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第26話 フェロモン実験
「惚気はもういいよ。そろそろ実験、やろうか」
「実験?」
呟いた使冴の後ろで、伊純がスマホを取り出した。
「悪ぃ。ちょっと席、外す。俺の部屋にいるから、何かあったら声掛けて」
「うん、わかった……」
心細く思いながら、伊純の背中を見送る。
リビングに伊織と二人になった。
「伊純、急にどうしたんだろ」
「仕事の連絡じゃないかな。すぐに戻ってくるよ」
伊織がコーヒーカップを揺らす。
ゆったり構えているから、大丈夫なんだろう。
「それよりさ、使冴君」
「え?」
振り返った時には、伊織の手が使冴の手を摑まえていた。
軽く引かれただけなのに、体が伊織の胸に倒れ込んだ。
「二人目の番、本気で考えてみない?」
伊織の目が使冴を見下ろした。
「伊織兄ちゃん、何、言って……んっ」
使冴の体を抱きしめた伊織が、首筋に顔を埋める。
「女王蜂なんて優れた特性を持っているのに、番が一人なんて勿体ないよ。使冴君は、厳選したαを囲えるΩなんだよ」
「番がたくさん欲しいとか、思ってねぇよ。伊純が好きだから、番になっただけで」
匂いを吸い込みながら、伊織が使冴の首にキスをした。
「やっ、やめ……。実験、するんじゃねぇのかよ」
「使冴君がこんなに良い匂いさせてるのに、実験どころじゃないよ。俺のこと、誘ってるよね? 今日はネックガードもしていない」
伊織の目が、うっとりと笑む。
フェロモンに酔っている顔だ。
「ネックガードは、伊純が持ってるから。今日は、たまたましてないだけ。誘ってねぇよ!」
離れようと思うのに、伊織の抱く腕が強くて逃げられない。
「大丈夫、相手が俺なら伊純も納得してくれるよ。俺がちゃんと話すから」
「やだってば、離せ! 伊純、いす……んんっ」
大声で伊純を呼ぼうとした口を、唇で塞がれた。
声どころか息もできない。
(伊織兄ちゃんと、こんな風になるのは嫌だ。伊純以外の番なんか、いらない。フェロモン出してないのに、なんで)
苦しくて、涙目になる。
酸欠で思考が霞む。
「っ……!」
深く口付けられたまま、ソファの上に押し倒された。
伊織の急く手が、首筋を撫で上げる。
その感触に、ぞわりと肌が粟立った。
(この感覚、なんだ? 変な感じ……体がおかしい)
興奮剤を打たれた時とは違う。
拒否したいのに、体が勝手に快楽を求める。
(伊織兄ちゃんは、兄ちゃんだ。そういう関係になりたくない。なのに、触れられてるとこ、ゾワゾワして、気持ちいい……)
拒否したい気持ちと立ち昇る快感で、パニックになった。
「伊純、やだ、伊純ぃ……!」
涙目で伊純の名を呼ぶ。
一際強いフェロモンが、ぶわりと流れ出た。
「ぁっ」
使冴に覆いかぶさる伊織の体が、ビクリと震えた。
密着する伊織の体が、異常な熱を発する。
「ぁっ、はっ……強すぎ」
伊織が苦しそうに使冴の上で身を丸くして蹲る。
顔に苦悶が浮いている。
大量の汗が噴き出した。
「伊純、針、だ……頼む。は……、はっ、はぁっ」
「針? え? 伊織兄ちゃん、兄ちゃん!」
身を震わせる伊織の顔が紅潮している。
呼吸がやけに早い。
普通の発情状態ではないと、一目でわかった。
「使冴、離れろ」
伊純がリビングに飛び込んできた。
使冴の上の伊織を仰向けにする。
「兄貴、聞こえるか」
「ぅ……ぁ……」
目の焦点を揺らして、伊織が虚ろな声を発する。
(なんで、伊織兄ちゃんはあんなになってんだ。何が起きて……)
伊織の服を捲って、腹部に注射器をあてる。
(伊純が持ってるの、病院で処方される即効型の抑制剤だ)
自己注射型抑制剤は、救急処置用だ。
発情期の症状が重い時、使冴も使用した経験がある。
「はぁ、はぁ、ぁっ……はぁ」
伊織の体を使冴の上からずらして、ソファに横たえる。
しばらくすると、伊織の呼吸が徐々にゆっくりになってきた。
手首と首に指をあてて、伊純が脈を測っている。
「兄貴は、もう大丈夫だ」
「……良かった」
