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第5話 人生リセット
頭がぼんやりする。
体が怠い。
腹の奥にだけ、快楽の余韻が残っている。
(……俺、寝てたのか。昨日は、仕事……いつも添い寝のスミさん)
ズキン、と頭に痛みが刺した。
昨夜は添い寝だけではなかった気がする。
(……うまく思い出せねぇ。この頭痛、フェロモンコントロールしすぎた後みてぇな)
秒針の音が、頭に響く。
聞き覚えのある音だ。
使冴は、恐る恐る目を開けた。
「やっぱ、ホテルじゃねぇよな」
五畳程度の部屋に、キングサイズのベッドが一つだけ置いてある。
壁に掛った時計から、カチコチと音が聞こえる。
閉じたブラインドの隙間から光が入り込んで、薄暗い部屋を照らしている。
頭の中に、記憶の欠片が浮かんだ。
「鎖が、なくなってる」
拘束されていた、と思う。
よく覚えていないが、手足に冷たかった感触が残っている。
(あの指も、冷たかった)
ぞっとするほど冷たい指先を思い出す。
同時に、焼けるように熱い唇の感触まで蘇った。
唇が触れた首筋を、手で押さえた。
「ワケわかんねぇ」
感触を振り切るように手を離す。
起き上がって、自分の姿を眺めた。
「かろうじて、服は着てるけど」
自分の服ではない。
やけに大きなシャツと下着だけだ。
ベッドの下に足を降ろす。
立ち上がった体が、ストンと戻った。
尻がビクンと震えた。
「痛っ! ち、力が……、入らな……」
昨晩、何があったのかを悟った。
「あの野郎」
気力で立ち上がり壁伝いにドアまで歩く。
手すりを掴んだら、意外にもあっさり開いた。
「手枷足枷付けてたくせに、鍵はかけねぇのかよ」
部屋から出たところで、逃げられないような場所なんだろうか。
使冴は思い切って、部屋の扉を開いた。
大量の光が溢れて、思わず目を瞑った。
眩しさに耐えながら、ゆっくりと目を開く。
やけに広いリビングが目に飛び込んだ。
十人くらい余裕で座れそうな、大きいソファが置いてある。
四人掛けのダイニングテーブルを挟んで、オープンキッチンが繋がる。
廊下まで遮る壁がないから、広さを感じる。
「広すぎ……てか、高すぎ」
リビングの窓から見える空が、近い。
遠くに見える道路を走る車が米粒だ。
(どこだよ、ここ。都内か? タワマンの高層階か?)
背中に冷たい汗が一筋、流れた。
「何となくわかってたけど、ヤベぇ奴に拉致られてんぞ、俺」
「歩けたんだ」
後ろから声が掛かって、びくりと肩が跳ねた。
振り返ったら、スミが色のない顔で使冴を眺めていた。
(全然、気が付かなかった。気配なさ過ぎて、怖ぇ)
スミの視線が、使冴の足に向いた。
「足、震えてんね」
「お陰様でな。どっかの誰かのせいで、生まれたての小鹿だよ」
睨み返したつもりが、上目遣いに見上げただけになった。
自分でも情けないくらい、客対応の姿勢が身に付いている。
(コイツはもう客じゃねぇんだから。ただの誘拐犯に、気ぃ使う必要ねぇだろ)
「ふぅん。俺のせいか」
スミが鼻を鳴らした。
言葉が淡々としているから、感情が伝わってこない。
スミの手が伸びてきて、使冴の腕を浮かんだ。
「何すんだ、触んな!」
軽々と使冴の体を抱き上げて、歩き出した。
「ガクガクの足じゃ、歩けねぇだろ。俺のせいだから、責任もって運んでやる」
「責任って」
夜中の出来事が、断片的に頭に浮かぶ。
発情が収まらなくて、何度もスミにしがみ付いて、自分から求めた気がする。
(俺は何で発情したんだ? 何か甘い匂いがしたような……興奮剤とか使ったのか?)
