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第11話 御影伊織

 伊純との監禁同棲生活が始まって、一カ月ほどが過ぎた。  本気の告白を聞いてからも、これといって生活は変わっていない。  変わったことといえば、伊純の外出頻度が増えたくらいだろうか。  今日も伊純は午後から出掛けているので、昼食も夕飯も一人で済ませた。  風呂に入って寝支度を整える。 「まだ八時か。時間が経つのが遅い」  テレビもネットもない。  本を読むのも飽きた。  作り置きがいっぱいで、料理も出来ない。  ちょこまかと毎日、掃除しているから、する場所も残っていない。 「いつもなら夜は伊純がいるから、話したりできるのに。今日は遅ぇのかな」  何となくソファにコロンと横になる。 『項、噛みてぇと思うくらいには、好き』  伊純の言葉が不意に浮かんで、ドキリとした。 (それってつまり、リセット後の人生まるごと引き受けてもいいって。あれもそういう意味だったことだろ)  御影組の若頭なら、仕事を斡旋してやる的な意味合いだと考えていたのに。 (何で俺なのか全然、わかんねぇけど)  いつの間に、伊純は使冴を好きになったのだろうと不思議に思う。 「けど、伊純が本気で想ってくれんなら、俺も本気で応えなきゃ」  クッションを、ぎゅっと抱きしめる。 (伊純がいつも使ってるクッション。伊純の匂い、良い匂い……)  ぐっと顔を押し付けていたら、リビングの扉が開いた。 「伊純、おかえり……え?」 「え?」  起き上がった視線の先に、知らない人がいる。  目が合って、お互いに固まった。 「あー、君が天使すぎるオメガ君かぁ。始めまして、こんばんは。噂に違わず可愛いねぇ」  凄い速さで近付いてきたのは、笑顔が眩しいイケメンだ。  誰にでも好かれそうな人懐っこい雰囲気を醸し出している。 (俺は知ってる。こういう無害そうな奴が、逆に危ない。てか、よく見ると目元が伊純に似てる気が)  伸びてきた手が使冴の頬やら首に触れる。 「お肌もすべすべで、綺麗だね。抱き心地もいいかな? 試させてよ」 「は? 嫌だけど。ちょっと、離せって」  有無を言わさぬ速さで、男が使冴の体を抱き寄せた。  首筋に顔を埋めて、使冴の匂いを吸い込んだ。  ゾワゾワして気持ち悪い。 「んー、良い匂い。極上のオメガ様って感じだね」 「やめろ、嗅ぐな。極上とか、知らねぇよ」 「兄貴! 使冴に触んな!」  リビングのドアが勢いよく開いて、血相を変えた伊純が入ってきた。  思わず、伊純に向かって手を伸ばした。 「伊純、伊純! たすけて!」  言葉が出てこなくて名前を連呼する。  もはや涙目の使冴を、伊純が男の腕から奪い返した。  引き寄せてくれた伊純に抱き付く。 「俺が見てねぇところで、何やってんの? なんで、勝手に入ってんの?」  伊純が男を睨み据えて見下ろした。  声が明らかに怒っている。 「俺も天使のオメガちゃん、見たかったからさぁ。抱き心地良いし、気に入っちゃったなぁ。一晩でいいから貸してよ」 「殺すぞ」  伊純の短い言葉が一言、響いた。  男の目が使冴の項を見詰めた。 「殺すほど奪われたくないなら、早く自分のモノにすればいいのに。恋人なら、さっさと項、噛んでさ」 「……恋人じゃねぇよ」  伊純の声が急に勢いを失くした。  男が瞬きをして、使冴を眺める。 「そんだけピッタリ抱き合っといて、恋人じゃないの?」 「これは……アンタが突然、襲ってきたから」  使冴は慌てて伊純から離れた。  離れそうになった使冴の体を伊純が引き寄せ、肩を抱いた。 「付き合ってなくても、抱き合うくらいするだろ」  二人を眺めて、男が吹き出した。 「本当に手を出してないんだ。伊純、何やってんの? 気持ちを秘めすぎて、熟成どころか発酵しそうだね?」 「腐らせるつもりねぇから、黙れ」  伊純が頭を抱えて男を睨んでいる。  睨まれていないのに、使冴のほうが怖い。 「なぁ、伊純。