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第53話 鏡の中の人間

 終わらせるために生きている。  それが自分の役割だから。  総てが綺麗に終わったら、この命も尽きるんだろう。  終わらせてくれる相手なら、知っている。  ――誰にも望まれなかった雀蜂を、皆に望まれる女王蜂が終わらせてくれる。  そのために、天久使冴を汚した。  生きることに絶望しそうな経験を何度与えても、彼の心は汚れない。  それどころか、泥の中で咲く蓮の美しさは増すばかりで。  手折りたい衝動に耐えながらギリギリの傷を付け続ける行為に、興奮した。  物心ついた時に記憶していたのは、狭くて四角い部屋だった。  何もないその部屋で、息をしているだけ。  息を吸うためだけに飯を食って、心臓を動かす。それだけ。 『天久から女王蜂を奪え。オメガを奪え。お前を生かした理由は、それだけだ』  最初に認識した、自分の役割。  息を吸う以外に自分が生きる意味を、初めて知った。  自分を雀蜂と呼んだ男は父親のアルファらしい。  溢れる感情が憎しみだと知ったのは、つい最近だ。  アルファの父親は時々、小さな男の子を連れてきた。  男の子は、鏡に映る人間と同じ顔をしていた。 『与える名前はひとつだ。互いを模倣し、同じ人間になれ。お前たちは二人で根黒倫太郎だ』  個体を識別するための記号を共有する。  雀蜂から倫太郎になった。 『双子の兄さんがいるって、父さんに聞いてたんだ。会えて、嬉しい』  その子が泣く理由が、わからなかった。  男の子の目から流れる雫は涙だ。  生理現象以外でも、人間は涙を流すらしい。  涙には、感情が含まれるのだと知った。  自分の中にはない、人間の色、みたいなものだと思った。  縋りついて泣く男の子を眺めながら、鏡と見比べた。 (鏡に映っていたのは、僕か。僕は鏡の中にいる人間なんだ)  狭くて四角い部屋、ここは鏡の中だ。  自分を兄と呼ぶ男の子を真似て生きようと思った。  生まれて初めて出た鏡の外は、広かった。  只々、広い。  広い世界で、弟と同じ名を名乗り、弟のように生きる。  何もなかった輪郭の中に、倫太郎を注ぎこんだ。  広い世界で生きるため、倫太郎になるために、必要な知識は余すことなく吸収した。  空っぽだった輪郭の中に、知識と経験を注ぎ込んだ。  根黒倫太郎という弟として生きるための手段だ。 『あの施設にいる子供たちは、オークションの商品か、根黒組の駒になるんだって。僕らの兄弟も沢山いるよ』  兄弟という存在が、よくわからなかった。  ただ、倫太郎は兄弟たちを愛しているのだろうと思った。 『僕らが自由に生きるには、壊すしかない。こんな場所は、続いちゃいけない』  倫太郎は、たくさんの人間の色を持っている。  施設や父親に対して倫太郎が抱く色は、汚い。  それが愛憎という感情だと教えてくれたのは、オメガの父だった。 『いらねぇんなら、壊していい。欲しいなら、奪っていい。どれだけ歴史が長かろうが、組織が腐っていようが、成るようにしかならねぇから』  自分を産んだ男が、笑う。  諦めた顔で笑う男は、少しだけ自分に似て見えた。  輪郭しかない空っぽの中に、この人はまだ何も注ぎ込んでいないのだと思った。  なのに、人間の色が見え隠れする。 (ああいうのを、自我と呼ぶのか)  自我とはきっと、四角い鏡の中にはない、人間が持つ核なんだろう。  自分は多分、それを持っていない。  羨ましいとも思わない。ただ、持っていない。  だから自分は倫太郎になれる。 『僕と匠の命を、兄さんにあげる。兄さんは頭が良いから、どんな奇抜な作戦も思い付く。兄さんは僕だから、僕の願いを叶えるよね。約束だよ』  自分は倫太郎だから、倫太郎が願うように生きる。  倫太郎の思考で、倫太郎が感じるように生きる。  約束は、倫太郎が生きる意味で、総てだ。 (約束を果たしたら、倫太郎も終わるのか。僕は、死ぬのだろうか)  死んだら、どうなるんだろう。  輪郭の中に注いだ中身が死んでなくなったら、次は?   (この体は、僕は、何者になるんだろう)  息を吸い込むのも、熱を感じるのも、総てが倫太郎なのに。  