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第40話 甘い匂い
倫太郎との話し合いが終わると、伊純は使冴を連れて自宅マンションに帰った。
伊織からは待機命令が出た。
例の如く会話はしっかり盗聴録音されていたし、伊純が受け取ったメモもDissolveに提出済みだ。
Dissolveは、あの場で捕縛も出来た根黒倫太郎を泳がせる作戦に舵を切った。
「伊織兄ちゃん、大丈夫? また寝てないの?」
海越丘公園での話し合いの翌々日。
昼過ぎにようやく帰ってきた伊織が、疲れた様子でダイニングテーブルに腰掛けた。
濃いめのコーヒーを出した。が、それすら気の毒になる顔だ。
(前にもこんな顔で帰ってきたけど。まさか二日、寝てないのかな)
ホームセンター拉致事件の時も貫徹で朝方に帰ってきたから、あり得る。
目の下にがっつりクマを作っている。
心なしか、やつれてすら見える。
「仮眠とったから、平気。それより、使冴君もお疲れ」
「俺は呼ばれて会いに行っただけ。話は伊純がほとんど進めてくれたし、あんまり役に立ってないよ」
倫太郎の言葉に翻弄されて、何もできなかった。
「使冴君は、ちゃんと役割を果たしたよ。倫太郎の目的は、達成されたろうからね」
「目的って、俺を誘い出すこと?」
「使冴君に、自分を根元倫太郎だと証言させること」
「証言……」
「使冴君の証言を、俺たちは否定できない。根元倫太郎を一番よく知っているのは、使冴君だ」
確かに、倫太郎自身もそんな話をしていた。
「現時点で、あの男の正体を見極める材料が、他にないからね。使冴君は、どう感じた?」
伊織に問われて、使冴は首を捻った。
「違和感は、なかったよ。本人だと思った」
倫太郎が死んだ瞬間を目の当たりにしても尚、そう感じる。
「でも、俺を拉致した倫太郎さんも、別人とは思えなかった。あっちの倫太郎さんのほうが、俺をよく知っていた気がする」
見た目も、話の感触も、倫太郎だった。
「マシュマロハウスにいた頃から、倫太郎さんの気持ちには何となく気が付いていたから。あれが好意なら、告白は意外じゃない。衝撃的ではあったけど」
伊織に、あれは使冴への好意だと教えてもらってから、改めて考えてみた。
理解はできないが、納得はできた。
伊織が、げんなりした顔をした。
「まぁ、衝撃だよね。普通に怖がっていいと思う」
「生きている倫太郎さんも俺のこと、好きって言っていたけど。同じなのかな」
墓地で話した時も、使冴への歪んだ好意を打ち明けられた。
「嘘か本当かは別としても。今後も好意を寄せてくるだろうね。使冴君でも判別できないくらい、同一人物を装えるってことか」
伊織が、コーヒーを飲み込んだ。
「……酢豚が好きな倫太郎さんと、酢豚が嫌いな倫太郎さん」
呟いた使冴に、伊織が目を合わせた。
「使冴君が聞いていた、パイナップルが入った酢豚だね。答えは、はぐらかされていたけど。何か思い当たった?」
「マシュマロハウスでスタッフの賄、作ってた時にさ。倫太郎さんにリクエストされたのが、酢豚だったんだ。ずっと食べてたのに、突然苦手って反応されてさ。それ以来、何となく作る機会、減ったんだよね」
パイナップルが入っている酢豚は、児童養護施設で夕飯に出されていた。
匠や使冴にとっては懐かしいメニューだ。
施設にいた倫太郎にとっても、懐かしいはずだ。
「匠兄貴も好きだったから、施設で出してくれてた酢豚に寄せて作ったんだ。酢がまろやかになるように、パイナップルとかリンゴとか入れて」
「リクエストするくらい好きで食べていたのに。懐かしいはずの酢豚を、ある日突然、嫌いになった、と」
伊織の言葉に、使冴は頷いた。
「あの時は、気分じゃなかったのかな、くらいにしか思わなかったけど。倫太郎さんに見詰められて、唐突に思い出した」
