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第34話

 春斗と別れた蒼太は、そのまま藍のマンションへと向かった。藍の部屋の前まで来ると、先程までと比べ物にならない程の不安が蒼太を襲う。今度こそ藍の蒼太に対する気持ちが明確になるかもしれない、そして結果によっては藍と二度と会うことは叶わなくなる可能性もある。けれどここで逃げてしまっては何も進まないのだった。藍のためにも、そして自分自身のためにも藍と話をする必要が蒼太にはあった。  意を決した蒼太は、震える指先でインターホンを力強く押した。  ピンポーン  インターホンの音だけが響く。ドッドッ、と忙しなく音を立てる鼓動に、蒼太の頭は支配されるようだった。すると、ガチャっと扉が開く音と同時に「春さん…?」という普段より低めな藍の声が耳に入った。 「あ、藍」  扉から顔を覗かせた藍の姿に、蒼太の緊張は最大まで跳ね上がる。とりあえず何か話さなければ、と焦った蒼太だったが、藍は蒼太が話す間もなくすぐに扉を閉めようとした。 「ちょ、ちょっと藍待って…っ!」 「むりむり、マジで意味わかんない、なんでお前がいるんだよっ…」  咄嗟に扉に足を踏み入れたおかげでなんとか締め出されることは免れたが、藍の様子を見るにまともに話を聞いてくれそうもなかった。それでもここで引き下がる訳にもいかないため「お前と話がしたいんだ…っ」と必死に扉を開けようと力を込める。 「くっそっ…春さん騙しやがって…ていうか馬鹿力やめろよなっ…」 「藍…っお願いだから中に入れてくれ…っっ!」  蒼太が渾身の力を込めると、遂に扉がバッと開いた。はぁはぁ…、と息を切らしている藍と目が合う。すると藍は驚いたように目を見開き「近づくなっ…!」と蒼太から距離を取った。  藍の明確な拒絶に、蒼太の胸に抉られたような痛みが突き刺さった。もはや聞くまでもなく、今の藍の態度こそが蒼太に対する答えなのかもしれなかった。それでも蒼太は帰るわけにはいかない、自分の気持ちを伝えるチャンスは今しかなかった。 「ごめん藍、もうお前の嫌がることは絶対にしないから、だからもう一度お前と話すチャンスを俺にくれないか…?」  藍の瞳から目を逸らすことなく、蒼太は言葉を紡いだ。すると藍は、大きく息を吐くと「とりあえず中に入れ」と言った。 「これ以上俺に近づくな、いいな?」  椅子に座った藍は蒼太にそう命令した。ここまで徹底されて距離を置かれるという嫌われ具合に深くダメージを負いながらも、蒼太は藍の言う通りに藍から二メートル程距離を取り床に腰を下ろした。 「で、話ってなんだよ。ちゃっちゃと話して帰ってくれ」  藍の態度は冷たかった。まるで再開した頃のような警戒心が今の藍にはあった。鋭い藍の視線に体を強ばらせながらも、蒼太は口を開いた。 「この間はごめん、急にキスなんかして」  蒼太は藍に向け深く頭を下げた。 「お前は俺のこと友達だって言ってくれたのに…俺はそんなお前の気持ちを裏切ったんだ、本当にごめん」 「今更謝るぐらいなら…早く帰ってくれよ」  冷たく言い放たれたその言葉に、蒼太の視界は深い暗闇へと支配されていく。軽蔑にしか捉えることの出来ない藍の態度に、蒼太は今にも逃げ出したい気分だった。しかし蒼太には確かめたいことがあった。 「俺の事…気持ちが悪いか…?」 「…ああ、気持ちわりぃよ」 「じゃあなんでお前はあの時…俺がキスした時拒絶しなかったんだ…?」  藍の瞳が一瞬だけ揺れ動いた。それは些細な反応だったが、動揺とも捉えられるその姿に蒼太は引っかかりを覚える。 「それは…びっくりしたからだよ…っ急にあんな事されて驚いたから…」 「驚いたからって…お前と同居を始めてまだ間もない頃、俺がキスしようと仕掛けた時があったろ?その時は思いっきり俺の事叩いて拒絶してただろ?」 「それは…っ」  藍は分が悪そうに眉を寄せた。