倫太郎じゃなくなった自分は、何になるのだろう。  不意に触れた立体的な熱に、目を開いた。 「起こした?」  御影伊織の顔が見えた。  かさついた指が、頬を撫でていた。 「寝ていないよ。目を瞑っていただけ」  伊織のベッドに転がって、鏡の世界を反芻していただけだ。 「僕に抱かれたくなった? それとも、寝込みを襲うつもりだったのかな?」  頬を撫でる伊織の指を、すぃと撫で返す。  伊織の指が肌に触れるのは、嫌いじゃない。  流れ込んでくる熱が、似ているからだろうか。  自分を殺す心に慣れている、嘘を吐き慣れた熱だ。  その熱は、自我を知らない、人間の色を持たない熱と、何故か似て感じる。 「抱かれるよりは、抱いてみたいね。俺が抱いて、倫太郎がオメガになったら、面白い」  性転換は雀蜂αの専売特許じゃない。  数は少ないが、突然変異で起こる現象として、報告例がある。  アルファがオメガに転ずるには、α同士の性交中に項を噛むケースが多い。  必要なのは、α同士なのにフェロモンを感じとる相性と、深い愛情だ。 「雀蜂αが普通のαにビッチングされるなんて、滑稽だ。三文芝居みたいで、僕好みだよ。けど、伊織は困るんじゃないの?」 「困るよ。だから今はまだ、抱かない」 「なら、僕が抱いてやろうか? 僕や使冴君のフェロモンに中てられて、辛いんじゃない? 溜まってるでしょ?」  伊織の耳を指で摘まむ。  舐めるように撫でて、揉み上げる。 「溜め込んだ分全部、倫太郎の中に吐き出したいね。いいや、倫太郎じゃない君に突っ込みたい」    伸びてきた伊織の指を、無意識で避けた。  逃げたような仕草に、自分で戸惑った。  伊織の目が、細く笑んだ。 「伊純に聞いたよ。根黒倫太郎の戸籍を双子で共有していた仮説を、倫太郎が肯定したってね」  ついさっき、伊純としたばかりの世間話を、既に伊織が知っている。  御影兄弟の情報共有の速さは、信頼の深さだ。 (互いを別個体と認識しているからこその信頼。絆という、見えない縛り)  伊純と伊織を観察していると、兄弟とは何なのか、答えが見えそうになる。 「その噂は面白いね、と相槌を打っただけだよ。僕は根黒倫太郎だ」  約束が果たされるまでは、倫太郎だ。  だから今は、倫太郎でいい。 「本体は、死んだ弟だった? 模倣しているのは兄のほう、だね?」  伊織がニコニコと問い掛ける。  如何にも害がなさそうな笑みに、計算高い素顔が滲む。   「どうして、そう思うの? って、とりあえず聞いてあげるよ」  伊織は煽っているつもりなんだろう。  その通りだから否定しないし、事実を教える気は今のところない。  ただ、この男と話すのは、楽しい。  個人的な興味を、個の人間に持ったのは、初めてだ。 「使冴君への執着、ホームセンターで拉致した弟のほうが強かった。本当に使冴君を好きだったのは、弟のほうだろうと思ってさ」  天久使冴への興味関心、いわゆる愛を秘めていたのは、倫太郎だ。  だから自分も、使冴を愛している。 「僕は使冴君を愛しているよ。この愛が、どう形になるかは、まだわからないけど」  倫太郎の使冴への愛は、一般的に表現するなら歪んでいた。  じわじわと嬲って追い詰められる使冴の姿に興奮していた。  だから自分も、興奮する。 「へぇ、表出の方法を悩むんだ。特殊性癖の表現に戸惑うくらいには、差異があるんだね」  伊織が目を細めた。  言葉の揚げ足を取るのが好きな性格は、面白い。 「自分の性癖が特殊である自覚はあるよ。どんな愛だって、深いほどに戸惑うのは常だろ」 「優秀な一般論だ。模範解答だと思うよ。故に無味だね。執着しすぎてドロドロだった弟からは、程遠い」  伊織が満足そうに倫太郎を眺める。 「あの時ほど、表に出していないだけだよ。同じようにして伊純の反感を買うのは、現時点で得策じゃない」 「ふぅん、我慢している訳だ。伊純の信頼が欲しい? 俺の信頼が欲しいんじゃなかったっけ?」  使冴と掃除をしながら交わした会話だ。  三人の間の情報共有は盤石らしい。  伝えるために話した言葉だから、それでいい。  なのに何かが、胸の奥に小さく刺さる。 