間近で倫太郎の目を見た瞬間に、頭に蘇った。
「それで、思ったんだ。マシュマロハウスで働いてた時は、二人の倫太郎さんが日替わりで、入れ替わってたんじゃねぇかなって」
良く思い返せば、好きな食べ物にムラがあった気もする。
伊織が一点を見詰めながら、何度も頷いた。
「なるほど……最初から使冴君に二人の根元倫太郎が接触していた可能性はあるね。情報共有さえ怠らなければ、演じ切るのは不可能じゃないか」
とんでもなく大変だとは思うが、きっと不可能ではない。
現に使冴は、倫太郎が二人いるなんて考えもしなかった。
「中身は、百歩譲って繕えるとしても、外見を寄せるのは難しいよね。双子か、激似の兄弟とか?」
伊織の前に、フワフワ卵の粥とみそ汁を置く。
徹夜明けだろうから、胃に優しい食事にしてみた。
「その推論は妥当なんだけどね。先の事件で死亡した根黒倫太郎は孤児で、両親も身寄りも不明。戸籍上、血縁の兄弟は存在しなかった」
「倫太郎さんの話通りか……。じゃぁ、匠兄貴みたいに施設で知り合った他人とか、根黒組の誰かとか? 整形すれば、顔は似せられるよね」
頑張れば何とか同じ人間を作れそうな気はする。
「死んだ倫太郎に整形の痕跡はなかったよ。生きている倫太郎がいじっている可能性は捨てきれないけどね。メイクでもある程度、似せられるけど」
伊織が、小さく息を吐いた。
「それでも、毎日会っていた使冴君なら、多少の違和感はあるはずだよ。顔だけでなく、身長体重、体型含め、全く同じ人間を作るのは、不可能に近い」
「仕事で外に出てたから、実際に顔を合わせていた時間は短かったよ。倫太郎さんをガン見とか、したことねぇ」
倫太郎の好意に気が付いてからは余計に、適度な距離を保っていた。
多少でも似ていたら、違和感は持たなかったかもしれない。
それくらい、倫太郎に興味関心がなかった。
「今となっては、双子程度に似ていれば充分だろうけどね。使冴君が違和感を持たなければ、成功だろう」
あれだけ強烈に同じ人間を突きつけられたら、同一人物の印象だけが強く残る。
「メモや手紙に付着した皮脂の成分解析は、科捜研がしてくれている。彼が何者なのかは、時期に結論が出るけど。いないはずの人間である可能性は高そうだね」
「いないはずの……人間?」
伊織がスプーンで粥を混ぜている。
熱かったらしい。
一生懸命ふーふーしているのが、意外に可愛い。
「戸籍がない人間の成りすまし、が妥当かな。使冴君の話を聞くに、性格や思考、それに伴う仕草や表情まで酷似している。即興レベルの計画じゃない。だからこそ厄介だね」
伊織の言葉を聞いて、思い当たった。
根黒組は人身売買のマーケティングをしている。
(そっか。闇オクの商品の可能性も、視野に入れてるんだ)
「あそこまで似た人間になれるの、凄いよね」
「一朝一夕にできるものじゃないよ。それこそ幼少期から心掛けて、お互いが相手に寄せる努力でもしないとね」
「そんなに、長い時間……」
適当に人を買って即席で作れるものではなさそうだ。
(……約束、か)
今になって、匠と倫太郎が交わしていた会話が頭を過った。
(生きている倫太郎さんも、死んだ倫太郎さんや匠兄貴と、約束しているのかな)
聞ける相手は、生きている倫太郎だ。
可能性があるとすれば、もう一人――。
「白玉店長は、何か知らねぇの?」
「知っていると思うよ。話してくれないけどね」
味噌汁を啜りながら、伊織があっさりと答えた。
「黙秘するっていうのは、知っているって示すのと同じだからね」
「店長は、根黒組の人間だったのかな」
「それは一貫して否定しているけど。現時点では根黒の人間として扱っている」
「そうなんだ」
白玉組は根黒組の隠れ蓑だと、倫太郎は話していた。
あの場所は、根黒組が使冴を囲うための職場だった、と。
(一体、いつから、この計画は始まっていたんだろう。家族が殺された、あの時から?)
