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第1話

 夜が更けるにつれ、街中もすっかりと深い闇に包まれていく。辺りは静寂に包まれ、街灯の光でさえもの寂しげに小さな光を放っているだけだった。すれ違う人々は皆疲れきった表情でただ家へ帰るだけのために足を動かしているようにも見える。斯く言う蒼太もそんな人々同様だった。今日一日の仕事が終わり、疲弊した身体は気だるく眠気さえも感じる。それでも目的の場所へ向かうため何とか足を動かし続けていた。 「あっ、来た来た」  目的地である場所へと到着すると、見知った顔が笑顔で蒼太に声をかけてきた。新田拓海、スーツ姿で正に社会人という風貌をしている彼は蒼太の高校からの友人だ。付き合いが長く親友と呼ぶに等しいこの男とは、今でも月に数回会うほどの仲だった。そして今日は仕事帰りに蒼太の行きつけであるラーメン屋で夕食を共にしようと約束していた。 「いやー、お疲れ」  見慣れた友人の顔は何故だかものすごく安心感があり、蒼太の顔からは自然と笑顔がこぼれ落ちた。  店に入った二人は空いているテーブルへと案内された。既に二十時を回っていたために店内はさほど混んでいる訳ではなく、蒼太達と同じように仕事帰りに食べに来ているサラリーマンが数人いる程度だった。  楽な体勢で腰を下ろした二人は注文を済ませ、ここ最近で起きた出来事などを口々に報告し合った。すると突然「ねぇ蒼太」と拓海が蒼太の顔をじっと見つめ出した。 「何?」 「なんか疲れた顔してるね」  運ばれてきた水をゴクリと喉に流し込んだ蒼太は「えっそうかな?」ととぼけた声色で答えた。確かに今日は色々あって疲れが溜まっていた、けれどそれが顔に出ていたなんて蒼太は思ってもいなかった。流石は拓海、付き合いが長いだけの事はあって蒼太の小さな違いですら勘づいてしまうようだ。 「俺でよければ話聞くけど?」  親友の優しい言葉に、蒼太の胸はじーんと感動するような感覚に包まれた。昔から拓海は他人に気を遣える優しさを持っており、そんな拓海の事を蒼太は弟のように可愛がっていたものだ。  「お待たせしましたー」と店員が先程頼んだ二人分のラーメンをテーブルの上へと置いた。その食欲を刺激するような味噌の風味が蒼太の鼻へと届く。蒼太は自分の分である味噌ラーメンを目の前へ移動させ「じゃあちょっと話聞いてもらおうかな」と口を開いた。 「今日コンテストの結果発表があったんだ」  拓海はふー、ふー、と持ち上げた麺を冷ますため息を吹きかけ「コンテストって写真部の?」と尋ねると、勢いよく麺を啜り出した。  拓海同様に蒼太もラーメンを啜る。口の中に味噌の風味がふわっと広がる感覚に、先月食べた時とは少し違うような味の違和感を覚えた。しかし些細な違いだったため、蒼太は特に気にせず食べ進める。 「そうそう、うちの子らいいとこまでいったんだけど、やっぱり全国の壁は高いよね。結局は予選落ちで終わっちゃったんだ」  蒼太は所謂高校教師という職業に就いていた。担当は美術、そして写真部の顧問である蒼太は今日、写真部のコンテスト発表の付き添いをしていた。全国大会へ進めるかが決まる大切な結果発表、残念ながら蒼太の受け持っている生徒たちは誰一人として全国への切符を掴むことは出来なかった。  今日の出来事を思い出した蒼太の胸に、ズキリとした痛みが走る。そんな自分の気持ちを紛らわす為にも、視線を目の前で湯気を立てているラーメンへと向け麺を口へと運んだ。 「そっかぁ、それは残念だったね。それで落ち込んでたんだ」 「まぁそれもあるんだけど…」  拓海はもぐもぐと咀嚼しながら不思議そうに蒼太の顔を見つめている。少しの沈黙の後、蒼太はゆっくりと口を開いた。 