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第32話 心を殺せない
伊純はきっと、使冴と一緒に連れ去られたはずだ。
(なんとか伊純の居場所を聞き出して、安全を確保する。今の俺が、やるべきこと。他は何も考えるな)
必死に自分に言い聞かす。
倫太郎が後ろから、使冴の顔をするりと撫でた。
「良い顔になってきたね。何も感じないように耐えている時の顔だ。空気を入れ過ぎた風船みたいに、不幸を溜め込み過ぎてパンパンな感じ。あの顔が僕、大好きだったんだ。だからね」
倫太郎が使冴の耳に口付けた。
「常に絶望しててよ」
声は聞こえる。
言葉は理解しない。
使冴は倫太郎を流し見た。
「そんなに俺が憎い? 天久の人間が憎いかよ。いっそ、一思いに殺せば?」
倫太郎の手が使冴の手首を握り締めた。
ギリギリと、血が止まりそうなほどに締め上げる。
「いっ……!」
「こんなに話したのに、本当にわからない? 愛してるって、なんで理解できないかな」
「愛……? ……は?」
薄気味悪くて、長い疑問を言葉にできなかった。
使冴の背中に抱き付く倫太郎は切なげに息を吐いた。
まるで本気の愛をぶつけているような態度だ。
「興奮剤で発情させて、使冴君の中に何度も俺を流し込んだのに。やっぱり女王蜂は自然の発情じゃないと、反応しないのかな」
倫太郎の指がネックガードに掛る。
反射的に、体を逸らして避けた。
「触るな!」
「僕はさ、怒ってるんだよ。使冴君が縋るべきは僕だ。別の男に血迷っちゃ、ダメだろ。温室育ちの御影の次男なんかに絆されてさ。あんなの、使冴君には似合わないよ」
逸らした体を無理矢理に引き寄せられた。
発情する肌がひりつく。
腹の奥が疼くのが、気持ち悪い。
「お前が伊純の、何を知ってんだ」
「舗装された道しか歩いてないくせに、汚れたつもりで生きてるお坊ちゃんだ。薄汚い半生を生きてきた使冴君とは不釣り合いだよ」
倫太郎の手が使冴のシャツを捲って、素肌を撫でる。
ゾワゾワして、涙が浮かぶ。
「使冴君は薄暗くて湿った場所で、汚れた人生を生きてきた人だよ。上辺の辛さしか知らない御影伊純があまりに綺麗で、目が眩んだのかな。勘違いは僕が正してあげるね」
「違う、俺は、伊純が好きで、だから」
「使冴君の体は知らない男に汚されまくってボロボロで、心はすり減って荒んでる。そうだろ?」
頭の中に、記憶がフラッシュバックする。
「それは、お前らが、俺を汚して」
「そうだよ、汚した。使冴君は汚されたんだ。自分から望んで汚れに行った。そうだよね?」
媚びて誑し込んだ風俗の客とのやり取りが、頭をちらつく。
「心当たりがあるから、声も体も、こんなに震えるんだろ」
「だって、そうしないと生きていけなかった、から」
「生きるために、自分を汚して、価値を落とした。綺麗な天使の仮面の下は、薄汚れた畜生だ。自らの手で人を殺して犯した、僕と同じだよ」
「違う……。そうしなくていい場所で、生きても良いって」
伊純がリセットしてやると言ってくれた。
全部捨てて、やり直していいと教えてくれた。
「今更、無かったことになんて、できると思う? 俺の言葉ですぐに思い出せる汚い過去は、消えないのに? 誤魔化しながら綺麗な場所で生きるの? 狡いね」
「なかったことに、できなくても。やり直せるって」
それでも伊純は良いと言ってくれる。
だから項を噛んで、番になってくれた。
「一瞬でも明るい場所を知ったから、希望を抱いただけ。無理なんだよ、そんなの。使冴君の体は、少しの薬ですぐに男に靡く。足を開いて精を乞う、畜生以下の本能しかないんだから」
倫太郎がネックガードを摘まんで弾いた。
「ぁ! ぁっ、ぁ!」
硬直した体で、腰だけが震える。
境界を越える感触が、否応なく伝わった。
「快楽に負けて快感に流されるのが、使冴君だよ。だから伊純に項を許した。気持ち良くて流されただけ」
「ちがっ、ちがう、や、だ……。も、やめ……」
逃げ出したいのに、手枷がされていて動かない。
体をばたつかせて離れる。
すぐに引き戻された。
「逃げるなよ」
低い声が耳元で響いた。
疼きが限界までせり上がる。
視界がぼやけて、意識が霞んだ。
「はっ、はぁ……」
罪悪感と嫌悪感が頭の中を支配する。
(この声、知ってる。低い声で、強制する声)
目隠しをされている時に聞いた声だ。
記憶にこびりついていた声だ。
(どうして、今まで気が付かないでいられたんだろう。しっかり、聞こえていたのに)
倫太郎が、汚れた手を使冴の視界に突きつけた。