居てもたってもいられなくなった蒼太は、立ち上がり藍に近づく。 「…っ、近づくなって言っただろ…?!」 「ねぇ藍…お前は俺の事嫌いか…?」  蒼太は藍の腕を掴む。すると、藍は「離せ…っ嫌いだ…お前なんか嫌いだ…っ!」と必死に蒼太から距離を取ろうと腰を浮かせるが、蒼太がそんな藍を離すことはなかった。  ドクンッ、ドクンッ。  蒼太の耳に、激しく音を立てている鼓動の振動が伝わる。バクバクと激しい音に、蒼太自身の鼓動も次第に早まっていく。こちらまで恥ずかしくなってしまうようなこの音は、興奮しているような時と似ている音だった。蒼太は自分ではないこの音の正体に気が付き、思わず目を見開く。 「藍…お前」 「…っくそ…っ勝手に人の心臓の音なんか聞くなよ…っ」  藍の耳は真っ赤だった。そしてその赤みが次第に顔にまで広がっていき、藍は見たこともないような姿で必死に蒼太から顔を背けようとしている。  蒼太は今藍が鳴らしている鼓動の音が信じられず戸惑うことしか出来なかった。鼓動が激しくなる原因は緊張や恐怖、様々あるが今藍が鳴らしている鼓動の音は、まるで好きな相手から触れられている時のような音なのだ。  ──これじゃまるで俺を好きって言ってるようなものじゃんか…。 「なんで…こんな音立ててるんだ…?」 「知るかよ…っ、俺だってわかんねえよっ!!」 「俺の事…好き…なのか…?」  恐る恐る蒼太が問いかけると、勢いよくバッと顔を上げた藍は「違うっ…!!」と声を荒らげた。 「俺は好きだよ藍」  藍の指の隙間に自身の指を滑り込ませ、蒼太はぎゅっと握った。「好き、好きだよ藍」と蒼太が言葉を紡ぐと、藍の鼓動はより激しく音を立てた。 「やめろっ…もう言うな…っ!」  藍は蒼太に訴えるように声を震わせた。 「男を好きなるなんて有り得ないんだ…っあいつと同じだなんて…絶対にあり得ないっ!」 「あいつって、お父さんのこと?」  蒼太は藍の手を離し、そう問いかけた。そして再度藍から距離を取った蒼太は「もう勝手に近づいたりしない、だから話を聞かせてくれないか?」と真剣な瞳を藍に向けた。 「どうせ春さんから聞いたんだろ、あいつのこと」  自身の顔を両手で隠した藍は、目元だけを蒼太に見せた。そして「俺の父親はゲイなんだ」と口にした。 「うん、テレビで見たよ」 「すごいよな、今更世間にバレるなんて」  藍は覇気のない声で呟いた。 「まぁ、でも俺としてはもう割り切れていたつもりだったんだよ。もうあれから十年以上経ったんだからさ。だけど…」  俯いてしまった藍は言葉を言いあぐねているようだった。それでも蒼太には待つことしか出来ないため、ただ黙って藍の言葉を待った。 「お前にキスされて…拒絶しなかった自分がマジで意味分からなかった、男同士なんて気持ちが悪いのに…お前を受け入れた自分がどうしようもなく理解できなかったんだ」  藍の声は震えていた。こんな感情的な藍は珍しく、蒼太は戸惑いを覚える。 「俺も結局あいつと同じなのか…?そんなの嫌だ…絶対嫌だ。俺たち家族を裏切って男を選んだあいつと一緒なんて…母さんは円満離婚だって言ってたけど俺は許せなかったよ、本当は男が好きだったなんて気持ち悪いし最悪だ」 「藍…」  頭を抱えた藍はそのまま黙り込んでしまった。藍にとって父親がゲイだったという事実は相当なトラウマだったのだろう。 「春斗さんから聞いたけど、お前の感情がない原因はお父さんにあるのか…?」  蒼太が恐る恐る尋ねると、藍は俯いたまま「そうだよ」と答えた。 「最初聞いた時は驚きすぎて理解もできなかった、だって男が好きなのになんで母さんと結婚したんだよってなるだろ?そしたらさ…最初からずっと好きだった男の人がいたけど親に無理やり結婚させられたんだってよ。訳わかんないわ…」 「政略結婚ってこと…?」 「…ああ、あの人の家芸能一家だし、自分の息子がゲイだなんて認められなかったんだろうな。