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第62話 解放
床に置いた銃が重く沈黙する。
倒れ伏した天久聖己は、拘束されたまま微同大になかった。
ただ息をするだけの聖己の丸まった背中が、やけに存在を希薄にしていた。
使冴は、その姿から目を離し、小劇場を見回した。
(終わったのか。でも……)
胸の奥に引っ掛かるものが消えない。
終わったはずなのに、何かがまだ、残っている。
使冴は流していた視線を止めた。
客席の最前列に、双葉葵が座っていた。
逃げもせず、怯える様子もない。
まるで舞台の幕引きを見届ける観客のように、静かに拍手すらしそうな顔で、そこにいた。
「これで、いいかな? 葵父さん」
ステージから降りた倫太郎が、そう声を掛けた。
その声には、達成感も、怒りもない。
あるのは、役目を終えた後の、奇妙な空白だけだった。
葵はゆっくりと顔を上げ、倫太郎を見た。
「良いも何も……」
小さく息を吐き、葵が笑う。
「最初から、好きにしろって言ったろ。これが、お前が選んだ結果だ」
その言葉を聞いた瞬間、使冴の背中を冷たいものが撫でた。
(なんだ……? 葵さんの言葉、何かが違和感だ)
拍手を待つようなその男こそが、本当に幕を引こうとしている存在だと、使冴は直感した。
「殺すと約束した。なのに、殺せなかった」
倫太郎が俯く。
「どうして、殺せなかった?」
「……使冴君と同じ気持ちになったから」
葵に向かって話す倫太郎に、いつもの飄々とした様子はない。
まるで懺悔する子供のようだ。
「倫太郎がしたいようにすればいい」
「倫太郎は、殺したかったと思う」
「それは弟の気持ちだろ。俺が聞いているのは、お前がどうしたいかだよ、倫太郎」
「倫太郎は、弟だよ。僕は……空っぽの雀蜂だ」
倫太郎が唇を噛んだ。
葵が、ふっと息を吐いた。
「馬鹿だな。簡単に終われたら、苦労しない。お前は倫太郎から、逃げられはしないんだよ」
「なら、次は? 何のために倫太郎を演じればいい?」
倫太郎の目に、不安が滲んで見えた。
「今度は、自分の中の倫太郎を探せ。外側から注ぎ込むんじゃなく、内側から湧き上がる色だ。――見付けられるかは、知らないが」
「輪郭の、内側?」
不安げな瞳に、今度は驚きが浮いた。
「空っぽの内側に、湧き上がる、色」
倫太郎が言葉を噛み締める。
その姿が、使冴には違和感だった。
(倫太郎さんが、やけに子供っぽい。言葉もだけど、態度も。まるで従順で、怯えているみたいに見える)
親の叱咤を恐れる子供のような姿に、使冴の中にさっきと同じ不安が擡げた。
前に出そうになった使冴の体を、伊純が引き戻した。
伊純の目が、使冴を止めた。
「今の倫太郎なら、見付けられるだろ。今が、自分になる時だ。その為に必要なら約束も、俺も利用しろ。根黒組を壊すも奪うも、好きにしていい」
「約束、好きに……」
倫太郎がぽそりと呟いた。
瞳が揺れていて、戸惑いが浮いた。
あんな顔の倫太郎は初めて見た。
「後は頼むよ、倫太郎。俺はお前が、好きだから。頼りにしてる」
葵が倫太郎の手を握った。
「好き……。そうだね、僕も葵父さんが、好き、だよ」
倫太郎の唇が震えている。
同じように、葵が握る倫太郎の指先が、小刻みに震えた。
「倫ちゃん」
伊織が倫太郎の肩に手を置いた。
倫太郎の肩が、大きく跳ねた。
「伊織……?」
倫太郎が、伊織を見上げた。
まるでそこにいたことを忘れていたような顔だ。
「良い話に纏めたいようだけど。雀蜂の洗脳はアンタの担当か、双葉葵。NGRで人気の調教師は、アンタだろ。倫太郎の扱いに、随分と慣れて見えるね」
葵が、醒めた目で伊織を眺めた。
「根黒厳随が神隠しの異名が付くほど正体不明だったのは、聖己とアンタが二人で組長を演じていたからだ。聖己の陰に隠れて、どれだけやりたい放題してきた?」
伊織の目が細まる。
珍しいくらい、敵意むき出しの目だ。
葵が、細く息を吐いた。
「その通りだよ。今更、言訳する気もない。逮捕されて当然のことをしてきた。ただ、子供たちは俺なりに可愛いと思って育ててきたんだ。調教なんて、本当は……」
「産んだ子供は札束と同じに見える、だったか。アンタが組員に高笑いで話した言葉」
伊純が葵の言葉を遮った。
葵の肩が、ピクリと震えた。
