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第51話 Dissolveのブレーン
やっと寝息を立て始めた使冴の頬を、するりと撫でる。
伊純は、小さく息を吐いた。
二日前、倫太郎のフェロモンに煽られたのをきっかけに、使冴は発情期に入ったらしい。
この部屋に来て初めての発情期だ。
倫太郎のフェロモンのせいなのか、番になった後なのにフェロモン量が多くて薬の効果も薄い。
性交しないと収まらない。
(女王蜂の番に発するフェロモンだ。蜜じゃないから、俺しか反応しない)
発情期は子をなすためのオメガの本能だから、今の使冴は伊純しか煽らない。
蜜と針は、自己コントロールが可能だ。
その状況に、安心するしかない。
疲れてぐったりと寝入る使冴の髪を撫でて、伊純は上体を起こした。
服を羽織って寝室の扉を開ける。
すぐそこのキッチンに倫太郎がいた。
「あれ、伊純だけ? 使冴君は?」
「やっと落ち着いて、寝たとこだ。……灰皿ある?」
ポケットから煙草を取り出す。
火をつけると、シトラスの香りが漂った。
そういえば、この煙草を吸うのも久し振りだ。
「はい、どぅぞ」
手渡された灰皿を受け取って、短い灰を落とした。
「これ以上は使冴を煽んなよ。今の発情期だって、ギリギリだ。オークション当日に使冴が使えなきゃ、お前も困んだろ」
使冴を煽っている倫太郎の目論見は知れている。
雀蜂の蜜が、女王蜂の使冴にどれくらい作用するか、確かめたいんだろう。
「あと一週間だからねぇ。流石に、やり過ぎたなって反省したよ。まさか、あんなに効果があるとは思わなかった」
倫太郎が、不敵な笑みを向ける。
小さな苛立ちを覚えながら、伊純はその笑みを流し見た。
「発情期の誘発になったのは確かだけどな。予想したほどじゃなかった。もっと相性いいもんかと思ってたよ」
同じ亜種である女王蜂Ωと雀蜂αは相性がいいと言われている。
しかし、どちらの亜種も希少なため生態が不鮮明だ。
(俺が妬くほど酩酊状態にも、なっていなかったし。俺の名前しか呼ばねぇし)
使冴が倫太郎のフェロモンで前後不覚にでもなっていたら、本気で殺しかねない。
その点は良かったと思っている。
「使冴君が関わると、伊純は子供っぽくなるね。女王蜂の番だから? それとも、惚れた弱み?」
倫太郎が探るような目を向けた。
「さぁ? 両方じゃねぇの? つか、お前が俺の何を知ってんだよ」
「Dissolveのブレーンは御影伊純。組織の中枢を守るために、兄が雑用係みたいな副班長を担っているんでしょ?」
「なんだ、それ」
はぐらかしてはみたものの、あながち間違いでもない。
Dissolveの作戦参謀は伊純だ。
大掛かりな仕事の計画立案や人員配置は総て伊純が行っている。
伊純の存在なしに、Dissolveは動けない。
伊純を温存するために、伊織が副班長という矢面に立って汚れ仕事を担っているのも事実だ。
その実態が、巷で囁かれる「御影組」の噂に繋がっている。
「詰まらねぇ噂を鵜呑みにしてんだ。そういうタイプでもないと思ってたけど」
「つまらない噂なら、信じないよ。僕の身近には、Dissolveの内情に詳しい人間が多いんだ」
倫太郎の目が、伊純を見詰める。
(白玉のおじきか)
御影家が個人で雇っている情報屋の白玉銀次は、父である伊知郎と付き合いが長い。
伊純や伊織が生まれる前から銀次は根黒組に潜って、内情を探っている。
Dissolveと根黒組の二重スパイになっていたのも、把握している。
「俺の周りにも、根黒組に詳しい奴がいるよ。組長候補の本命は根黒厳隋の実子の双子で、戸籍を与えられた弟のほう。第一次性徴で雀蜂αが発覚した兄は、存在を闇に伏された。……なんて噂なら、聞いた」
ちらりと倫太郎を窺う。
変わらぬ笑みは、動かない。
「雀蜂が発覚した時点で殺されるはずだった兄が生きている理由も、弟が孤児を装って養子として戻った理由も、知らねぇが。少なくとも死んだ弟の後を、無戸籍の兄が引き継ぐためって理由では、なかったろうな」