だから女優だった母さんと結婚させた、その方が世間体的にもいいしな」  蒼太は戸惑いを覚えながらも、なんとか藍の話を飲み込んだ。それでも政略結婚だなんて未だに信じ難い話だと思ってしまう。 「だけど結局あいつは逃げたんだ、芸能界も引退して、家族を置いて自分勝手に好きだった男の元へ行った。俺は信じたくもなかったよ、こんなに誰かに対して怒りを向けたのも、嫌悪を抱いたのも初めてだった。したらさ、いつの間にか何も感じなくなってたんだ」  自分の手のひらを見つめた藍は、ぽつりと静かに呟いた。 「あいつに対する嫌悪感以外の感情というものが全て無くなってたんだ。笑い方も分からなくなって…流石にまずいと思った、だから俺は藍を演じることにしたんだ。だってこのままだと俺は感情のないクソみたいな人間になる、あいつのせいで人生が狂うなんて最悪すぎるからな」  藍本人の口から真実を伝えられ、蒼太はやっと藍が抱えていたものを知れた気がした。それと同時に、藍が超えてきた苦労を想像するだけで蒼太の心は締め付けられるようだった。蒼太がぐっと唇を噛み締めると「お前がそんな顔する必要ないだろ」と藍に呆れられた。 「だってさ…俺は本当に何も知らなかったんだなって思って」 「話したことなかったんだからお前が知らないのも当然だろ」 「…そうだね、話してくれてありがとう」  蒼太がお礼を言うと、藍は「ん…」とだけ小さく頷いた。そして二人の間には静寂が流れる、これ以上藍が自分から話すことはないだろうと察した蒼太は「笑えなくなったっていうのはほんと?」と尋ねた。 「春さん…?」 「うん、春斗さんから聞いた。お前が笑えなくなったのって…もしかして俺のせいなのかな」  蒼太の問いかけに、暫く藍は黙り込んでしまう。藍だって何故自分が笑えなくなったのか、その理由なんて明確には分からないだろうから返答に困るのは当たり前だった。それでも蒼太は、今の藍の口から何でもいいから言葉が聞きたかった。すると藍は「ぐちゃぐちゃなんだ」と口を開いた。 「お前の事が好きなのかもしれないって気づいたら絶望した。あんなに毛嫌いしてたくせに自分も男を好きになるなんて有り得ないって、ここ数日そんな事ばっか考えてたらいつの間にか笑い方すら分からなくなって仕事どころじゃなくなったんだ」  藍は悔しそうに唇を噛み締め「どうしよう…っ」と声を震わせた。 「笑えなくなった俺なんて誰も望んでないのに…このままじゃ仕事出来ねぇじゃん…俺…アイドル辞めたくねぇよ…っ」  藍の弱々しい声が蒼太の胸に深く突き刺さる。今の藍は、笑えなくなったという事実から不安と焦りで満たされているようだった。 「ステージの上で歌って、喋って、みんなと一緒に楽しいを共有出来るこの仕事が俺にとって生きがいみたいなもんなんだ。いつの間にかみんなを楽しませることが俺自身の楽しいにも繋がってて、お前が言ってた通りいつの間にかアイドルの藍も俺自身になってた、これからも俺はみんなを笑顔にしたい」  藍の瞳は力強く輝いていた。アイドルという仕事は藍にとってかけがえのない居場所なのだろう。蒼太はそんな藍の事が眩しすぎて自分も感化されるような気持ちになる。こんなにも誰かを楽しませる事を望んでいるなんて蒼太には真似出来ないことだった。 「お前はすげぇよ」  蒼太は心からの本心を口にする。蒼太の言葉に「お前はいつも俺を褒めるよな」と藍は言ったが、蒼太にとって藍という人間は常に尊敬してしまうほどすごいのだ。 「学生時代いつもみんなを笑わせてただろ?ちょっと嫌な空気になった時も笑いに変えてくれたのはいつもお前だった。今だって俺には想像もできないほど多くの人たちを笑顔にしてる、そんな藍が俺はすげぇと思う」  真っ直ぐと藍を見つめた蒼太の口からは、藍への尊敬の想いが溢れる。藍は真顔のままだったが、耳がほのかに赤く色づいていた。そんな藍の可愛らしい姿に、蒼太の頬は思わず緩んだ。 