「生徒の一人がかなりショックを受けちゃったみたいで過呼吸を起こしたんだ。その子前から感情がわーってなっちゃう傾向にあったんだけどね、今日も結果が発表されるまで心臓の音すごかったし」  一人の女生徒の姿を思い出した蒼太は暗い表情を隠せずに目を瞑った。今でも彼女の鼓動の音が蒼太の頭から離れることなく鳴り響いている。 「結果が出た瞬間その子泣き崩れちゃって…そっから過呼吸になって大変だったよ。頭がおかしくなるかと思った」 「そっか…蒼太は他の人の鼓動の音まで聞き取れるんだもんね。そりゃしんどいよなぁ」  一度手を止めた拓海は蒼太に同情の視線を送った。「耳が良すぎるのも考えものだよね」と笑ってみせた蒼太だっだが、その笑顔には疲れが滲み出ていた。  他人の鼓動まで聞こえる、これは物心ついた時から蒼太が持っていた特性であった。蒼太は他人よりも聴覚が優れている。けれどそれは聴覚だけの話ではなく、感覚全てが優れていた。言い換えてしまえば蒼太はとても繊細な人間だったのだ。  例えば味覚であれば少しの調味料を変えただけで味の変化に気づいてしまったり、視覚に関しては他人より多くの色が蒼太には見える。そしてこの二つは蒼太にとってはメリットのようなものだった。人よりも味を過敏に感じられるおかげでより食事が楽しいし、色彩の幅が豊かなおかげで蒼太は美術に興味を持つことが出来た。  しかし嗅覚と聴覚は少々厄介であった。香水、タバコの匂いなどといった特徴的な匂いは少し離れた距離でも感じてしまう程蒼太は鼻がいい。鼻が良すぎるためにそういった匂いを纏っている人が近づいたら少し気分が悪くなってしまう程だ。  そして最も厄介なのが聴覚、普通の感覚を持った人間ならば胸に顔を近づけたり、手を当てない限り他人の鼓動の音など聞こえないだろう。けれど蒼太の突出した聴覚は三十センチ程の距離であれば他人の鼓動を聞くことが出来た。ドクン、ドクン、という人間の鼓動は落ち着いている状態ならば不快感は感じずに耳心地が良い程だったのだが、極度の緊張状態や興奮状態の場合は別だった。  今日の女生徒がいい例だろう、元々感情的になりやすい彼女は結果が発表されるまで、かなり長い間激しく鼓動を鳴らしていた。そんな彼女の隣に座っていた蒼太は彼女の大きく鳴り響く鼓動の音を常に耳に入れていた。それだけでも蒼太の体調は崩れ始め頭痛さえも感じてしまう程だったのだが、結果が発表され彼女が泣き崩れた瞬間、鼓動の音、速さ、激しさがより増してしまい蒼太の頭を犯すような女生徒の鼓動に蒼太は気を失うかと思った程だった。  これ以上はマズいと思った蒼太は女生徒のことを他の生徒に任せ、すぐさま会場の外へと飛び出した。はぁはぁと乱れる呼吸を何とか抑えようとしたが、蒼太は頭の中に鳴り響いている鼓動の音からしばらく解放されることはなかった。 「まだしんどいの?」 「うん…寝れば良くなると思うんだけどね」  心配そうな表情で蒼太の体調を気にしてくれる拓海に、蒼太は大丈夫だと言うように微笑んだ。 「蒼太って高校の頃からそうだったよね、発表会とかあると毎回青い顔して保健室行ってたもん」 「あー、そうだったなぁ。でもあの頃よりは慣れたからさ、もう二十年以上もこの身体と付き合ってるわけだし」  「そっか、それならいいんだけど」と安心した表情で答えた拓海は再び箸を動かし始めた。  拓海の言う通り、蒼太はこの体質のせいでよく体調を崩していた。そのため保健室の常連となっていた蒼太を拓海含め友人皆心配してくれていたものだった。けれどもう二十代も半ば、この体質にも慣れてきた蒼太は今日の事もまぁ大変だったが何度か体験した内の一度に過ぎなかった。 