52 / 64

第52話 優しい腕

 使冴はアルファのフェロモンを感知しないオメガだ。  だから、煽られる心配はなかった。  けれど逆に、危険な場面は多かった。  アルファのフェロモンを感じ取れないということは、近くに発情したアルファがいても気付けない。  まだ自分のフェロモンを巧くコントロールできなかった中学生の頃は、何度も危険な目に遭った。  そんな時、助けに来てくれたのは、匠だった。 『夜道は一人で歩くなって葵さんにも言われてんだろ。帰りが遅くなるなら連絡、寄越せよ』  初めて発情したのは、十二歳の頃だった。  慣れていない上に、不安定な|発情期《ヒート》がいつ来るのかも、兆候も把握できていなかった。   『だって、そんなの。いつスイッチ入るかも、わからないのに』  第二次性徴後、自分からフェロモンが出ているのは、何となくわかった。  コントロールできる感覚もあったが、調節が難しい。  自分にあう抑制剤を見付けるのも困難で、副作用も重かったし、薬効も薄かった。    そのせいなのか、襲ってくるアルファは、ほとんどが正気じゃない。  使冴に覆い被さったことすら覚えていない奴も多い。  あの頃は、自分を守る方法がわからなかった。 『泣いてたって、変わらねぇだろ。いつでも俺が助けられる訳じゃねぇんだぞ』  使冴の手を引いて歩く匠が、振り返った。 『お前、元から喧嘩が強いんだから、ぶん殴ってやれ』 『ガキの頃は、強かったけど。今は拳じゃ、勝てないよ』  アルファやベータが男らしく成長していくのに、使冴の体は雄々しさとは無縁だ。  腕は細くて腰もくびれて、まるで女性のような体つきになっていく。  昔は使冴より背が低かった同級生に、あっという間に身長を抜かれていく。  悔しくて情けなくて、涙が止まらない。 『筋トレもしねぇで諦めんのか? そっちのが、使冴らしくねぇ。拳で負けるなら、足を使うんだよ』 『足って、蹴り?』 『足技なら腕より強いし、小柄な使冴なら、高く飛んだりできそうじゃん。顎か眉間にヒットさせりゃ、一発だ。脳みそ揺さぶってやれ』  悪戯っ子のように匠が笑う。 『俺が教えてやっから、足技を覚えろ』  乱暴に頭を撫でる腕が、顔を隠してくれる。  使冴の意地っ張りも、負けず嫌いな性格も知っている匠だから、見ないように気を遣ってくれている。  恥ずかしいけど、安心する。 『蹴り、強くなりたい。筋トレしたい。匠兄ちゃん、教えて』 『任せとけ。自分くらい自分で守らねぇとな』  いつでも助けに来てやると言われるより、何倍も頼もしくて、有難かった。  それ以来、下半身を鍛える筋トレを匠と繰り返した。  自分の体を支えられる程度には、腕も鍛えた。  高校に進学した頃には、昔のように喧嘩で負けなしになっていた。  悪ぶっていたつもりはなかったが、学校ではヤンキー扱いされていた。 『オメガに伸される情けねぇアルファになりたくなかったら、二度と俺の前に現れんな』  そんな捨て台詞と共に負けなしオメガの噂が広まって、使冴に近付くアルファが減っていった。  元々、明るい髪色や鋭い目付も、拍車をかけたのだと思う。   『天使みたいな名前と綺麗な顔をした、オメガらしくないオメガ』  不名誉な噂のお陰で、中学の頃のような危険な目に遭う頻度が減った。  代わりに同じオメガの女子や男子と仲良くなれた。  その頃にはもう、フェロモンのコントロールも自在になっていた。   (あの頃、ベータの匠兄貴がタイミングよく助けに来てくれる理由なんか、考えもしなかったけど)    きっと、施設長の双葉葵が気にかけてくれていた。  一般的なオメガよりフェロモン量が多い使冴を、いつも心配してくれていた。  歳が近くてフェロモンに左右されないベータの匠に、使冴の世話をさせていたんだと思う。  高校を卒業して、施設を出ることになった時、葵がくれた言葉を思い出す。 『私たちは、いつでも、どこにいても使冴の味方だ。忘れないで』  十二歳の年の暮れ、海越丘公園の墓地に連れて行かれた時と同じ言葉を、双葉葵は使冴にくれた。  葵は時々、悲しそうに微笑んで使冴の頬を撫でる。 (墓地に行った時も、施設を出る時も。同じ顔で、同じ言葉をくれた。だけど、俺は……)  どうしてか、あの顔が怖かった。  顔も声も、言葉も優しいはずなのに。  握る手が強くて痛かった。  撫でる手が、やけにざらついていた。 (あんなに良くしてもらったのに、近付けなかったんだ)  施設には、世間では数が減っているはずのアルファやオメガの子供が多かった。  