「お前が褒めたがりなのは分かったからもう黙れ」 「別に褒めたがりなわけではないよ、俺にはなり得ないことをお前がやってるからすごいって言ってるんだ」 「…でも…笑えなくなったら何も出来なくなる…」  蒼太はすかさず「そんな事ない」と藍の言葉を反論した。藍はぴくりと長いまつ毛を震わせ、蒼太の瞳を見つめた。 「笑えない俺なんて価値がないよ」 「違うよ藍、そりぁもちろん笑顔でみんなを笑わせてくれる藍がみんな好きだ。だけど笑顔の藍も好きってだけで、ファンのみんなお前自身が好きなんだ。お前だから応援してるんだよ」  ライブへ行った時、そしてSNSを見て蒼太が思った事は、とにかく藍のファンは熱がすごいということだ。みんながみんなプライベートの藍を受け入れてくれるか、それは不可能であろう。しかし、本当に藍の事が好きな子達はどんな藍でも変わらず応援してくれるのだと蒼太はそんなイメージを抱いていた。蒼太と同じように、彼女ら、彼らは明るい藍が好きなのではなく、水樹藍という男そのものが好きなのだろう。  けれど藍は納得のいっていない様子で「笑えないアイドルなんているかよ」と口にした。 「俺は藍のイメージを崩したくないんだ、完璧でありたいんだよ」  藍は断固として譲らなかった。藍にとってアイドルの藍は理想の自分であり、何より最高の自分の姿なのだろう。感情がないから作りあげた理想がいつの間にか完璧を追い求めることになり、今まさにその姿にある。蒼太は知ることはないが、この数年間に藍は類まれなる努力をし、その裏には誰にも見せることは無い孤独や葛藤があったのではないだろうか。藍が今まで培ってきたアイドルの藍という存在を、蒼太が簡単に言葉で語ることは間違いだったのだ。 「本当にすごいなお前は、ストイック過ぎるよ」 「俺の自由だろ、俺がアイドルの藍でありたいんだ。例えお前みたいに素の俺を受け入れてくれる人がいようが、俺はこの仕事にプライド持ってるんだ。俺の作りあげた完璧な藍の姿しか見せたくない」  ──ああ…、俺はこの男が好きだ。  蒼太は藍の真っ直ぐとした言葉に震え上がるような感覚が全身を襲う。なんてプロとしての意識が高いのだろう、蒼太が今まで出会ってきた誰よりも藍は強い男だと蒼太は思った。笑えなくなったという事実に大きな不安を抱えているだろうに、アイドルを続けたい、その思いが藍の中には強く存在していた。 「俺がお前の前から消えればいいのかな」  蒼太がぽつりと呟くと、藍は切れ長の瞳を見開き「は…?」と口を開いた。 「どういう意味…?」 「だって今の藍は男である俺の事が好きかもしれない、だけどそんな感情はおかしい、受け入れられない、そのせいで訳分からなくなってるんだろ?それだったら俺がお前の前からいなくなれば男を好きになった事実もなくなるし、またいつも通り過ごせるんじゃないかな」  蒼太が出した結論は、自分が藍の前からいなくなるというものだった。散々藍から離れたくないと思っていたものの、自分の存在が藍の邪魔をしている方が耐えられなかった。 「お前…俺の事好きなんじゃないのか…?」 「好きだよ。だけどお前が俺の事意識してくれただけで十分過ぎるし、俺にはお前は勿体無いよ」  蒼太が柔らかく笑みを向けると、藍は立ち上がり蒼太の元へ近づいた。そして蒼太の前で腰を下ろすと「もう少し…待っててくれないか…?」と問いかけた。 「うん、いくらでも待つよ」  蒼太は藍の少し癖のある髪に優しく触れる。 「ねぇ藍、俺はお前がどんな答えを出しても、お前の味方だからな」  愛おしくて堪らない藍、蒼太は藍がどんな結論を出そうとも藍の味方でありたかった。アイドルとして高みを目指している藍を心の底から応援したかった。最高にかっこいいこの男を愛してしまったからには、自分の気持ちなど二の次にしかならなかった。

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