死んだ倫太郎は、生まれてすぐに拾われた施設で根元倫太郎の戸籍を得た。
倫太郎が根黒組に養子に迎えられたのは、十三歳の時だ。
その時点から、兄と弟で倫太郎の名を共有し、一人の人間を演じていた。
その辺りの事情は、根黒組で倫太郎の付き人をしていた銀次から聞き出している。
倫太郎が、小さく吹き出した。
「その噂、面白いね。だけど、残念だ。伊純が推理しきれていない《《理由》》の部分が知れないと、本当の答えは導けない」
倫太郎が指を三本、立てた。
「生きている雀蜂、孤児にした実子、施設。調べるなら、この辺りだね」
その辺りはある程度、調べが付いている。
双葉児童養護施設にいる子供たちのほとんどが成人後、根黒組の構成員になっていること。
墓石に名を連ねていた子供たちが、不自然な死を遂げていること。
(書類上、一度死んでオークションの商品になっていた可能性が高い)
施設自体が、売りに出す子供たちを育てる場所だった。
根黒組の商品管理の場であったと考えられる。
そんな場所に根黒厳随の実子を送り込む意図があるとすれば。
(順当に考えれば、希少種の兄を商品にしたほうが価値がある。なのに、施設送りになったのは、通常のアルファだった弟だ)
――状況として、不自然だ。
伊純は指の隙間で煙草を転がした。
根黒の家が代々、殺すほどに忌み嫌った雀蜂という亜種。
敢えて生すには意図があり、指示して匿った者がいる。
(動画が配信されるまで、倫太郎が雀蜂αである事実を知る者は根黒組幹部にすら、いなかった。兄の存在を隠すなら、弟も手元に置いたほうが隠れ蓑に使えそうだけど)
顔がそっくりな一卵性双生児を施設に送る理由は、血縁から否定して弟を守るためとしか思えない。
後に養子として引き取り跡取りにするところまで、計算だったのだろう。
そんな真似が可能なのは、根黒厳随ただ一人だ。
伊知郎の話では、現組長の根黒厳随は倫太郎が生まれた当時、三人いる組長候補の一人だった。
権限や手段なら、いくらでも持っていそうだ。
(神隠しの異名を持つ、根黒厳随。根黒組の幹部にすら姿を晒さないのに、権力だけは絶大だ。倫太郎でさえ、近づけない存在なんだろう)
根黒厳随の神隠しは、本人が姿を見せないだけが異名の由縁ではない。
姿を一目でも見た人間が、煙のように消えるからだ。
殺されたか、或いは商品として出荷されたか。
(正攻法では会うことすらできない実の父親への宣戦布告。それが、弟の死であり、あの動画だった)
倫太郎の動画配信の真意は、蜂オークションの事前入札予告ではない。
「根黒倫太郎は雀蜂αである、つまりは根黒の実子である」と公にすること。
これまで秘してきた存在が公になって、焦った根黒厳随を表に引き摺り出すための手段だ。
伊純は煙草を吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出した。
シトラスの香りが、細く立ち昇った。
(わからねぇのは、使冴を巻き込んだやり方だったけど。厳随が雀蜂を生かし匿った理由と関係があるなら、察しが付く)
厳隋の目的が初めから、雀蜂αと女王蜂Ωを番にすることだったとしたら。
二匹の蜂が揃って、オークションの商品になる非常事態を、厳随は是が非でも避けたいはずだ。
更に、この仮説は十五年前の、天久一家襲撃とも結びつく。
(天久一家襲撃は、初めから使冴を攫うコト。殺人は、目的を遂行するための通過点でしかなかった)
伊純はずっと、使冴が思い出した言葉が、気になっていた。
『時期が来たら娶ってやるって、言っていた気がする』
天久一家襲撃のあと、使冴を児童養護施設に連れ去った男は、使冴にそう話した。
使冴が教えてくれた言葉を、伊純は噛み締めた。
煙草の灰を、灰皿に叩いて落とした。
(根黒厳随を表舞台に引き摺り出して、何がしてぇんだか。まぁ、殺してぇんだろうな。根黒組を潰して、人身売買のマーケットを壊したいのが本音か)
それが倫太郎のいう「約束」なのだとしたら。
――十五年前からの因縁という、総ての歯車が綺麗に噛み合う。