施設長のバースは知らない。  だが、普段から子供と距離を取って見えたし、姿を見せる日は少なかった。  会う頻度は少なくても、子供たちには優しい人だったと思う。 (別のどこかで、あの顔に会っている気がする)  誰かに似ているような気もするし、別の場所で会っている気もする。  何かが引っ掛かるのに、思い出せない。 (声も、顔も、きっと知っているはずなのに)  思い出そうとすると、怖い。  理由は、よくわからない。  伊純と二人きりの部屋、 世間から隔離されたこの空間は、安心できる。  だからなのか、心の奥底に仕舞い込んだ記憶が、ぽつりぽつりと蘇ってくる。 (思い出せたら伊純の役に立てるし、俺のためでもあるって、思うのに。まだ、怖い)    覚えていたら耐えられないから、隠した。  そんな思い出ばかりだから。  怖さを感じると、伊純の体温を探して、縋り付く。  伊純の匂いに包まれると安心して、眠りが襲ってくる。  もっと狭い場所に逃げ込める。  家族のことも、幼少期の記憶も、怖くはないのに。  双葉葵だけは、怖かった。 「……かさ、使冴、大丈夫か?」  聞き慣れた声が、耳元で名前を呼ぶ。  ぼんやりと開いた目に、見慣れた顔が映る。 「伊純……大丈夫、だけど。まだちょっと眠い」  伊純の体に腕を回して、ふわりと抱き付く。  体が重くて、頭がぼんやりする。 「ゆっくりしてろ。今日は寝ていて、いいから」  伊純が起き上がる気配に、顔を上げた。 「今日って、何日だっけ? もう、出る日?」 「まだ、二日前だ。今日は、ゆっくりできる」 「……そっか」  発情期に入ってから、ずっと伊純と寝てばかりから、日付の感覚が曖昧だ。 (今までで、一番重い発情期だったかも。伊純がいなかったら、ヤバかった)  薬がほとんど効かなかったから、ほぼ毎日、伊純に抱いてもらった。  性交すれば少しは落ち着くが、時間が経てばまた発情する。  特に最初の三日間は酷かった。  丸一日、伊純とベッドにいたと思う。 (倫太郎さんと話した時は、平気だったのに。あの後から日付の境も、記憶も曖昧だ。伊純の顔しか覚えてねぇ)  倫太郎と話したのが何日前だったのかすら、思い出せない。 「伊純は、起きる……?」  そっと腕を掴んで、伊純を見上げる。  伊純が、ごくりと喉を鳴らした。 「もうちょっと、いる」  するりとベッドに横になって、使冴の体を腕で包んだ。  流れ込んできた匂いと体温が心地よくて、肌に寄り添う。  伊純が、使冴の首筋に鼻を寄せた。 「まだ、良い匂いしてる。欲しい?」  伊純の手が使冴の肌を滑った。  小さな刺激に、体がピクリと震える。 「それより、今は……」  伊純の腕に頭を乗せて、肌に口付けた。 「伊純に抱かれて、寝たい。肌が触れてるだけで、気持ち良くて、安心する」  性交の快感より、直に肌を寄せ合って眠る心地良さが欲しい。  伊純が使冴の体を抱き寄せた。 「……可愛い。使冴を抱いて、永遠に寝ていたい」  甘えた声を零して、伊純が使冴の匂いを吸い込んだ。 「仕事、大丈夫? 寝ていて、平気?」 「少ししたら起きるけど。今は平気」 「ん……ありがと、伊純」  本当なら、オークションまでにするべき準備や仕事が、伊純にはあるはずなのに。  付き合わせて悪いと思う気持ちより、心地良さが勝る。 「思い出せそう、なんだ……けど、伊純にくっ付いてると、ぐっすり眠って夢も見ないから、無理かな」 「思い出すって、何を?」  伊純の問いかけに、使冴は頭の中の記憶を探した。 「火事の後、俺を施設に運んだ男……俺は知ってるはずなのに。思い出せないんだ」  娶ってやると言った男が浮かべた笑みは、下卑て汚かった。  どうして、この人は自分をこんな目で見つめるのだろう。  恨みなのか、憎しみなのか。  ただ、怖かったのだけは、覚えている。 「怖いけど、伊純がいれば、平気だから」  伊純の腕が、使冴を強く抱いた。 「無理すんな。今のままの使冴で、充分だ」  伊純の声が優しく響く。  聞こえる声も、触れる手も、伊純がくれるものは、総てが安心する。 「好きだよ、伊純。だから、平気……」  怖い気持ちは今はなくて、だから安心して眠りに落ちていける。  伊純が使冴を離さないと知っているから、温もりに浸れる。  きっとまた、何も思い出さずに、心地良い闇に包まれるんだろう。  そんな風に安心しながら、優しい腕に寄りかかった。

ともだちにシェアしよう!