「伊純より伊織の信頼が、欲しいかな。伊織になら抱かれても良いってくらいには、お気に入りだからね」  伊織が、嬉しそうに笑う。  その表情が理解できなくて、返事に躊躇った。 「さっきから使冴君への言葉より、俺に向ける言葉のほうが、熱っぽく聞こえる」 「適当に、はぐらかしているだけだよ。伊織なら、わかるだろ」 「わかるよ。使冴君より、俺に興味があるんだなって」 「どうして、そう思うの?」  さっきと同じ言葉で、違う疑問を投げた。 「同族愛って、言っていただろ。俺に飼われたいのは、自分を知りたいからだ」    伊織の言葉が予想外で、瞬時に理解できなかった。 (自分? 自分とは、僕を指しているのか? 僕は、僕を知りたい?)  少なくとも伊織はそう感じている。  伊織の思考が不可解だった。  戸惑う心を作り笑顔に隠して、倫太郎は伊織を眺めた。 「俺は君に興味があるからね。話していれば、君自身の興味の矛先くらい、わかるよ」  自信満々という風でもなく、伊織が言い切った。  倫太郎本人すら意識していない心が、どうして伊織にはわかるのか。  伊織の目に、倫太郎はどう映っているのだろう。 「俺は、根黒倫太郎ではなく、君そのものに興味がある」  胸の奥で、何かが揺れた。  自分を倫太郎以外の何者かと仮定した人間は、初めてだ。  不可解だった伊織の言葉が頭の中で弾けて、じんわりと沁み込んだ。  不安や恐怖とは違う不安定な感情が、胸の奥に疼いた。 「だから、全部が終わったら君が欲しいと、伊純に直談判したんだ。君の予測通り、Dissolveの実質の権限は伊純にある。俺はただの雑用だからね」  自分を倫太郎以外と呼ぶ男が、自分を見詰めて、自分に話しかけている。  約束とは関係ない、生きるのに関係ない興味が湧いた。  目の前の伊織という人間も、自分の中に湧き上がった感情も。  初めて感じる、人間への興味だ。   (これは、何だろう。感情、というものか。僕の、人間の色なのか)  自分の色で、伊織と話がしてみたい。  輪郭の中に、わずかに湧いた色の正体が、わからない。  外側から流し込むのではない、内側から湧き上がった、人間の色だ。  気が付いたら、シャツを握り締めていた。 「欲しいんだ、僕が」  倫太郎ではない、何者でもない自分を、求められた。  伊織が間髪入れずに返事した。 「欲しいね。何重にも被ったペルソナを剥いでいったら何が残るのか、見てみたい」 「随分と、悪趣味だ。伊織の厚顔無恥な性格は、嫌いじゃないよ」 「俺ほどの紳士はいないけどね。身をもって教えてやろうか」  ゾクゾクする胸を抑える。  伊織との会話は、幼稚なマウント合戦でも、どういう訳か楽しい。  普段なら、楽しいなんて感じるほど、他者との会話が脳に沁み込んでこないのに。  だから、乗る気になった。 「オークションまでは、伊織に飼われてあげるよ。僕を捕まえられたら、オークション後の継続飼育も、考えてあげてもいい。欲しければ、チャレンジしてみてよ」  伊織が、さっきとは違う笑みを滲ませた。  楽しそうにも、嬉しそうにも見える。 「そのゲーム、楽しそうだね。落とす自信ならあるんだ。捕まったら君は、きっと俺から逃げられないけど、いいの?」 「逃げられない? どうして?」 「君は俺のことが、好きだから」  好戦的な瞳が、真っ直ぐに向く。  ドクンと、心臓が大きく鳴った。 (好き。僕は伊織が、好き。この色は、好きって色か。面白い)  胸の奥が、ゾワリと騒ぐ。  手を伸ばして、伊織の唇を捕まえた。 「伊織はとっくに、僕に惚れていそうだね。伊織のほうこそ逃げられなくなりそうだけど、いいの?」 「手中に収めたいと思う程度には、惚れてる。逃げる気も、逃がす気もないね。俺にとっても、同族愛だ」  伊織の顔が近付いて、唇に吸い付く。  閉じない瞳に、倫太郎の顔が映り込んだ。  鏡に映る自分とは、少し違って見えた。  この瞳が倫太郎を捕まえても、逃しても、どの結果も面白そうだ。  何もない輪郭の中に、じんわりと何かが湧く気配がした。

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