この人、誰?」  怖いから、小声で恐る恐る問い掛けた。  使冴の問いかけに、二人が一瞬、固まった。 「名乗りもしねぇで欲しがったのかよ」 「そういえば、まだだったね。オメガのフェロモンが美味しそうで、忘れてた」  男が、ケラケラと笑った。  伊純が頭を抱えている。  苛々に耐えている感じだ。 (美味しそうって、そんなにフェロモン、出てるかな? 発情期じゃねぇし、伊純のマンションに来てから抑えてんだけど)  使冴は改めて、自分の体をクンクン嗅いだ。 「ごめんねぇ。俺は伊純の兄で、御影伊織だよ。使冴君の二個、年上。俺もアルファだから、オメガのフェロモンには惹かれるんだ」  名前を呼ばれて、顔が小さく引き攣った。  オメガちゃんとか呼んでいた割に、使冴の個人情報は把握しているらしい。 「てことは、御影組の、本物の若頭……」  御影組は優秀な次男が実質の若頭で兄はお飾り、という噂がある。 (よくわかんねぇけど、この人が出来損ないには見えねぇぞ。むしろ人喰ってる感じとか、伊純より雰囲気が怖ぇけど)  今更怖くなって、伊純にピッタリしがみ付いた。  伊純が使冴の腰を抱いた。 「若頭って……あぁ。もしかして、噂を鵜呑みにしてる感じ? 御影の家業について、まだ話してないの?」 「まだ、だけど。時期に話すつもりでいる」  目を逸らした伊純を、伊織が見詰める。  伊織が小さく息を吐いた。 「お前がダラダラ時間稼ぎして手ぇ出さねぇなら、俺の番にしてもいいんだぞ、伊純」  伊織の目が暗い色を灯した。  笑みを消した伊織の圧で、肌がひりつく。  伊純が気圧されているのがわかった。 「なーんて、気持ち抱えすぎて臆する弟の純情、邪魔する気ないけどさぁ」  顔に笑みが戻ると、雰囲気が急に緩んだ。  張り詰めた空気が、ふっと緩む。  秒で切り替わった雰囲気に、使冴は息を飲んだ。 「冗談はさておき、仕事は抜かるなよ。愛するオメガに腑抜けて、家に迷惑かけんのだけはナシだ。お兄ちゃん、庇ってやんねーよ」  伊織の声から冗談めいた調子が消えた。  さっきほどではないが、トーンが低い。 「……わかってる」  伊純が、難しい顔で頷いた。  満足そうに笑んだ伊織の目が、使冴に向いた。  びくっとした使冴に向かって伊織の手が伸びてきた。  気が付いた時には、伊織にキスされていた。 (……え? あれ? いつの間に、唇、舐められて……)  伊純が勢いよく伊織を突き飛ばした。 「手前ぇ、ふざけんな! 帰れよ!」  伊純が聞いたこともないような大声で怒鳴った。  嬉しそうに目を細めて、伊織が笑んだ。 「なるほど、いいね」  舌なめずりした伊織が、満足そうに使冴を眺めた。  訳が分からなくて、反応ができない。  使冴は呆然と伊織を見上げた。 「怒るくらいなら番にして守ってやれよ。項を噛む勇気がねぇなら、俺が代わってやろうか?」  伊織が芝居ががった言い回しをしているように聞こえる。 (わざと煽ってんのか? 弟、嫌いなのかな)  伊純が目を見開いた。 「兄貴には渡さねぇよ。使冴に手ぇ出したら兄貴だろうと本気で殺すぞ」  低い声が凄味を増す。 「奪われたくなかったら、守ってみせろ」  伊織は余裕の表情だ。 「いい加減にしろよ。何がしてぇんだ」  全く怯む様子がない伊織を、伊純が睨んだ。  隣にいるだけで、使冴まで肌がひりつく。 (伊純が本気で怒ってる。伊織さんは、伊純を揶揄って遊んでるだけみたいに見えるけど)  使冴には伊織の言葉が本気に聞こえない。 「何って勿論、確かめに来たんだよ」  伊織の手が使冴に伸びた。  使冴の肩が小さく震えた。  瞬間、伊織が手を引っ込めた。  そっと見上げたら、ニコリと笑みを返された。 「伊純の煮え切らない態度、気にならないんだね」 「伊純にも、考えがあるんだろうから。むしろ、待たせてんのは俺だし」  使冴は、そっと目を逸らした。  今の使冴は、自分の気持ちを探し中だ。  伊純をとやかく言える立場ではない。 「もしかして、使冴君の返事待ち状態? 