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第19話 お兄ちゃんのお仕事①

 家に帰ると、リビングには伊純しかいなかった。  ソファでノートパソコンに目を落としていた伊純が顔を上げた。 「おかえり」 「ただいま。使冴君は? 部屋?」  いつもなら夕食の準備に勤しんでいる時間だ。  姿が見えないのも不自然だが、それ以上の異変が充満している。  リビング中に、使冴のフェロモンが漂っていた。 「部屋で休んでる。飯は使冴の作り置き、適当に皿に盛ったから、レンチンして食って」  パソコンに視線を戻した弟の後姿を見詰める。  猫背を丸めて、顔を下げる。  言いたいくない話を隠している時の態度だ。 (もしくは、相談事を話せないでいる時の態度、かな。わかりやすいねぇ)  表情や態度がそっけない伊純の感情の機微に気が付けるのは、家族くらいなものだろうが。  口下手な弟の本音を引き出すのは、いつも苦労する。 (この状況じゃ、何があったかなんて一目瞭然だけどね)  ネクタイを緩めながら、伊織はダイニングの椅子に腰かけた。 「もしかして、発情期? それとも、別の発情?」  わざと意味深な言葉を投げたら、伊純の肩がわずかに震えた。  後者が正解らしい。 「本人は発情期だと思ってるけど。違う気がする。初日と、感覚が似てた」 「じゃぁ、抱いたんだ?」 「使冴のほうから求めてきた。薬じゃなくて、俺が良いって」  静かな背中が醸す気が、浮足立っているのはそのせいか、と理解した。 「ヤったら、落ち着いた?」 「そのまま寝落ちた。一度、目を覚ましたから念のため薬飲ませて、今もまだ寝てる」 「項、噛んだか?」  伊純が、わかりやすく黙った。 「……ネックガード、付けた直後だったから」 「お前の指紋認証で外せるだろ。発情してワケわかんなくなってる使冴君なら、抵抗しなかった筈だけど?」 「そういうやり方は、したくない」  伊織は立ち上がると、伊純の背後に立った。  振り向きかけた伊純の顎に手を掛けると、思い切り上向かせた。  顔を仰け反らせた伊純が、気まずそうに伊織を見上げた。 「なぁ、伊純よ。今日の使冴の発情が《《何か》》、気が付いてんだろ? ダラダラしてっと、本気で奪うぞ」  発情期以外で使冴が発情する理由など、運命の番に決まっている。  運命の番なんて、普通のαとΩだって滅多に出会わない。  特に使冴は、伊純のフェロモンにしか反応しない。  答えは最初から、わかっているのに。 「特異なオメガを手に入れる、またとない状況が整ってんだよ。運命の番なら、お前の大好きな使冴を傷付ける心配もねぇだろ。何を躊躇う?」  子供の頃から欲しくて堪らなかった男の唯一の伴侶に選ばれたのだから、さっさと奪えばいい。  伊純の顔を、更に後ろに引っ張った。 「使冴の気持ちがまだ、追いついてない。運命の番は本能だろ。無理強いすれば、傷付ける」  伊純が伊織から目を逸らした。  御影家からの圧力も、仕事の事情も分かった上で、使冴を優先したいんだろう。  時間をかけていられない状況を理解できない馬鹿じゃない。 (当て馬作戦、成功だと思ったのに。もうちょっと続けないとダメか。手のかかる弟だ)  伊織は、掴まえた伊純に顔を寄せた。 「それがお前のやり方とペース? なら好きにしろよ。運命の番じゃなくても、項を噛めば番になれること、忘れんなよ」 「俺じゃなきゃ外せねぇネックガードしてるよ」 「噛まなくても、孕ませたら俺の勝ちだな」  上着を持って、伊織はリビングの扉に手を掛けた。 「どこ行く気だよ、兄貴!」  立ち上がった伊純を振り返る。 「もう一カ月半、経ってんだぜ、伊純。お前が望んだ三カ月までは、やれねぇ。あと半月でケリを付けろ。《《こっち》》も、そろそろ片が付く」  伊純の顔が強張った。 「ネタバラシした時に、可愛い使冴が傷付かねぇ方法が何か。精々、考えろ。俺は使冴が嫁でも一向に構わねぇし、大事にするよ」  笑みを向けたら、伊純が強く睨みつけた。 「他の誰かにやる気なんか、最初からねぇよ」 「なら、頑張れよ。俺は俺で、使冴を口説くから」  ひらひらと手を振って、伊織はリビングを出た。  使冴の部屋に目を向ける。  αを誘うΩのフェロモンの残り香が、漂っている。 「流石にこの部屋にいたら、本当に使冴君を襲っちゃうからね。今夜は仕事でもしよっかな」  普通のΩより数段強い使冴のフェロモンは、αを狂わす。  このフェロモンは最早、甘い毒だ。 (伊純に抱かれた後なのに、これだけ濃いんだからな)  疼きが滲んで、伊織は首を振った。 「流石、女王蜂は特別だね」  バースの常識を覆す、女王蜂と呼ばれるΩ性。  自分だけを愛するαを量産する甘美な『蜜』と鋭い『針』を併せ持つ。  伊純は、ごくりと生唾を飲んだ。 「やっぱり前向きに、検討しよっかな」  使冴が作る弁当は美味いから、などと考えながら、伊織はマンションを出た。

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