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後編
名古屋・セントレア空港のカウンターは、怒号と溜息が入り混じる混沌の渦中にあった。
「……申し訳ございません。本日は急な悪天候で近隣の空きが極めて少なく、現在、お二人一組での相部屋をお願いせざるを得ない状況でして。何卒、ご理解を……」
三四郎のすぐ隣には、先程のあの女が、所在なげに俯いて立っている。濡れたスカートの裾が、彼女の白く細い足首に張り付いているのが、三四郎の目にはひどく煽情的に映った。もし、万が一にでも、この都会的な女性と同じ部屋で一夜を明かすことになったら――。
三四郎の心臓が、自分でも驚くほどの大きな音を立て始めた。その、期待とも恐怖ともつかぬ高鳴りを遮るように、背後からあのおらついた、しかし余裕に満ちた男の声が響いた。
「おい、お姉さん。それじゃあ彼女が可哀想だろう。見知らぬ若い男と二人きりなんて、このレディには酷だ。……そうだ、俺がこっちの彼と代わってやるよ。俺たちなら何の問題もない。そうだろう?」
男は三四郎の肩を、厚い手のひらでぐいと抱き寄せた。三四郎が「あ、いや……」と救いを求めるように男を見上げると、男は三四郎の瞳をじっと覗き込み、片目を鮮やかに瞑ってみせた。そのウィンクには、三四郎を射抜くような鋭さと、共犯者を誘うような甘い毒が含まれていた。
案内された部屋のカードキーを男が解錠し、三四郎が後に続いて足を踏み入れた瞬間、彼は絶句した。部屋の中央に鎮座していたのは、あまりに無防備に、広々と横たわる一台のダブルベッドであった。
「お待たせ。次は君の番だ」
浴室から、湯気を纏って現れた男が言った。三四郎は逃げ込むように浴室へ入り、鍵をかけた。シャワーの熱い湯を浴びながら、三四郎は激しい無念に身を焦がした。なぜ自分は、あの女ではなく、この正体不明の男と……。あの女の、しっとりと濡れたスカートの下にあるであろう、滑らかな肌を空想し、三四郎は溜息を吐いた。
浴室を出た三四郎は、震える手で鞄から私物を取り出し、ベッドの中央に一列に並べた。Kindle、ノートパソコン、絡まり合った白い充電ケーブル。
「……何をしてるんだ?」 男が低い声で笑った。
「いえ、その……セキュリティのようなものです。こうしておかないと、落ち着かない性質でして」
三四郎は支離滅裂な言い訳をしながら、自分の領土の端に身を横たえた。しかし、部屋を暗くしても意識は冴え渡るばかりである。やがて、隣の男が寝返りを打ち、境界線を越えて三四郎の方へと寄ってきた。
「……君、もしかして、眠れないの?」
男の熱い手が、三四郎の肩を、そして胸元を弄り始めた。
「あ、いや……ちょっと……」
三四郎は拒絶しようとしたが、その声には力がこもらない。不思議なことに、男の指先が触れる場所から、自分の体が裏切者のように熱を帯びていく。その接触は、決して不快ではなかった。むしろ、これまで味わったことのないような、恍惚とした痺れが三四郎を支配し始めた。
男の手が、三四郎の下着の縁を捉え、その中へと滑り込もうとした。その時、三四郎ははたと我に返った。
「だ、ダメです。いけません! 僕たち、男同士じゃないですか」
「何がダメなんだ?……君の体は、こんなに正直に反応しているじゃないか」男の囁きが耳元で弾ける。
「それとも、パンツの上からなら……いいの?」
三四郎は答えることができなかった。男の愛撫に、彼の理性は砂糖細工のように溶け去ろうとしていた。俺は何をやっているんだ。男に抱かれるなんて、あってはならないことだ。そう思いながらも、三四郎の頭には、ふと機内で見かけたあの女の横顔が浮かんだ。
その瞬間、女への背徳的な妄想が男の指先の感覚と重なり合い、三四郎の体はさらに激しく熱を放った。絶頂の予感に、三四郎は恐ろしさを感じて男の手を力任せに払いのけた。
「……ダメです、やっぱり! さわらないでください!」
三四郎は背を向け、毛布を頭から被った。
「どうした、急に。……嫌だったか? それとも、痛くしたかな。ごめんな」
背後から聞こえる男の声は、どこまでも優しく、三四郎を気遣っていた。しかし三四郎は「とにかくダメなんです」と繰り返すだけで、悶々としたまま暗闇を見つめていた。
夜は静かに更けていく。しかし三四郎の昂ぶりは一向に引かない。隣で静かな寝息を立てる男の気配が、いっそ呪わしいほどに恋しくなった。
ついに三四郎は耐えかね、自ら築いた境界線を越えた。無言のまま、男の背中に手を伸ばす。
「……どうした? 気が変わったのか」
男が振り返り、三四郎の顔を覗き込んだ。「続き、したいの?」
「で、でも……汚れちゃうから」
三四郎は、消え入りそうな声で、あまりに子供じみた懸念を口にした。男は一瞬虚を突かれたようだったが、すぐに愉快そうに笑った。
「なんだ、そんなことを気にしてたのか。……わかったよ。汚れないようにしてあげる❤︎」
——チュン、チュン。
窓の外で雀が鳴いている。
翌朝、三四郎は夕べの余熱を抱いたまま、男と部屋を出た。静かな廊下で、どちらからともなく手が触れ、指が絡まる。男の手は驚くほど温かい。三四郎はその体温にすべてを委ねるような幸福感に浸り、二人は睦まじくフロントへ向かった。
しかし、ロビーでフロントの女性スタッフと視線が合った瞬間、三四郎は弾かれたようにその手を振り払った。
三四郎は他人の振りを装い、カウンターの隅へ逃げる。手続きを終えた男が音もなく隣に立ち、その狼狽ぶりを静かに眺めていた。やがて男は耳元に顔を寄せると、憐れむような低い声で囁いた。
「……君は、よっぽど度胸のない方ですね」
と言って、にやりと笑った。男はそれきり振り返ることもなく、空港の雑踏の中へと姿を消していった。
三四郎は動く歩道の上へはじき出されたような心持ちがした。ひとり搭乗ゲートへ向かいながらも、引き留める言葉ひとつ持ち合わせなかった自分の不甲斐なさに、両方の耳がいっそうほてりだすのを覚えた。やがて機体は凄まじい音を立てて滑走し、宙へ浮き上がった。三四郎はそっと窓から下を見た。あの男はとうの昔にどこかへ行ってしまった。
ふと、三四郎は気がついた。昨夜、あんなにも深く熱を分け合ったというのに、自分はあの男の名前すら聞いていなかったのである。三四郎はしばらく、座席でじっと小さくなっていた。ただ、窓の外にはのっぺりとした灰色の雲ばかりが目についた。
おわり
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