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第34話 覚悟
帰り道は捜査官の林という人が送ってくれた。
取り立てて話す人でもなかったが、落ち着いた雰囲気の静かな人だった。
それがかえって、今の使冴には楽だった。
帰ってすぐに油淋鶏を作ろうと思っていたのに。
一度、ソファに座ったら、動けなくなった。
コーヒーを淹れて隣に座った伊純が抱きしめてくれたら、もう動きたくなくなった。
「……何も話さず連れ出して、ごめん」
「もう謝んな! 何でそうしたかくらい、わかってる」
勢いよく止めたのに、語尾は弱くなった。
最初から囮だと聞いていたら、使冴は緊張して作戦を悟られる。
ただでさえ倫太郎には囮作戦がバレていた。
こういう状況に慣れていない使冴に最初から作戦が伝えられていたら、もっとグズグズになっていたかもしれない。
「お前は喜んでたのに、その気持ち利用した自分が、許せねぇ。わかってたことなのにな」
使冴を強く抱きしめる伊純の顔が痛そうに歪む。
「なんで、俺より痛そうな顔してんだよ」
伊純の顔に、そっと触れる。
「そうだな。俺にこんな顔、する資格ねぇな」
「自分の気持ち、素直に感じるのに、資格なんか必要ねぇだろ」
手当てした頭と、顔に流れて乾いた血糊を撫でる。
「伊純だって、危ねぇ目に遭ってんじゃん」
「俺は慣れてっし、この程度は怪我ですらねぇよ」
手当てしたばかりの頭の傷に触れながら、伊純に抱き付いた。
「Dissolveは、こういう仕事なんだな」
「普段はこんなやり方しねぇし、人が死ぬなんて、滅多にねぇよ」
「だったら、俺が死神なのかな」
目の前で家族が死んで、慕っていた人たちが死んだ。
自分の意に反して命が安く刈り取られていく。
「そんな風に考えんな。根黒組の価値観がズレてるだけだ。人間の売買している奴らの命の価値に流されんな。むしろお前は、厄介な奴らに目ぇ付けられてる被害者だ」
伊純が使冴の手を強く握った。
「どんなに何があっても、使冴なら自分の価値観がブレない。お前は間違わない。俺は、信じてる」
「そんなの、わからねぇだろ。今日だって倫太郎さんに散々、色々言われて。ちょっと心が折れかけたし」
「折れかけただけだろ。折れたわけじゃねぇ」
「あのまま暴露が続いてたら、どうなってたか、わからねぇよ」
父に告げられた生きるという約束も、守れたかわからない。
「……十五年」
「ん?」
「俺が使冴を見続けてきた時間。使冴は、ずっと変わらなかった。観てきた俺が言うんだから、間違いない」
「……待って。十五年、て。事件のあと、俺って行方不明だったんじゃ」
天久家襲撃事件後、Dissolveは使冴の行方を掴んでいなかった筈だ。
生存を確認できたのは二年後、使冴が十二歳の時だと、伊織が教えてくれた。
「初対面は、俺が八歳の時。一度きりだけど、ちゃんと会って話してる。虐められてた俺を、助けてくれてさ。使冴はずっと俺ん中で、キラキラしてる。それは今でも変わらねぇんだ」
「え? もしかして、あの時の、あの子……」
この部屋に来て、何度か黒髪の男の子の夢を見た。
虐められていた子供を助けて、また会う約束をした。
(やっぱり、伊純だった。本当にあの子が伊純だった)
後でゆっくり二人で答え合わせしたいと思っていた事実を、伊純の口から聞けた。
「昔は俺、喧嘩とか弱くてさ。でも気持ちばっかり尖ってる生意気なガキだった。家が特殊なのもあって誰も寄って来ねぇし。友達もいなくてさ」
伊純が語る言葉が、使冴の中に昔の情景を、交わした言葉を思い出させる。
「虐められてるとこ助けてくれた、めちゃくちゃかっけぇ男は、人間とは思えないくらい綺麗な顔してんのに、口が悪くて喧嘩が強くて。ギャップがたまらなくて、一目惚れだったよ」
「……あの時の、あの子が、本当に伊純……」
「思い出してくれた?」
握った指先に、伊純がキスを落とす。
「本当なら、あの後、天久家と御影家の顔合わせがあるはずだった。すぐにまた会えると思ってた。けど、顔合わせ前に天久家が襲撃されて、使冴は行方不明になった」