「はぁ…でも最近疲れが酷くてさぁ…、生徒たちのことは大好きだけどやっぱり教師ってそれだけじゃ勤まらないんだよねー…。今回だって俺まで具合悪くなっちゃったせいで本来俺がしないといけない介抱を生徒たちに任せることになったし、ほんと申し訳ないよ」 「蒼太は優しすぎるんだよ、体調のことなんかしょうがないんだしさ。いやーそれにしてもほんとすごいよね教師って、俺絶対やりたくないもん」  拓海の正直すぎる返答に「確かに拓海には向いてないな」と蒼太は冗談めいた口調で笑った。 「どこかに俺を癒してくれるような子いないかなー」 「蒼太って今彼女いるよね?」   拓海からの急な質問に「へ?」と蒼太の声は裏返ってしまう。 「先月会った時は確かいたよね?その子に癒してもらえばいいじゃん」  蒼太は「あー…」と言葉を濁す。確かにいた、先月には。 「実はその子とはもう別れたんだ」 「え?!そうだったの?」 「うん、まぁ俺が振られたんだけど」  蒼太は二週間前の出来事を思い出し、つきたくもないため息をついた。  彼女とは二ヶ月前に友人の紹介で出会いめでたく付き合うことになったのだが、かなりの束縛癖があり蒼太自身気疲れを感じていた。それでも彼女を不安にさせまいと努力はしていた、けれど蒼太の努力も虚しく結局は蒼太の仕事が忙しくてなかなか会えない事が原因で振られてしまったのだった。 「仕事が忙しくて会えないって言っても他に女がいるんじゃないかって疑われたりさ…会えない分こまめに連絡もしてたのに…」 「うわぁ…俺は絶対無理だ…。蒼太ってどんな子相手でも尽くしまくって結局は振られること多いよね」  容赦なく痛いところを突いてきた拓海に「お前傷口に塩を塗るなよなぁ…」と蒼太は机に項垂れた。  自分でも自覚はあった、恋人が出来たら相手にとことん尽くしてしまう性分であり最終的には自分が損をする、蒼太の今までの人生そんな経験ばかりだった。 「ごめんって、そんな蒼太に朗報があるんだけど」  朗報と口にした拓海に、ぴくりと蒼太の身体は反応を見せる。 「実は近いうちに高三の頃同じクラスだった奴と同級会を開こうって話が進んでるらしいよ」  初めて耳にした話に蒼太は「同級会?」と目をぱちくりとさせる。そんな話が進んでいたなんて知りもしなかったものだから驚きが隠せない。 「そんな話いつ決まったの?」 「学級委員長だった相島大晴って覚えてる?あいつと俺同じ職場なんだけどついこの前三年二組で同級会やろうと思うんだって言ってたんだよね。俺もたまたま聞いた話だから知ってる人の方が少ないんじゃない?」  蒼太はなるほどな、と納得した。かつての学級委員長と同じ職場の拓海がいち早く同級会について知っていたことも納得出来る。それにしても同級会か、と蒼太は五年前に行われた成人式を思い出す。 「クラスのやつに会うのは成人式以来だなぁ」 「特別親しい相手じゃないと会う機会なんてないしね、まぁ俺は行かないけど」  当たり前のように同級会への出席を拒否した拓海に「えっ?!行かないの??!」と蒼太は驚きの声を上げた。 「うん、俺ああいう場苦手だし」  あっけらかんとした態度でラーメンを食べている拓海に、蒼太は少し残念な気持ちを抱いた。確かに高校時代から拓海は多人数で騒ぐようなタイプではなかった、けれど親友である拓海が来ないとなると気落ちしてしまう自分がいる。 「そっかぁ…残念だな」 「だけどこれはいいチャンスじゃない?新しい恋人、みつかるかもよ?」 「…同級会かぁ…」  高校生、当時の学校生活を思い出した蒼太の頭に、一人の男の姿が真っ先に浮かび上がった。 「よろしくお願いしまーす!」 「…っ?!」  テレビから放たれたその声に、蒼太の身体はいち早く反応を見せる。バッと顔を上げテレビに視線を向けると、そこには今蒼太が考えていた男の姿が映っていた。 