「使冴、ごめんな」
伊純の手が伸びて来て、使冴を抱き寄せた。
さっきの伊織のように深いキスをされた。
「ん……ふぁ」
伊織が触れたところを全部、触れ直すように、伊純のキスが深くなる。
伊純の目に、少しの欲が浮いていた。
「今、使冴のフェロモンを感じた。発情したか?」
「少しだけ……フェロモン流れたと思う」
「兄貴にキスされた時は? フェロモンを放出した自覚、あったか?」
伊純に問われて、伊織のキスが蘇る。
「よく、わかんねぇけど。嫌だって思いながら、気持ち良くなっちゃって。その瞬間に、大量に出たと思う」
伊織に触れられて、ぞわぞわした時にはきっと、フェロモンが出ていた。
パニックになって、そこからは量も濃さも制御できなかった。
「俺は、そのフェロモンを感じなかった。けど兄貴は、使冴のフェロモンに反応した」
「発情……したのとは、違うよな。伊織兄ちゃん、苦しそうで。何か、変だった」
発情というより、苦しそうだった。
「使冴が兄貴に放出したのは、女王蜂が番以外の、その他大勢のαに向けて発するフェロモンだ。濃度が高いフェロモンを近距離で短時間に浴びたせいで、発情以外の興奮が勝った」
伊純の説明が入って来なくて、使冴の脳が一時停止した。
「それは、つまり……発情つぅか、体全体が興奮したってこと?」
なけなしの知識を総動員して考える。
「そういうこと。結論だけ言うと最悪、心停止する」
「心停止⁉ そんなに危険な状態だったのか? なんで?」
あたらめて伊織を覗き込む。
顔の赤みは残っているものの、汗は止まったようだ。
呼吸も穏やかに戻っている。
伊純が手首で再度、脈を確認していた。
「俺、伊織兄ちゃんを殺しちゃうとこ、だったんだ」
声に出したら途端に怖くなって、手が震えた。
「使冴が兄貴を殺したりは、しねぇよ。思った以上に負荷が大きかっただけ」
「その負荷が限度を超えたら、心臓が止まったりするんだろ。今だって、危なかったんだろ。俺のせいで……」
「使冴、それは違う。ちゃんと説明するから」
伊純の手が、震える使冴の手を握る。
「大丈夫だよ。今回は、それが成果だ」
伊織が、のっそりと体を起こした。
「伊織兄ちゃん! 胸、苦しくない?」
腫れぼったい目で、伊織が使冴に微笑んだ。
「伊純の処置が早かったからね。問題ないよ」
「良かった。伊織兄ちゃん、ごめん」
伊織の腕に抱き付く。
使冴の震える体を伊織が撫でた。
「謝らなくていいよ。使冴君の本能が、正しい防衛反応を示しただけだ。それを確認したくて、わざと襲ったんだから」
「……わざと?」
見上げた使冴に、伊織が当然のように頷いた。
「女王蜂Ωの特殊なフェロモンを確認するためにね。危険だと本能が察知しても吸い込みたくなる。甘美な毒みたいなフェロモンだったなぁ。もう一度浴びたい」
伊織が、うっとりした目で使冴を眺めた。
その顔に、ゾッとするというか、若干引いた。
「死にかけたのに、何言ってんだよ」
「兄貴は二度と吸うな。キスまで許可してねぇ。ハグまでっつったろ」
伊純が舌打ちしながら吐き捨てる。
「抱きしめて押し倒すくらいじゃ、使冴君が危機を感じてくれなかったから、仕方なくだよ。たまには、お兄ちゃんに役得くれてもいいだろ」
「押し倒す前にキスしてただろ。どさくさに紛れて使冴を口説きやがって」
「どさくさに紛れて二人目の番になれたらいいな、とは思ってた」
「兄貴! いい加減にしろよ」
「冗談だって。使冴君が絡むと伊純は短気だなぁ」
ニコニコする伊織を、伊純が睨む。
何時ものように伊織と伊純が言い合いしている。
「危険なフェロモンが出るって知っていて、試すために、伊織兄ちゃんは俺を、わざと襲ったんだな? 伊純も共犯か?」
使冴の問いかけに、伊織と伊純が肯定の顔をした。
「うん、そう。女王蜂Ωの『蜜』と『針』を試したかった」
「蜜と、針……?」
「女王蜂Ωのフェロモンは、通常『蜜』と呼ばれる。新たな番を得るために放出するフェロモンでαに強い快楽を与え、無条件に心を服従させる。中毒性が高いフェロモンだ」