しかし、厳隋を殺されるのは、Dissolveとしては迷惑だ。
天久一家を襲撃した真犯人を捕える。
それこそが、Dissolveが根黒組を追いかける理由であり、長年の悲願だ。
根黒厳随には、何としても十五年前の事件の真相を話してもらわねばならない。
(裏で糸を引いてんのが、本当は誰なのかを見極めなきゃ、終われない。真犯人の正体は、当たってほしくねぇけどな)
欲しくない結論は、今は保留にして頭の隅に追いやる。
伊純の推論は、それとは別に結論を導いていた。
「お前がいう本当の答えは、Dissolveの目的と同じだと思ってるけど」
倫太郎の顔から笑みが消えた。
「お前が自分の目的を濁すのは、使冴のためだろ。もっと掘り下げりゃ、死んだ倫太郎と匠との約束のため……正確には、親父との因縁、てとこか」
この推論は、使冴を想うなら、あまり当たってほしくない。
使冴に聴こえるかもしれないこの場所では、明確な言葉を口に出したくない。
「使冴君には、オークション当日のサプライズにしたいんだ。僕の意図を汲んでくれて、嬉しいよ」
「お前の意図を汲んだわけじゃねぇ。使冴を傷付けたくないだけだ」
いずれは、使冴に総てを知らせなければならない。
しかし、そのタイミングは今ではない。
伊純の推論に裏が取れていない現状では、悔しいが倫太郎がいうサプライズのタイミングが妥当だ。
倫太郎が顔に笑みを張り付けた。
「流石、Dissolveのブレーンだ。僕の目的にも、伊純は辿り着いているんだろうね」
「お前のバックボーンを知れば、根黒倫太郎の目的と交わした約束くらい、察しが付くだろ」
伊純は、煙草を灰皿に押し付けて火を消した。
煙が昇って、シトラスの香りが一瞬、強く薫った。
「食えないのは伊織だと思っていたけど。伊純も中々に策士だね」
「お前ほどじゃねぇよ。胡散臭さは随一だ」
「やり過ぎて使冴君に嫌われないように気を付けてね。僕や伊織みたいな人間を、使冴君は好まないよ。慎重で優しい伊純が使冴君のお好みだ」
「いわれなくても」
充分、わかっている。
自分は伊織や倫太郎のような食わせ者ではない。かといって、素直な質でもない。
自分自身を演じている訳ではなくても、黙することで使冴を裏切っている現状に、後ろめたさくらい感じる。
「一個、聞いておきてぇんだけど。約束を果たした後、お前はどーすんの?」
死んだ弟たちと交わした約束が、今の倫太郎の生きる意味だ。
不意に、倫太郎の顔から表情が抜け落ちた。
「生きる意味がなくなれば、倫太郎は死人に戻るんじゃないの?」
乾燥した無味な声が響いた。
「なら、意味を押し付けてやろうか?」
灰皿をシンクに置くと、伊純は腕を伸ばした。
倫太郎の顎を掴み上げて、その顔を見下す。
「雀蜂の生態研究協力と、Dissolveへの貢献。兄貴に補佐が欲しいって言われてんだよ」
「優しさのつもりかな。素直に返事をするとでも?」
「返事も承諾も、必要ねぇよ。聞いてねぇって言わせねぇために、話してるだけ」
倫太郎が伊純を見上げる。
自分より十歳も年上の男なのに、白くて綺麗な肌だと、ぼんやり思った。
「強引だね。嫌いじゃないけど、迷惑な話だ」
倫太郎の薄い唇が、わずかに弧を描いた。
「僕を飼いたいのは、伊織でしょ? 伊織が僕を捕まえられたら、考えてもいいよ」
「兄貴に伝えておくよ」
伊純の腕からするりと逃げて、倫太郎が灰皿を片付け始めた。
「使冴君は煙草が嫌いだから、禁煙したほうがいいと思うな」
「煙草っつーか、細い葉巻だから。香りは悪くねぇだろ」
この葉巻は抑制剤だ。
倫太郎のフェロモンは伊純に効果がないが、念のための用心だ。
「タールとニコチンの塊みたいな煙草よりマシだけどね。ヤニって臭いし落としづらいから、家事代行の仕事では天敵なんだよ」
「……善処する」
視線だけを伊純に向ける倫太郎は、同じ笑みを浮かべている。
笑った顔を終止、崩さない男は厄介者が多いと、伊純は改めて実感した。
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