「あっ藍だ」  蒼太につられテレビに顔を向けた拓海は「藍ってほんとすごいよねー」と男に対する素直な感想を口にした。 「もうすっかり人気者だもん、最近はテレビに出ずっぱりだしさ」  拓海の言葉が耳から筒抜けるように蒼太はテレビに釘付けになっていた。テレビの中でキラキラとした笑顔を向けている男、水樹藍は最早蒼太の知っているかつての藍とは程遠い、そんな藍の姿から蒼太は目が離せなかった。  急に静かになった蒼太を不審に思った拓海は「蒼太?どうしたの?」と蒼太の顔を覗き込んだ。 「え?!なんでもないよ?」 「そう?」  ハッとした蒼太は慌てて平然を装う。そして「ほんと、藍は大きくなっちゃって、同級生だったなんて信じられないよ」とわざとらしく笑った。 「藍、同級会来るのかな」  「え?」 「確か成人式には来てなかったよね?だから今回の同級会にはもしかして来るんじゃないかって思って」  あの藍が来るはずがない、蒼太は真っ先にそう思った。そのため「藍は来ないよ」とつい本音が口から漏れる。 「やっぱりそうかなー、蒼太って高校時代藍と仲良かったよね。連絡とか取ってないの?」 「あいつ卒業してから連絡先全部変えたみたいでさ、卒業以来会ってもいないし連絡も取ってないんだ」 「そっかー…」  拓海は少し寂しそうな表情でテレビの中に映っているアイドルとしての藍を見つめた。「あいつはもう住む世界が違うもんな」という拓海の言葉に、蒼太の胸は切なく疼いた。  家に帰った蒼太は上着を脱ぎネクタイを緩めると、すぐにベッドの上へ身体を倒した。 「疲れた…」  空腹が満たされても身体の疲れが取れる訳ではなく、起き上がる気力すら湧かない。拓海と話したおかげで体調は幾分かマシになったが、それでも多少の頭痛はまだ残っていた。蒼太がこのまま眠ってしまおうかと瞳を閉じた時、「ピコン」という通知音と共にスマホの画面が明るく光る。スマホを手に取り、画面を確認した蒼太は『同級会の案内』という文字に目を見張った。  ──タイムリーだな…。  先程拓海が話していた同級会、その話が確定したのだろう、どうやら蒼太にもLINEが回ってきたようだ。  一度身体を起こした蒼太はアプリを開く。送り主を確認すると、三年の頃の学級委員長であった相島大晴だった。この男と連絡を取り合うのは卒業以来だったためにどこか懐かしさを感じる。しかし旧友からのメッセージは友人に向けた内容というには似つかわしくない義務的なものであった。その内容は文字通り同級会について詳しい特記事項が記載されており、日時、場所、そして参加の有無を確認するためのものだった。蒼太はすぐにスケジュール帳を取り出すと日程を確認した。その日は土曜日であり、教師である蒼太は仕事も休みで特にこれといって予定も入っていなかった。  先程の拓海の言葉が蘇る。これは新しい恋人が見つかる絶好の場、かつての同級生と久しぶりに再会することで恋愛に発展するかもしれない。癒しを求めている蒼太にとっては今と無いチャンスなのかもしれなかった。けれど蒼太の頭の中にはかつて好きだった女子の姿ではなく、一人の男の姿しか浮かんでいなかった。  ──もしかしたら…藍に会えるかもしれない…。  拓海には同級会などにあの藍が来るはずないと言ったものの、どこか期待している自分がいることに蒼太は気づいていた。それほどまでに蒼太の中には未だに藍という男が大きく存在していた。数年経ち大人になった今でも藍の事が忘れられていない、あの声、匂い、肌の感触、そして鼓動の音、全てが蒼太の中に色濃く残っていたのだった。  

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