1 / 2
前編
浅い眠りから意識が浮上したとき、隣に座る女はいつの間にか、通路を挟んで座る男と話を始めていた。
この男は、出発ゲートの待合室からずっと三四郎の記憶に残っていた。搭乗直前までスマートフォンを片手に、誰かと軽薄な冗談を交わして笑っていたかと思えば、機内に入るや否や、逞しい体を座席に沈め、派手なブランドロゴのポロシャツの襟を大きく開いていた。きれいに切り揃えられた顎髭と、ゴルフで焼いたのであろう浅黒い肌が、機内の白い照明の下で妙に艶っぽく光っている。三四郎はそのいかにも「遊んでいる」風の、チャラついた男の気配に圧倒され、無意識に目を逸らしていたのだ。
ただ、この男は先程から、三四郎が女の横顔を盗み見るたびに、面白がるような、それでいて熱を孕んだ瞳をこちらへ向けてくる。その眼差しには、単なる揶揄を超えた、心臓を直接掴まれるような不思議な引力があり、三四郎は逃げ場を失ったような心地でいた。
女とは福岡空港からの相乗りである。
搭乗した瞬間から、三四郎の目は彼女に吸い寄せられていた。第一に、肌の色が健康的だ。三四郎は九州から上京するためにこの飛行機を選んだが、いざ離陸し、故郷の山々が雲の下に沈んでいくのを見るにつれ、得体の知れない寂しさに襲われていた。空港でチェックインを済ませてから、ラウンジや搭乗ゲートと進む度に、周囲の人間は白く、無機質に、洗練されていくような気がして、自分がひどく場違いな存在に思えていたからである。
だからこそ、この女が隣に座ったとき、なんとなく「同郷の味方」を得たような、心強い心地がした。彼女の纏う空気には、まだ九州の土の匂いや、飾らない強さが残っている。
地元の幼馴染であるお光さんのことを思い出す。国を出る直前まで、彼女は小うるさい、鬱陶しい存在だった。離れられるのがせいせいすると思っていたはずなのに、こうして空の上に放り出されてみると、お光さんのような愚直な温かさも、決して悪くはなかったと感じる。
ただ、洗練という点では、この隣の女のほうが圧倒的に上等だった。引き締まった口元、知性を感じさせるはっきりとした目。お光さんのような、どこか締まりのないだだっ広い額とは違う。
三四郎は五分に一度、タブレットから目を上げては彼女の横顔を盗み見ていた。何度か視線がぶつかりそうになった。三四郎が座席に座る際、彼女が「どうぞ」と自然にスペースを譲り、にこりと笑ったときなどは、三四郎はその横顔をできるだけ長く見ていた。
それからしばらくして、三四郎は機内の乾燥した空気に当てられ、まどろんでしまったのである。その寝ている間に、女と例の男は、三四郎を置き去りにしてすっかり打ち解けていた。
耳を澄ますと、女の声が聞こえてくる。
「……子供へのお土産は、やっぱり地元で買うより東京のほうが洒落たものがありますから。昨日もイオンモールで少し見てきたんですけど、結局どこにでもあるようなものばかりで、決められなくて。久しぶりに里へ帰って子供に会うのは楽しみなんですけど……。ただ、夫からのPayPayの送金が最近パタリとなくなってしまって、今回は実家に身を寄せるつもりなんです」
女の身の上話は、現代のどこにでもある、切実で乾いた響きを持っていた。
男は、三四郎の方を一瞥し、ふっと優しく目を細めてから、落ち着いた声で女に応じた。
「それは心細かったね。今の世の中、真面目にやってる人間が損をさせられることばかりだ。俺のところの若い連中もそうさ。顔も見えない相手から連日**カスハラ**を浴びせられて、心を病んで戻ってきたりする。一体、誰のための経済成長なんだろうね。……でも、あんたは偉いよ。そうやって前を向いている。旦那さんも、きっと事情があるはずだ。今は少し、自分を休ませてあげなさい」
男の言葉には、三四郎が想像していたような粗野な響きは微塵もなかった。むしろ、人生の酸いも甘いも噛み分けた大人の、甘く包み込むような優しさがあった。
やがて機体が高度を下げ始め、ポーンという無機質な電子音とともにベルト着用サインが点灯した。すると、巡回してきた客室乗務員が、前のめりになって話していた男に声をかける。
「お客様、まもなく着陸態勢に入ります。ご自身のお座席にお戻りください」
男は「あ、ごめん。すぐ戻るよ」と軽やかに笑い、「じゃあ、お大事に」と女に告げた。そして最後に、座席を立つ間際、三四郎の耳元をかすめるような低い声で「……またな」と呟き、自分の席へと引き上げていった。
男が去ると、機内には急に静寂が訪れた。窓の外はいつの間にか暮れなずみ、翼の先に点滅するライトが、暗い雲を規則的に照らしている。三四郎は思い出したように、空港の空弁コーナーで買った「鮎の煮びたし弁当」を食いだした。
飛行機が着陸に向けて高度を下げ始めた頃、不意に機内アナウンスが響いた。
『――皆様、機長よりお伝えいたします。当機は羽田付近の激しい雷雨を避け、久しく空に留まって機会を待っておりましたが、雲の去る気配は一向にございません。……当機はこれより針路を転じ、名古屋はセントレアの地へ向かうことに決意いたしました』
三四郎は慌てた。しまいがけの弁当の折を、前の座席の網ポケットへ力任せに押し込んだ拍子に、右肘が大きく泳いで隣の女の二の腕を突いた。 女の持っていたボトルから水が跳ね、彼女のタイトスカートに染みを作った。 三四郎が平謝りすると、女は「いいえ」とだけ答えて窓の外を眺めたが、その沈黙は三四郎の胸をひどく圧迫した。
つづく
ともだちにシェアしよう!