伊織の説明に、怖気が走った。
「甘美な毒って、そういう……。そんなのが、俺の体から出てんの?」
自分事とは思えなくて、恐ろしい。
「だけど、自身の危険を察知した女王蜂Ωは、αの暴力から身を守るフェロモンを発する。その攻撃的なフェロモンを『針』と呼ぶんだ」
「針……」
ゾクリ、と嫌な寒気が走る。
使冴は自分の項を抑えた。
「さっきの伊純の説明通り、発情はつまるところ身体の興奮状態だ。身体異常を誘発して、αの動きを止める」
あまりの話に、言葉が出てこない。
「でも、俺、匠兄貴に……乱暴、されてた時、そんなの一度もなかった」
「蜜と針はあくまで、女王蜂が二人目以降の番を得るためのシステムだ。より質が良く従順なαを探すための本能とでもいうのかな。番を得てフェロモンが変質しないと現れない特徴なんだよ」
「だから御影家は、俺に番を作らせたかったのか」
今までの伊織の話が全部、腑に落ちた。
このフェロモンは危険だ。
だが、使いこなせば、武器になる。
「使冴君のお父さんは、蜜と針を自在に使い熟していた。伊純という番を得た使冴君にも同じ特徴が備わっているか、確かめたかったんだ」
使冴は、ぐっと唇を噛んだ。
御影家やDissolveは、使冴の才能に期待している。
だから伊織は、自分の体で試した。
「このフェロモンは使冴君自身を守る手段になる。使いこなせて損はないよ。初めてでこの成果なら、期待以上だ。試した甲斐があったよ」
「成果、か」
伊織が満足そうな顔をした。
まだ浮腫んだような目をしている伊織を、じっと見詰める。
「期待に沿えて良かったよ。けど」
使冴は、伊織の頬を両手で包んだ。
伊織が使冴に向かい、微笑んだ。
「騙されて試されたのが、腹立たしかった? 伊純は最初、反対してたよ。俺が説き伏せたんだ。使冴君を裏切ってはいないよ」
「裏切られたとも、騙されたとも思ってねぇ。俺が怒ってんのは、そうじゃねぇ」
使冴は、伊織の頬を思いっきり平手打ちした。
伊織が、一瞬だけ驚いた顔をした。
「結構、痛い。使冴君、見た目によらず力強いんだね」
張られた頬を押さえて、伊織が苦笑した。
ふん、と鼻を鳴らして、伊純を振り返る。
「騙し討ちみたいなやり方は、良くなかったと思ってる。けど、フェロモンの放出は本能だから不意打ちかますしかねぇんだ。確認しておかないと、使冴も危険だ」
「あ? 他人事みてぇに言ってんじゃねぇ。手前ぇも同罪だ。いいから面、出せ。伊織兄ちゃんだけが悪いと思ってんじゃねぇ」
伊純が息を飲んで、素直に自分の頬を出した。
使冴は躊躇なく、伊純の顔をぶん殴った。
「ってぇ……。なんで兄貴は平手で、俺は拳なんだよ」
伊純が本気で痛がっている。
込み上げる不安と怒りは、殴った二人の顔面を見ても、収まらない。
二人の間に座り、腕を掴んで引き寄せた。
「自分の体を使って、実験なんかすんなよ。折角、出会えた新しい家族、俺が自分で殺すとこだったんだぞ」
「使冴……」
伊純の声が、ぽつりと聞こえた。
火事に遭った夜の、真っ赤に燃える火が頭を過った。
たった一夜の渦巻く炎が、使冴から大事な家族を全部、奪った。
「死んだら、二度と戻って来ねぇんだぞ。俺はもう、家族を失うのは、絶対に嫌だからな」
奪われるのも、自分で奪うのも、絶対に嫌だ。
もう二度と、あんな思いはしたくない。
「伊純も伊織兄ちゃんも、もう俺の家族だろ。もっと自分を大事にしろよ。簡単に傷付いたり、しないでくれよ」
ポロポロと、涙が零れ落ちる。
泣きたくないのに、止まらない。
「ごめんな、使冴。本当は殴りたくなんか、ねぇよな」
伊純が使冴の顔を抱いた。
反対側から、伊織が使冴の肩を抱きしめた。
「他のやり方、考えるべきだった。ごめん」
二人の体温が沁み込んで、余計に涙が止まらない。
「わかれば、いいよ。馬鹿ぁ」
抱きしめてくれる二人の腕を、懸命に引き寄せた。
使冴の涙が止まるまで、伊純と伊織は抱きしめてくれていた。
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