして、夜の仕事辞めさせるために、取材を組んだの? そこまでする?」
「こうでもしねぇと、手前ぇは辞めねぇだろ」
白玉が苦虫を噛み潰した顔をした。
SNSのバズりに便乗して取材を受けろなんて、店長らしくないと思っていた。
そういう意図があったのなら、納得だ。
「なんで、そうまでして辞めさせてぇの? 店が儲かりゃ、いいんじゃねぇの?」
使冴からすれば今更、気を遣われても、と思う。
特異体質の使冴を利用して、散々儲けてきただろうに。
「……砂川とは、まだ繋がってんのか?」
白玉の問いかけに、使冴は口を噤んだ。
「使冴にとっちゃぁ兄貴みてぇな存在だろうがよ。アイツぁ、もうダメだ。根黒組にガサが入んのは時間の問題だ。白玉組にいたけりゃ縁を切れ。最後の忠告だぞ」
白玉の目が本気だ。
胸に冷たいものが流れた。
白髪になるほど歳をとっても眼光が衰えないのは、やはり本物だ。
(切れるもんなら、俺だって切りてぇよ)
十歳の時に火事で家族が死に、使冴は児童養護施設で育った。
同じ施設にいた匠は、使冴の兄貴分だ。
白玉組が運営するマシュマロハウスに入社したきっかけも、匠だった。
ヤクザだと思って覚悟して入った白玉組は、組とか呼ばれている割にクリーンな、ただの有限会社だった。
それが詰まらなかったのか、匠は完全反社の根黒組に籍を移した。
組替えした今も匠には時々、ヤバい仕事を持ちかけられている。
(その仕事先が白玉の斡旋所だって、店長は気付いているんだろうな)
使冴を指名してくる利用客の中に、匠の仕事相手がいる。
物や情報の運搬、風俗まがいの仕事が主だ。
だから匠の許可なく、夜の仕事を辞められない。
「うちにとっちゃぁ、夜の仕事は半分ボランティアだ。人気者のサクラは、もう必要ねぇ。プロフィールは削除するからな」
白玉の有無を言わさぬ迫力が、総てを悟っているように聞こえる。
焦りより苛立ちが上回った。
「わーったよ。俺だって好きでやってるわけじゃねぇし。昼も夜も良い子ぶってんのは疲れるしよ」
まるで無害な天使の笑顔と当たり障りない言葉を振り撒いて、御機嫌取りをする。
作り込んだ天使の仮面が、最近は重い。
時々、本当の自分がわからなくなる。
「今日はどーすんの? もう辞めたほうがいいの?」
「いいや。今日は一件だけ、行ってこい」
白玉がシフト表を手渡した。
客名をトントンと指さす。
「最近、使冴に御執心の男だ。手前ぇも気に入ってんだろ。これで仕舞いだ」
「あぁ、スミさんね。何回か指名してくれたなぁ、そういや」
興味のない振りをして軽くとぼけた。
さっきスマホで確認した、匠の仕事相手だ。
(ちょうどいいや。この人で終わりにしよう。風俗も、匠兄貴からの仕事も)
白玉と話していたら、急に疲れが増した。
「うちは斡旋所だからな。本気で恋愛する気があんなら、辞めろとはいわねぇよ」
ニタリと笑んだ白玉の顔を流し見る。
特段いつもと変わらない笑みが、何かを含んで感じた。
「……考えとくよ」
何となく引っ掛かりながらも、使冴は夜の仕事の準備を始めた。
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