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第39話 10月13日正午③

 喉が締まって、上手く息ができなかった。 「アンタはなんで、そこまで俺を……」  声も上手く出てこない。  倫太郎の執着や、本人が愛と呼ぶものが、使冴には理解できない。  わからな過ぎて、怖い。 「使冴君が特別だから。特別なオメガで、特別に美しくて、特別に愛しているから。十五年前に使冴君を見付けてから、手中で大事に育ててきた。僕の最高傑作の玩具だからだよ」  倫太郎の手が使冴に伸びる。  怖いのに、逃げられない。体が動かない。 「使冴はお前の玩具じゃねぇよ。話しにならねぇな」  伊純が再度、銃を構えて使冴の腕を引いた。  体が後ろに下がって、伊純が前に出た。 「約束通り、触れていないだろ。見守りという名目で、天久使冴をダシに十年以上も根黒組の動きをモニタリングしていたDissolve参謀殿に、僕を責める権利があるのかな?」  伊純の気が揺れた。 「ダシに使ってたわけじゃねぇ。動けねぇ理由もあった」 「伊純の言訳なんか、どうでもでもいいけどね。お陰で僕は使冴君を、僕好みの使冴君に仕上げられた」  うっとりとした目が、使冴に向く。  まるで愛おしいものを見る眼差しに、気後れする。 「使冴を作ったのは、お前じゃねぇ。使冴自身だ。この先は、何があっても天久使冴を手放さない」  伊純が使冴の腰を抱いて引き寄せた。  ぴたりとくっ付いた熱と伊純の匂いが流れ込む。  やっと、体の力が抜けた。 「面白くしてぇんなら、情報を寄越せよ」  伊純の言葉に、倫太郎がニタリと笑んだ。 「そう来なくちゃ、面白くない。伊純なら乗ってくれると思ってたよ」 「全部を信じるわけじゃねぇ。使うのは、使冴を守るために必要な情報だけだ」  倫太郎の笑みが、心底楽しそうに見える。 「情報の信憑性なら、安心して欲しい。命を懸けた遊びでガセを引かせるような三流の真似は、根黒の名に懸けてしない。間違わなければ、逃げ切れる。判断するのは、伊純だ」  倫太郎が胸ポケットから、二枚折になったメモを取り出した。   「今日から一週間後、十一月の闇オク前最終打ち合わせのため、根黒組の幹部会が開かれる。組長を始め、それを支える主要面子は全員が参加する」  倫太郎が、メモ書きを伊純に差し出した。 「場所と時間が書いてある。ここを叩くだけでも、根黒組には相当なダメージになるよ。Dissolveには美味しいだろ」  差し出されたメモではなく、伊純が倫太郎を見詰める。  そのまま、メモを受け取った。 「時間がないから、決断は早めにね。次の情報は、追って連絡するよ」  倫太郎が後ろに下がった。  伊純の腕を抜け出して、使冴は倫太郎に歩み寄った。 「倫太郎さん、待っ……」  一瞬、笑んだ倫太郎の腕が、使冴に伸びた。  後頭部を押さえた手に、引き寄せられる。  唇が重なって、匂いが流れ込んできた。  甘くて、ツンとした香りが鼻腔を擽る。 (この、匂い……フェロモン? 甘くて苦い、痺れる)  頭の芯が痺れて思考を奪う、尖った香りだ。  背筋にゾクリと寒気が走った。 「あぁ、美味い。やっと味わえた」  倫太郎が、ぺろりと舌なめずりをした。 「手前ぇ!」  伊純が使冴の腕を掴んだ。  体が後ろに、がくりと下がる。  倫太郎の目の奥に、灯が揺れた。  昔の記憶が、ふわりと浮かび上がった。 「……倫太郎さん、酢豚、好き?」  倫太郎の目がピクリと痙攣した。 「パイナップルが入った酢豚、好きだった?」  逃げそうになる倫太郎の腕を掴まえる。  精一杯の力で、握り締めた。 (匠兄貴と倫太郎さんは、好みが似てた。酢豚は二人の好物だと思ってた。何度も食べていたのに、あの時だけは) 『酢の強い総菜は無理かな。果物も、ちょっと。ごめんね』  家事代行の予約が少なかった頃、昼食や夕食の|賄《まかない》を、使冴が作って振舞っていた。  倫太郎に希望を聞いた時に、好物と話したメニューが酢豚だった。  断られて以降は、何となく気まずくて、酢豚を作る機会が減った。  黙っていた倫太郎が、ニコリと笑んだ。 「忘れてくれていい記憶は、覚えているんだね。やっぱり僕の番にしないと、ダメかな」  倫太郎の手が、使冴の顎を掴み上げた。 「使冴の番は一人で充分だ」  伊純が、今度こそ使冴の体を引いて、背に庇った。  その隙を衝いて、倫太郎が大きく後ろに下がった。 「メモに僕のメアド、書いておいたから。伊純から連絡ちょうだい」  笑顔で手を振って、倫太郎が去っていく。  まるで、墓参りを終えた友人に手を振るような姿だ。   「隙だらけに見えんのに、隙がねぇな。やっぱり厄介な人種だ」  見上げた伊純が、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。  一瞬、目を離した隙に、倫太郎の姿は消えていた。

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