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第35話 油淋鶏
拉致事件の夜は、伊純が一緒に寝てくれた。
疲れていたから次の日の十時過ぎまで二人で寝こけた。
その間に伊織が帰って来ていたらしい。
部屋に籠っていたから姿は見なかったが。玄関に靴があるから、いるんだろう。
だから、昼食に油淋鶏を作った。
「使冴君、本当に作ってくれたんだ。美味そうだね」
昼過ぎになって、部屋から出てきた伊織は珍しくスウェットだ。
平日は仕事でスーツが多いし、休日もすぐ外に出られるような恰好をしている。
大変、眠そうに欠伸をしているのも、意外だ。
「伊織兄ちゃん、昨日って何時に帰ってきたの?」
食前にコーヒーを出してあげた。
あまりにも眠そうだから、寝かせてあげたほうが良さそうな気もする。
「昨日っていうか、今朝の八時頃、帰ってきた。使冴君たち、寝てたから静かにシャワーして寝た」
「え⁉ じゃぁ、まだ二時間程度しか寝てねぇんじゃねぇの?」
「そうだねぇ。流石に眠いかなぁ」
大欠伸しながらコーヒーをがぶ飲みする伊織を眺めて、少し後悔した。
「コーヒー飲むより寝たほうがいいよ。もう少し軽いもん、作り直そうか?」
「油淋鶏、食べたい。実は昨日から何も食べてないから、腹は減ってる」
手を合わせていただきますをすると、伊織が食事にがっついた。
ガツガツ食べているのも、珍しい。
本当に腹が減っていたんだなと思った。
「鳥の脂身って苦手なんだけど、使冴君の味付け? 調理? だと美味いって思う」
「いやそれ、どっちかっていうと空腹が最高のスパイスになってる感じだよ、きっと」
そわりと、伊純の部屋のほうをうかがう。
起きてから部屋に籠った伊純が、まだ出てこない。
「伊純は仕事中だと思うから、出てくるまで放っておいてあげてね」
使冴の視線に気が付いた伊織が、声を掛けてくれた。
「そっか。じゃぁ、伊純の分は出て来てからでいいかな」
「それがいいと思う。出てきたら、食事どころじゃないかもしれないしね」
「なんで?」
伊織が味噌汁を啜りながら、使冴をちらりと眺めた。
「根黒倫太郎と使冴君の会話、盗聴録音してある。俺も昨日、確認済み」
「……そう、なんだ」
つまり、今は伊純が確認している最中、ということだ。
(今更、伊織兄ちゃんと伊純に聞かれて困る話はしてねぇけど。伊純のほうが俺より気にしそうだな)
使冴にとっては今更な話だ。
倫太郎の気持ちは、最後まで理解できなかった。
今でも、あまり良くわからない。
(倫太郎さんは俺のことが、好きだったのかな。俺を、どうしたかったんだろう。考えても、わかんねぇ。それより、やっぱり)
わからない倫太郎の気持ちを永遠に確認できない今が、辛い。
「これ、使冴君のDissolve捜査官証だよ」
社員証のようなカード型のネームプレートを渡された。
首から下げる式の、一般企業のネームみたいだ。
「本部に入る時は、それがないとドアが開かないから、忘れないようにね」
「うん……。俺、本当にDissolveに入ったんだ」
「正式雇用だから待遇は、お父さんと同じで国家公務員になるね」
「高校しか出てねぇんだけど、いいの?」
国家公務員は確か、大卒以上だった気がする。
「学士習得はしてもらうけど。使冴君の価値はそこじゃない。学歴は気にしなくていいよ」
「俺の価値、か」
倫太郎の言葉が、頭をよぎる。
今のところ使冴の価値は駒になることくらいだ。
あの言葉は間違っていない。
「俺も伊純も、使冴君を駒だなんて思ってないよ」
「え? なんで……」
考えを読まれたようだと思った。
「女王蜂Ωとしての価値は、もちろんある。だけど、俺が使冴君に期待しているのは、人間性の部分だから」
「人間性? 俺、そんな大層な人間では」
聖人君子のようなポジを期待されても困る。
困った顔の使冴を眺めて、伊織が微笑んだ。
「使冴君は自分の価値観を捨てない。芯がブレない。そういうところ、聖冴さんによく似てる。だから、作戦の詳細を伝えずに決行しても、イケるって思うんだよね」
伊織がニコニコと物騒な発言をした。
「これからは、できれば事前に教えてほしい。俺、嘘とか割と上手だから」
「知ってるよ。けど、使冴君に嘘を吐かせるより、内緒にしたほうがマシって、俺は思うからさ」
「なんで?」
少し呆れた気持ちで問い返す。
「使冴君の十五年を見守ってたのは、伊純だけじゃないってこと。嘘は上手だろうけど、好きじゃないだろ」
伊純と同じように見守ってくれた伊織の言葉が、刺さる。
また嘘という武器を使えば、同じ人生の繰り返し、リセットできない。
「今まで吐いてきた嘘と、これから使う嘘は、別物だろ」
「別物だと使冴君が思えるなら、使っていい。けど昔を引き摺るなら、使用禁止だ。同じことを繰り返せば、使冴君のブレないはずの芯がブレるかもしれない。そっちのほうが、俺は困るからね」
伊織の言葉が、胸にすとんと落ちた。
「わかった。ダメだと思うことは、しない」