一瞬、アルファのフェロモンだと感じた。
あれは、何だったのか。
自分でもわからなくて、首を傾げる。
スミが使冴の体をソファに降ろした。
ゆっくり降ろしてくれたお陰で、痛みがなかった。
(思ったより、丁寧だ。何か、調子狂う)
行動は極端で強引なのに、触れる手は優しい。
「コーヒーでいいか? ミルクと砂糖は?」
「……ブラック。ホットがいい」
「了解」
カップを準備する伊純の背中を呆然と眺める。
キッチンテーブルに高そうなコーヒーメーカーが置いてある。
(コーヒー、好きなのかな)
だったら少しは好みが合いそうだ。
などと考えて、使冴はブンブンと首を振った。
「抑制剤の効き、普段から悪い?」
手渡されたカップを受け取る。
「……日本の規格じゃ合わねぇから、市販薬は効果ねぇよ。処方薬じゃねぇと」
「ネット診察の予約、しておくよ」
「あぁ、どうも……って。……は?」
あからさまな疑問符を投げつけた使冴を、伊純が目だけで振り返った。
「抑制剤、効かなかったから、抱いた。悪かったな」
「それなら、まぁ」
良いわけがない。
だが、仕方ないと思うしかない。
(何にもわからねぇ状況で、下手なコト言えねぇ)
使冴は、渡されたコーヒーを一口啜った。
温かさが、胃に沁み込んだ。
伊純が、じっと使冴を見詰めている。
「……何だよ」
居心地が悪くて、話しかけた。
「もしかして、久々だった?」
「何が?」
「セックスが」
「そうだけど、だから何だよ」
スミが、目を見開いた。
意外だと言いたげな顔だ。
「言っとくけど、マローは風俗じゃねぇから。恋愛結婚斡旋所は添い寝までだ」
いつも白玉が使冴に言い聞かせる言葉を、そのまま使った。
そういう行為は、匠から無理強いでもされない限り、しない。
「へぇ。規定、守ってんだ」
呟いたスミを振り返る。
「は? 規定って……」
「それが、素?」
「は?」
「話し方とか、表情とか」
全身を舐めるように観察された。
視線が鬱陶しい。
「素だよ、悪かったな。今更、取り繕っても仕方ねぇだろ。天使じゃなくて、残念だったな」
べっと舌を出して見せる。
スミが、小さく息を吐いた。
(今、笑った? 気のせいか)
笑みが似合わな過ぎて、スミを凝視した。
「いいんじゃねぇの。俺は今のほうが好み。綺麗な顔と声で、態度も口も悪ぃの、クる」
かっと顔が熱くなった。
文句を言ってやりたいのに、言葉が見付からない。
「天使すぎる家政とか、天使すぎるネコとか。名前が天久使冴だからって、天使推しすぎだろ」
「うるせぇな。手前ぇに関係ねぇだろ」
近くにあったクッションを、スミに投げた。
(名前イジリなんて、ガキの頃からだけど。コイツに言われると、何かムカつく)
イライラしながら使冴はコーヒーを、飲み込んだ。
「つか、名前も知ってんのかよ。アンタ、俺に何の用だよ」
「まだ教えない」
にべもなく切られた。
やっぱりムカつく。
「それより、まだ聞いてねぇけど」
「何をだよ」
スミの雰囲気が変わった。
瞳の黒が増した気がして、ぞくりと怖気が走った。
「使冴が、根黒の人間か、白玉の人間か。どっちなのかで対応が変わるって、言ったよな」
スミの目が冷たく細まる。
使冴は、ごくりと息を飲み込んだ。
「どっちも何も、俺はマローに登録してる……マシュマロハウスの正社員て、だけだよ」
嘘ではない。
マローもマシュマロハウスも白玉組が運営する組織だ。
「なら、俺のスマホのハッキングは、白玉銀次の指示だと思っていいんだな」
「違う! 店長はそんなこと……」
「なら、誰の指示?」
間髪入れない質問に、使冴は口を噤んだ。
(コイツ、絶対そっちの人間だ。口を割らなきゃ、殺されるか売られる)
名前を知っている時点で、使冴の素性は割れている。
(調べが付いていて、俺にかまをかけてるんだ)
「根黒組の砂川匠?」
スミの問いかけに、心臓が震えた。
使冴は、小さく頷いた。
「白玉組は、根黒組と繋がってんの?」
「繋がってない! 店長は関係ない。俺が、ただ……」
使冴の口が、無意識に閉じる。
「ただ、何?」
スミが目を逸らさずに、使冴を見詰める。
縫い留められたように動けない。
唇が震えて、言葉が出ない。
スミの手が伸びて、使冴の顎を掴んだ。
「砂川は使冴にとって、義理立てするほど大事な男か?」
「義理立て……」
同じ児童養護施設で育った、二歳年上の仲間だ。
子供の頃から兄のように慕っていた。
(今は、どうしようもねぇろくでなしに、なってるけど。それでも、兄貴だから)
使冴は隅から目を逸らした。
「ガキの頃からの腐れ縁、それだけだ」
「色?」
「ちげぇ。切れねぇだけだよ」
乾いた笑いが零れた。
自分を嘲る言葉に、情けなくなる。
「切れねぇ理由を聞いてんだよ」
スミの指が、使冴の顎を上向かせた。
強い力じゃないのに、逆らえない。
使冴は、唇を噛んだ。
「なぁ、使冴。昨日の言葉は、本音だよな」
「昨日の?」
伊純の目を見上げて、記憶がフラッシュバックした。
『すてたぃ』
自分の口から零れた心だ。
(あれが、俺の、本音……)
左の目から、ほろっと一粒、涙が零れた。
「……仕事、しくじると、ボコられて。……ヤられて、動画に撮られて、弱み握られてる」
声が掠れて、視界が揺れる。
言葉にならない感情の塊が、胸の奥で潰えた。
流したくもない涙が止まらない。
スミから強い圧を感じた。
ぞわりと肌が粟立って、使冴はスミを見上げた。
「ぇ……」
唇が、口端を掠めた。
ふわりと柔らかい熱が触れた。
「全部どうにかしてやる」
するりと胸に入り込んだ言葉に、使冴は息を止めた。
淡々とした声音は変わらないのに。
顎を掴む手は強引なのに。
その言葉は優しくて、触れた唇は温かかった。
温もりが、心に沁みて、じわりと広がる。
使冴の目から流れる涙を、スミの指が拭った。
その指はまるで、ガラス細工に触れるように繊細だった。
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