「使冴君は、汚いね。こんな使冴君を、伊純はまた抱けるかな?」
その手を倫太郎が舐め上げた。
「使冴君のフェロモン、たまらない。早く壊れて、僕を心から愛せる使冴君に、戻ろうね」
倫太郎の腕が後ろから使冴を抱く。
全身の力が抜けて、ぐったりとベッドに沈んだ。
「アンタの言葉、何一つ理解できねぇけど。俺が欲しいなら、やるから。戻れっていうなら、マシュマロハウスに戻るから。さっさと連れ帰れよ」
空虚な声が、弱く響いた。
倫太郎が起き上がり、使冴の顔を見降ろした。
「それで御影伊純を守ったつもり? 健気で浅はかで、無力な使冴君らしいね」
倫太郎が使冴の顔を掴み上げた。
ぎりぎりと、使冴の顔を握り潰す手に力が入る。
「まだ目に光が残ってるよ。どうしたら使冴君の心は死ぬのかな。やっぱり、伊純が死なないと、ダメかな」
「俺が戻れば、良いんだろ。アンタのモノになってやるから、好きにしていいから。伊純を無事に、帰してくれよ」
手枷に縛られた手で必死に倫太郎に縋る。
その様を、倫太郎が乾いた目で見詰めた。
「怒ってるって言っただろ。使冴君が伊純を思いやるたび、虫唾が走る。あの男に希望を見出すな」
倫太郎の目が、座った。
優しい声音が消えて、冷えが低く響いた。
「汚ねぇ場所でしか生きられねぇお前に、帰る場所なんか他にねぇんだよ。一生、薄汚れたままで、僕の隣だけが生きられる場所だって、いい加減に理解しろよ」
倫太郎の声が震えているのは、怒りだろうか。
感情すら理解できない。
倫太郎の手が、使冴のネックガードを強く締め上げた。
「ぅっ……ぁっ、かはっ」
首が締まって、息ができない。
浮いた使冴の体を、ベッドの上に叩きつけた。
「はっ、はぁっ、はぁっ……」
本能が必死に息を吸う。
全身が生きようと動く。
「今日の外出は、僕を釣り上げるためのDissolveの罠だろ。乗ってやったんだ。僕も相応に楽しませてもらわないとね」
倫太郎が使冴の頬に口付けた。
「使冴君はDissolveでも所詮、使われる駒でしかない。何処に行っても、利用される憐れな存在なんだよ。いい加減、覚えなきゃ。自分はその程度の価値しかない人間なんだってさ」
喉が絞まって、息を吸う口が引き攣った。
(あぁ、嫌だな。どんなに自分が惨めでも、俺はこの人を可哀想だと思うんだ)
倫太郎が言う通り、諦めて絶望して、何もかも投げだしたら、きっと楽なんだろう。
『使冴、生き残れ。絶対に死んじゃダメだ』
父の言葉が胸の中に木霊する。
(俺は、生きている限り、心すら殺せない)
記憶の奥底に仕舞い込んで忘れていた、死に際の父の言葉。
倫太郎の話を聞くまで、一文字も思い出しはしなかったのに。
(心と体に、刻まれていた。父さんの最期の言葉)
使冴は倫太郎を見上げた。
その顔に手を伸ばす。
「ネックガード、切れなかっただろ。伊純の指紋認証じゃないと外れねぇ。だから伊純を、ここに連れて来てよ」
何とか起き上がって、倫太郎に自分からキスをした。
「ネックガードを外して、項を噛んで。俺を倫太郎さんの番にしてよ。俺が伊純から離れれば、アンタが俺の一番になる。俺を一生縛るには、充分すぎる枷だろ」
倫太郎の胸に凭れ掛かって、力を抜いた。
「俺には倫太郎さんが、わからない。一生側にいれば、倫太郎さん好みの俺になるかもしれねぇから。好きにしてよ」
震える倫太郎の手が、使冴の体を抱いた。
同時に、もう片方の手が首に掛った。
「本当に何にもわかってねぇんだなぁ、使冴。人並に幸せな発想してんじゃねぇぞ。ムカついて仕方がねぇよ」
首に掛った手が、使冴を押し倒す。
倫太郎が馬乗りになった。
「ご希望のようだし、今すぐ突っ込んでやるよ。伊純に観てもらいながら、ネックガード外させようか」
「それで倫太郎さんの気が済むんなら、好きにしてよ」
倫太郎の顔が、血走った。
今の使冴が何を話しても、倫太郎の怒りを煽るんだろう。
目の前の男が何を望んでいるのか、使冴には全くわからないのだから。
「御影伊純は自分を諦めないとでも思ってんのか? 救えねぇな」
「多分、そうだよ。俺なんかより伊純のほうがずっと俺のこと、好きだから」
「んな話はムカつくだけ……」
黒い影が倫太郎の顔面を直撃した。
振り切った長い足が、倫太郎の顔面を蹴り上げた。
倫太郎の体がベッドの下まで吹っ飛んだ。
「よくわかってんな、使冴」
ボロボロに裂かれた服で、頭から血を流した伊純が、使冴を振り返った。
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