「使冴君は、それが一番だよ。自分が後ろめたいとか、ダメだと思うことはしないに限る」
「うん……」
気持ちが、ほっこりする。
伊織は、伊純とは違う安心感を使冴にくれる。
「御馳走さま。美味しかった。もっとしつこいと思ってたけど、案外あっさり味で食べやすかった」
「伊織兄ちゃん用は、あっさりめの和風ソースにしたんだ。伊純のは、こってり中華風味だよ」
伊純は味が濃いほうが好きだから、今日は二種類のソースを作った。
「怒ってたはずなのに、俺に合わせて味変してくれたの? 優しいね」
「そうだよ、俺は優しいの。優しいから、食後のコーヒーも入れてやる」
完食するまで許さないと話したことは、うっかり忘れていた。
誤魔化すように、伊織のカップを取ってコーヒーを足す。
「伊織兄ちゃん、もうちょっと寝たほうがいいよ。コーヒー出して言うのも何だけど」
「そうだねぇ。今日はオンコールにしたから、スマホ爆音設定で昼寝しようかな」
「それって、眠れんの?」
とりあえず今日は、掃除機をかけるのはやめようと思った。
「使冴君が添い寝してくれたら、眠れるかな」
「まだ、そういうコト言うか」
伊織が使冴に向かって手を伸ばす。
ちょっと考えて、使冴は伊織の後ろに回った。
「ん? 何々? 肩、揉んでくれるの?」
「それでもいいけど、その前に」
後ろから伊織の肩をふわりと抱いた。
「ちゃんと休んで、疲れをとってよ。伊織兄ちゃんに何かあるの、嫌だよ。いなくなって欲しくない」
大切な家族をもう二度と失いたくない。
急に死んだりしてほしくない。
だけど、死という言葉はあまりにも語感が強くて、声に出したくない。
伊織が使冴の腕に、手を添えた。
「大丈夫だよ。使冴君を置いていったりしない。約束する」
「……うん」
きっと伊織には使冴の気持ちなんて筒抜けだ。
だから、同じように言葉を選んでくれた。
「やっぱり、良い匂いだね。食べたくなる」
「自分のモノにしたいって、思う?」
この匂いが、倫太郎にも作用したのだろうか。
倫太郎の第二の性は聞かなかったが、恐らくアルファだったろうと思う。
「俺はどっちかっていうと、使冴君のモノになりたいって思うかな。女王蜂Ωのフェロモンは、αを服従させる作用が強いからね」
「そうなんだ。じゃぁ、違うのかな」
呟いた使冴を伊織が、ちらりと見上げた。
「もしかして、根黒倫太郎のこと、考えてる?」
「うん。俺には倫太郎さんの気持ちが、よくわからなくて。ずっと考えてるんだけど、結局どういう感情なのか、答えが出ない」
愛情なのか憎悪なのか、支配欲なのか、フェロモンの影響なのか。
本音がわからないまま、もう二度と知ることはできない。
「使冴君には、わからなかったか。俺には割と、わかりやすかったけど」
「伊織兄ちゃん、わかったの? てことは、やっぱり俺の変わったフェロモンのせい?」
女王蜂Ωの研究は伊織の専門だから、そういう方面なんだろうか。
伊織が、小さく吹き出した。
「そういうんじゃなくてさ。もっと原始的な感情というか。どうしようもなく君が好き、て感じ?」
言葉が出なくて、返事が出来なかった。
「一般的に言うなら、ヤンデレとかメンヘラとか、いうんじゃないの? 俺も詳しく知らないけど」
「その辺は、俺もよくわかんない」
家事代行の仕事で、天使すぎる家政夫にそれっぽい感情を向けてくる人は、時々いたが。
詳しく掘り下げたことはない。
「人間の感情は一見、複雑なようで、紐解くと存外シンプルだったりするんだよ」
「そう……なの?」
「そうだよ。使冴君、無自覚でモテてそうだから、気を付けてね」
伊織が使冴の腕をぐいと引いた。
使冴も甘えるように伊織に抱き付いた。
「それっぽい発言とか行動してくる人は、気を付けてるけどさ。今は家事代行の仕事してねぇし、外部との接触もないから、平気だと思う」
「そうかなぁ。例えば、俺にこんな風にじゃれてる使冴君を伊純が見付けたら……」
使冴の肩を、後ろからぐぃと引っ張る手があった。
「あ、伊純。お疲れ」
使冴を上から覗き込む伊純の顔が渋い。
「なんで、兄貴に抱き付いてんの?」
「俺が疲れてるから、労ってくれてるんだよ。使冴君は優しいから」
伊織が使冴の手を引く。
その手を剥がして、伊純が使冴を保護した。
「伊純も昼飯にする? 油淋鶏、作ったぞ」
ニコリと見上げる。
伊純が困った顔で長い息を吐いた。
「食うけど。無防備すぎるだろ。あんなことがあった後で」
「伊織兄ちゃんは大丈夫だろ。家族だぞ」
使冴が言い切ったら、伊織がすかさず同意した。
「そうそう、家族だから。俺的には、もう少し踏み込んだ家族になっても、いいんだけどね」
「兄貴、せめて今はやめろ。洒落にならねぇよ」
渋い顔で苦言を呈する伊純と、ニコニコ受け流す伊織を投げ目ながら、使冴はキッチンに入った。
今日も兄弟は仲良しで、平和ないつもの日常だと思った。
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