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第56話 マウント
とっぷりと陽が暮れて、海の上が完全に夜に染まった。
船が沖に出てから小一時間は経過しただろうか。
「さてと。僕らも、隣の部屋で準備しようか」
倫太郎が使冴の手を引いた。
「準備って、何を?」
「身なりを整えるんだよ。商品は見た目も美しくないとね。蜂は特別な商品だから」
それもそうだ、と思った。
別の目的があるにせよ、今日の使冴と倫太郎は表向き、オークションに出品される商品だ。
「俺も一緒に入って準備を手伝う。心配すんな」
伊純が使冴の頭を、するりと撫でた。
「伊純は、ここにいてよ。不測の事態に対処するのも黒服の仕事だよ」
「お前と使冴が二人きりになるのが、まさに危険な事態だろ」
「失礼だな。この期に及んで、大事な商品を傷付けたりしないよ」
倫太郎が使冴の肩を抱いて頬擦りする。
伊純が険しい顔で倫太郎を押し退けた。
「大事な商品なんだろ。必要以上に触れんな」
「蜂のプレゼンは二匹同時だ。僕らはアルファとオメガだから、絡み合っているほうが絵になる。それっぽくしないと調教不足だと、客に不審がられるよ」
「それなりに見えればいい。そういう演技、使冴ならアドリブで誤魔化せる。絡みすぎんな」
使冴の腰を引き寄せて腕を回す倫太郎を、伊純が必死に剥がす。
(倫太郎さんが伊純を揶揄ってる。こんな時でも余裕だな)
Dissolveにとっては、一世一代の大捕物だ。
倫太郎にとっても、積年の悲願を遂げる日であるはずだ。
もっと緊張しても良さそうに思う。
「大体、プレゼンだって……!」
伊純が言葉を止めて、左耳のインカムに手を当てた。
倫太郎から離れて、伊織に歩み寄る。
インカムに聞き耳を立てながらスマホを確認していた伊織の目が、伊純に向いた。
二人の背中に緊張が走った。
「……兄貴、俺が」
「いや、現場なら俺が行く。伊純は何があっても使冴君から離れるな。無事に連れ帰るまでが、今回のお前の仕事だ」
伊織が伊純に囁いた声は、離れた場所にいる使冴にもかろうじて聞こえた。
「甲板で騒ぎがあったみたいだ。様子を見てくる。使冴君は、伊純から離れないようにね」
振り返った伊織の顔は、いつも通りの笑顔だ。
けれど、俄かに浮いた緊張は読み取れた。
「うん……わかった」
使冴の返事を確認して、伊織が倫太郎に歩み寄った。
「俺がいなくて寂しいだろうけど、伊純の指示に従ってね。俺とのゲーム、忘れてないだろ?」
伊織が煽るような視線を論太郎に受けた。
「勿論、ちゃんと覚えてるよ。僕は使冴君と違ってDissolveの人間じゃないから、伊純の指示に従う理由がないけど。ゲームの一環なら猶更、無視だね」
倫太郎が伊織を見上げて余裕の笑みを浮かべる。
「寂しい、は否定しないんだ。可愛くなったね、倫ちゃん」
いつもの言い合いが、不意に止まる。
倫太郎が珍しく言葉を詰まらせた。
「……その呼び名は、好まないな」
倫太郎が小さく呟いた。
声も表情も、心なしか拗ねているみたいに見える。
伊織が倫太郎の耳元に口を寄せた。
「ゲームは現在進行形で継続中だ。何があっても捕まえに行くよ。俺がいない間は、好きにやるといい」
倫太郎にだけ向けられた言葉は、隣に立つ使冴にも聞こえた。
倫太郎が顔を逸らしたから、表情まではわからない。
「言われなくても、好きに動くよ。僕の捕縛より、使冴君が壊れないように、精々守るんだね」
「使冴君は伊純が守る。俺はこのオクで倫ちゃんを競り落とすつもりだから、覚悟して」
伊織が倫太郎の頬に口付けた。
倫太郎が、ぐっと息を飲んだ。
「御影の総資産を突っ込んでも、落とせるかな? 蜂は既に高額だよ」
「大丈夫、力尽くで奪うから」
「横暴だね。僕が、逃げないとでも?」
「倫ちゃんは逃げないよ。というか、逃がさないって言っただろ」
倫太郎の顎を掴み上げて、伊織が無理矢理に口付けた。
ビクリと緊張した倫太郎の手が、伊織の腕を払おうと掴む。
そんな倫太郎はお構いなしに、伊織が唇を押し付けた。
「……んっ」
小さく零れた倫太郎の声を聴いて、伊織が満足そうに顔を離した。
「俺が捕まえに行くまで、生きて待っていてね、倫ちゃん」
伊織が倫太郎の頭を撫でる。
俯いて口を拭う倫太郎の耳が赤い。
「それじゃ、行ってくるよ」
使冴たちに笑顔で手を振って、伊織が部屋を出て行った。
伊織と倫太郎のやり取りを、使冴は呆然と眺めていた。
「兄貴、本気か」
思わずといった感じに零した伊純の顔も、呆気に取られている。
どうやら、伊織お得意の演技というわけではなさそうだ。
(フェロモンにやられたって感じでも、なかったよな。伊織兄ちゃん、本気で倫太郎さんを好きになったんだ。それに……)
隣の倫太郎を、ちらりと覗う。
俯いたまま何かを思案する顔は赤くて、照れを隠せていない。
いつもの倫太郎からは想像もできない表情で、逆に何も言えなかった。
「……これは、何ていう色、だろう」
倫太郎から零れ落ちた声は、小さな子供の純粋な疑問に聞こえた。
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