「人を陰で動かし、自分は表に一切出てこない。動きが派手になり、邪魔になり始めた聖己を始末するために、倫太郎を使った。白玉銀次が、丁寧に教えてくれたよ」
葵の顔から色が消えていく。
「本当の黒幕は手前ぇだろ、双葉葵」
伊純が、静かに言い放つ。
抑圧された声には、怒りが滲んでいた。
「そっか、銀次がね。やっぱり銀次は御影の犬だったか。爺の調教までは、うまくいかないな」
葵の唇が、薄く笑んだ。
「勘違いすんな。白玉のおじきが黙秘で義を通した相手は、御影でも根黒でもねぇ。使冴と倫太郎だ」
使冴は、伊純を見上げた。
真っ直ぐに葵を見詰める伊純の目に灯が灯る。
(店長は、俺や倫太郎さんを守るために、辛い場所で、耐えていてくれたんだ)
黙秘を通したせいで、銀次は根黒に寝返った扱いをされていた。
タイミングを見計らって、話してくれたのだろう。
(昔から店長は、大事に守ってくれていたもんな)
思いが込み上げて、使冴の目が潤んだ。
「僕も……」
倫太郎が、ぽそりと零した。
「違うだろ、倫太郎。銀次は弟の付き人だ」
葵の鋭い声に、倫太郎が身を強張らせた。
「倫ちゃんも、だよ。銀次が守っていたのは二人の倫太郎だ。どっちも大事な若だって、話していた」
伊織が倫太郎の肩を抱く。
倫太郎の目から、ぽろりと雫が落ちた。
「倫太郎の仮面が、ここまで崩れるのは異様だ。お前が何を仕込んだかは察しが付くよ。幼少期の未熟な感情に沿って言葉と薬を与え続ける。時間はかかるが簡単な心理操作だ」
伊織の目が凄味を増した。
怒りを隠しきれていない。
「子供が父親を好くのは、順当な感情だ。好きって感情や約束は、子供にとって特別だからな。父さんが好きだろ、倫太郎。子供の頃から、父さんとも沢山、約束をしたね?」
倫太郎の指がピクリと跳ねた。
瞳の奥が、にわかに揺れる。
「う、ん……。好き、だよ。葵父さんは、優しいから。聖己父さんが葵父さんを虐める時は、僕が守るって、約束、した……」
伊織が、倫太郎の肩を引き寄せた。
「今の倫ちゃんが好きなのは、俺だよ」
「んぅ……」
強引に重ねた唇に、倫太郎の息が止まった。
「好きと約束が、トリガーか。弟や砂川にも、同じ仕込みをしたな。益々、救う余地はないね」
「……逮捕、すればいい。根黒組をどうするかは、倫太郎が決める。倫太郎は父さんを裏切らないだろ。好きを教えたのは、俺だ。約束も、俺とした。生きる場所を与えてやっただろ!」
葵の声に焦燥が浮かぶ。
表情に、さっきまでの余裕がない。
伊織が倫太郎の目を覗き込んだ。
「聞かなくていい。俺を見て、倫ちゃん」
倫太郎が、伊織を呆然と眺めた。
「俺なら呪いを解いてやれる。約束も好きもリセットして、最初からやり直すんだ。倫ちゃんの心を一緒に作るんだよ」
「こころ……」
「そう、心。内側から湧き上がる、倫ちゃんの中身だ」
伊織が倫太郎の胸を突く。
倫太郎の瞼が、重そうに下がった。
「それも、いいね。伊織に倫ちゃんと呼ばれるのは、くすぐったくて、好ましいよ」
クスリと笑んで、倫太郎が目を閉じた。
「空っぽの僕のままで、いいんだ……」
足の力が抜けて、倫太郎の体が伊織に凭れ掛かった。
「倫太郎! ふざけるなよ。手塩にかけて作り上げた傀儡を壊しやがって」
葵が慌てて立ち上がり、歯軋りする。
伊織を睨みつけた。
「伊純、もういいか」
「頼む」
短い言葉を合図に、使冴は駆け出した。
葵の前で、膝を折って飛び上がる。
「なっ!」
手で体を支えると、葵のこめかみに足先をめり込ませた。
葵の華奢な身体が派手に吹っ飛んだ。
床に落ちて、バウンドして転がった。
「自分の子供を傀儡呼ばわりする奴は、父親じゃねぇよ」
両手をしならせて、使冴はその場に着地した。
転がった先で、葵が痙攣しながら白目を剝いていた。
「派手に飛んだな」
伊純が葵の意識を確認しに行く。
「葵さん、オメガだろ。俺の針はアルファにしか効果ねぇから、蹴った」
呆気にとられていた伊織が、小さく吹き出した。
「そうだった。使冴君は喧嘩が強い、オメガらしくないオメガだったね」
伊織が笑いながら、倫太郎の頬を撫でた。
伊織の腕の中で寝息を立てる倫太郎は、安心しきって眠る子供のようだ。
白い頬にほんのりと朱がさして、目尻に透明な雫が浮かんでいた。
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