「……あの子に会ったの、火事の直前、だったかもしれない」
子供の頃の記憶は、今でも使冴の中で曖昧だ。
家族が死んだ、あの火事の前後数年は、真っ白に抜け落ちている。
この部屋に来て、ぽつりぽつりと思い出し始めたが、まだ断片的だ。
「あの時、名乗らなかったのを後悔した。俺はあの天使が天久使冴だって知ってたけど、お前は俺を知らなかっただろ」
「うん……。知らなかった」
伊純どころか御影の家名すら知らなかった。
「あの時、名乗っていたら、使冴が俺を頼る選択肢があったかもしれねぇのにって。そう思いながら見守りに徹した。だから、使冴を助けられるってなった時は、心の底から喜んだ」
「そう、だったんだ……伊純、喜んでくれたんだ」
あの時のあの子が、本当に助けに来てくれた。
願望が現実として、輪郭を持った。
胸がいっぱいで、言葉にならない。
「八歳で一目惚れして、十五年間ずっと好きだった男を助けに行ける、千載一遇のチャンスが降ってきたんだぜ。喜ぶに決まってんだろ」
伊純が腕の中に使冴を囲い込んだ。
抱く腕が強くて、ちょっと苦しい。
(次は自分が助けるって約束、覚えていてくれたんだ。十五年間、ずっと。そんなに長く、想ってくれてたんだ)
あの時交わした約束を、使冴はこの部屋に来るまで忘れていた。
見守ってくれていた間もずっと、想ってくれていたなんて、知らなかった。
「ずっと使冴だけ見てた。だから俺は、よく知ってんだよ。使冴の心は、他人が簡単に折れるような安物じゃねぇ。十五年前も今も、変わらず強くて、キラキラしてる」
倫太郎とは、まるで真逆の言葉を伊純がくれる。
(倫太郎さんも昔から俺を知ってるんだろうけど。何でかな。伊純の言葉のほうが、沁み込む)
抱いてくれる腕に凭れて、寄りかかって、全身の力を抜いてもいい気になる。
「これからは俺が、使冴の全部を守るから。もう二度と、誰にも触れさせない。だから、お前は自信持って、天久使冴で生きてろ」
存在を全肯定されるのが、こんなに安心するなんて、初めて知った。
こういう優しさや愛もあるんだと、伊純が教えてくれる。
嬉しくて、笑いが込み上げた。
「ふふ、えへへ」
「何で、笑ってんだ?」
伊純の声が照れて不貞腐れている。
「伊純の言葉が全部、嬉しくて。倫太郎さんの言葉、思い出した。幸せで腑抜けて、緩んだ顔してるって、言われたんだよ。ふふふ」
伊純に抱かれていると、倫太郎の言葉が全部、陳腐に響く。
(全部が間違いじゃない。倫太郎さんの言葉も、的を射てる。だけど、信じたいのは、伊純の言葉で。寄り添いたいのは、伊純の気持ちだ)
倫太郎の話を聞いたからこそ、伊純の言葉が鮮明に沁み込む。
「俺にこんな腑抜けた顔させんのって、世界中探しても伊純だけなんだろうなって。少なくとも、一人で生きてきた十五年の中で、今が一番、腑抜けた顔してる」
伊純の頬を摘まんで、ムニムニと引っ張る。
不機嫌な顔で、伊純が素直に頬を摘ままれている。
「その幸せそうな笑顔を腑抜けた顔っていうんなら、一生、腑抜けてろ。使冴は、そのままでいい」
抱きしめてくれる胸に素直に寄り添う。
体温が沁みて、熱い。
その熱に生を実感する。
「伊純の隣で、俺のまま生きられるの、嬉しいよ。だけどもう、誰かが死ぬのは、嫌だな」
たとえどんな相手でも、理不尽な死を目の当たりにしたくない。
それでもDissolveで仕事を続けるなら、絶対なしにはできない現場なのかもしれない。
その証拠に、伊純は何も言わない。
(俺も覚悟しなくちゃ。俺の周りで人が死ぬのは、もうなしだ。そういう覚悟で、仕事をしなくちゃ)
何をどうすればいいのかなんて、まだわからないけど。
心掛けるのは、覚悟の第一歩だ。
「伊純、今日は一緒に寝て」
「そのつもりでいるよ」
優しく包み込んでくれる腕が永遠でないのを知っている。
辛さも悲しさも、絶望も知っている。
だから大事にしようと思うのだ。
死ぬ瞬間まで、この腕の中にいられたらいい。なんて贅沢を考えながら、伊純の熱に寄りかかった。
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