伊純に興味ないなら、俺にしとく?」  伊織の指が使冴の頬を滑る。  今度は震えなかった。  伊純が伊織の手を叩き落とした。 「兄貴はそれ以上、触るな。使冴は、もっと俺に興味持て」  使冴の体を後ろに引っ張って、伊純が肩を抱いた。 「興味なくは、ないって。好きな食べ物とか、お気に入りのシャンプーとか、聞いたじゃん」 「それ、家政夫目線だろ。そうじゃねぇって、わかっていて、わざと言ってんのか?」 「家政夫目線だけじゃねぇから。本気で考えるために、伊純をもっと知りたいと思ってる。だから、色々聞くんだろ」  伊純が訳の分からない表情をしている。  理解できないと顔に書いてある。 「柔軟剤とかシャンプーも? そのために聞いてんの?」 「好きな香りって、大事だろ。フェロモンだって匂い、あるんだから」 「それは別問題だろ」 「伊純のフェロモンがどんな匂いかとか、知りてぇもん。やっぱ本人が好きな匂いかな、とか」  今の使冴は、自分の気持ちを探し中だ。  だから伊純のことを色々知りたい。そういう興味ならある。 「……そうかよ」  伊純が照れた顔を使冴の肩に押し付けた。  触れた肌が熱い。  顔が赤いんだろうと思ったら、使冴もちょっと照れた。 「なんか、可愛いね」  二人を眺めていた伊織が、楽しそうに笑いを噛み殺していた。 「今日のところは帰ろっかな。じゃぁね、使冴君」 「え? もう?」 「大丈夫、また来るよ」 「はぁ……」  伊織にひらひらと手を振られて、使冴はペコリを軽く会釈した。  物騒な発言に似合わぬ爽やかな笑顔を残して、伊織が帰って行った。 「台風みたいな人だったな。何しに来たんだろ」 「使冴の品定めだろ。あとは俺と……まぁ、それはいいや。どうせ、また来る。面倒臭ぇな」  伊純が至極不機嫌に吐き捨てた。  使冴は、何気なく自分の唇に触れた。 「……なぁ、伊純。さっきさ……俺、伊純の兄ちゃんに、キスされた」  伊純の指が使冴の唇を拭う。 「忘れろ。全部、忘れろ。もう二度とさせねぇか、ら……え? 使冴?」  伊純の指の熱を感じたら、急に涙がぽろぽろと零れた。  どうして自分が泣いているのか、よくわからない。 「あれ……? なんだろ。キスなんか、誰としようと、別に。あの動画だって伊純はもう、観てるのに」 「使冴……おい、使冴!」  伊純が使冴の肩を掴んで、体を揺らした。 「ぁ……はは。変だよな。誰に何されようと、辛いなんて感じたコト、なかったのに」  この部屋は居心地が良くて穏やかで、心の護り方をすっかり忘れていた。 (たかが、キスじゃん。ちょっと触れた程度の、挨拶みたいなもんじゃん。あの人は伊純の兄貴で、悪意だってなくて、怯える必要もないだろ)  自分に必死に言い聞かせるのに、手が震える。 (キスされた後も、普通に会話できただろ。なのに、なんで今更。伊純と二人きりになった途端に、涙なんか、出るんだよ)  伊純の手が、使冴の顔を包んで見詰める。 「自分が今、どんな顔してっか、わかってるか?」 「……俺、どんな顔……してる?」 「……痛いって顔、してる」  使冴の体を、伊純がふわりと抱いた。 「もう、我慢しなくていいから。痛いも辛いも、全部吐き出せ。お前から出てくるもんは全部、俺が受け止めるから」  抱き寄せた顔を、胸に押し付けられた。 (ぁ……伊純の匂い)  クッションよりずっと濃い匂いを感じた瞬間、視界が溢れる涙で歪んだ。  どうしようもない感情が、涙と一緒にとめどなく溢れ出る。 「……知らない奴に、キスされんのも、触られんのも、怖い。匠兄貴の取り巻きに囲まれた時のこと、思い出す」  使冴の体を、伊純が強く抱きしめた。 「もう誰にも触れさせない。使冴に怖い思いも、痛い思いも、二度とさせねぇ」  抱きしめてくれる体温に安心する。  伊純にしがみ付いて、流れる涙が服に沁み込んでいくのを感じるのが、精いっぱいだった。

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