だとしたら、十五年前には動き出していた。
伊純が見守っていたのと同じ時間、倫太郎も使冴を見ていた。
そう考えたら、ゾクリと背中に寒気が走った。
(寒気といえば、倫太郎さんにキスされた時の、あの匂い。甘いだけじゃない、鼻を付くような感じの……)
甘さと苦さが一緒に鼻に抜ける、強い柑橘のような香りだ。
(俺はあの匂い、好きじゃない。なのに、体が疼いた)
それが薄ら怖い。
使冴は伊織を見詰めた。
「伊織兄ちゃん、あのね……」
ちらりと、伊純の部屋に目をやる。
今日は仕事で、朝から籠ったきり出てこない。
「伊純なら多分、夕方まで出てこないと思うよ。込み入った仕事をしてるはずだから」
伊織の後押しを聴きながらも、使冴は声を潜めて伊織に寄った。
「倫太郎さんにキスされた時、甘い匂いがしたんだ」
「え……?」
伊織の顔から笑みが消えた。
「まさか、αのフェロモンを感じたってことか?」
「やっぱり、そうなのかな。倫太郎さんに恋愛感情ねぇけど」
アルファのフェロモンを感じないはずの使冴が、倫太郎のフェロモンを感じたのだとしたら。
「運命の番って、何人もいるの?」
「一人だよ。使冴君の運命の番は伊純で間違いない。だけど……」
伊織が険しい顔をして黙り込んだ。
その姿を不安な気持ちで見詰める。
伊純の部屋をちらりと流し見た伊織が、使冴を振り返った。
「使冴君、俺とキスしてみてくれない?」
「え? でも……」
「伊純には内緒にして、ね?」
「……ダメ。しない」
使冴は首を振った。
「伊織兄ちゃんにキスしたら、きっと蜜が流れるから。だって俺、普通に伊織兄ちゃん、好きだもん」
今の伊織は、初めてキスされた時のような、知らない人ではない。
信頼する大好きな家族だ。
(俺のフェロモンが流れたら、伊織兄ちゃんは抗えない。俺も兄ちゃんに刺痕を付けそう。それは嫌だ)
番は、うっかりなっていいものじゃない。
伊純以外に番を増やす気もない。
「それはそれで嬉しいけど、複雑だね」
伊織が使冴に向かって、腕を伸ばした。
「じゃぁさ、俺の項の匂い、嗅いでみて。フェロモンは項から出てるから、何か感じるかも。倫太郎と比較してみて」
「それなら、まぁ」
おずおずと伊織に抱き付く。
伊織の項の匂いを、スンスンと嗅ぐ。
「何の匂いもしないよ……んぅっ」
離れようとした使冴の顔を掴まえて、伊織が口付けた。
強引に口を割り開かれる。
(やだ、気持ちよく、なっちゃう。フェロモン、止めらんない)
下唇を食んで、伊織が使冴の体を離した。
「どう? 俺のフェロモン、感じた?」
使冴は首を横に何度も振った。
「甘い匂いは、しない。けど、欲しくなるから。もう二度とすんなよ」
涙が溜まった使冴の目尻を、伊織の指が拭った。
「良かったような、残念なようなお返事だね。あーもぅ」
伊織が、使冴の体をふわりと抱き寄せた。
「やっぱり、俺の番にすれば良かったなぁ。二番目でいいから、俺も使冴君の番にして?」
「ダメ、絶対、嫌だ。番が二人なんて、俺はムリだし。伊織兄ちゃんには、ちゃんと兄ちゃんだけを見てくれる人と、番になってほしい」
伊織を愛してくれる人と幸せになってほしい。
自分では、伊織に充分な愛を注げない。
「正直な言葉って、時に傷付くな」
「ごめんなさい」
「いいよ。使冴君の義兄の立場は、何があっても死守するから。今はそれで、納得してあげるね」
伊織の肩に頭を乗せる。
優しく背中を撫でてくれる手が、ずっと兄の手であってほしい。
「倫太郎のフェロモンを感じた理由は、俺も考えてみるよ。思い当たる節は、なくもないから」
「え?」
顔をあげたら、頭を撫でられた。
「仮説が纏まったら、教えるね」
「……うん、わかった」
それ以上は聞けなくて、使冴は素直に伊織に頭を撫でられていた。
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