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第37話

 会場に入った二人は並んで席へ座った。前回同様に関係者席を用意された蒼太は、普通のライブとは違ったこの特別な空間に新鮮さを感じる。蒼太の周りの席は既にポツポツと埋まり始めており、この人達も恐らく藍の関係者であって身内ということから落ち着いている人が多かった。多分周りで一番落ち着きがないのは自分なのだろうな、と蒼太は自分の鼓動を聞きながら苦笑した。 「緊張してますか?」  蒼太へ視線を向けた春斗に、蒼太の身体は大袈裟に跳ね上がる。 「春斗さんって…俺の鼓動聞こえてたりします…?」 「何言ってるんですか?」  春斗は蒼太を白い目で見た。「ははは、冗談ですよ」と蒼太は誤魔化すように笑ったが、春斗の鋭さに自分のように他人の鼓動が聞こえるのではいないか、と思わず疑ってしまいたくなったのだ。いや、心を読めるとすら疑いたくなるほどだ。 「春斗さんってなんでそんなに鋭いんですか…?結局藍が俺のことを好きだって憶測も当たってたし…」 「人間観察が好きなだけです」  素っ気なくそう答えた春斗だったが、本当にそれだけなのか蒼太は納得がいかなかった。敵に回したら本当に恐ろしいだろうな、と身震いすら感じてしまうほどに。  蒼太がふぅ、と腰を深く沈めると、会場の照明が全て落とされると同時に大きなスクリーンに映像が映し出された。スクリーンには30、29、28…と数字がカウントダウンされている様子が映し出されており、会場のざわめきはより一層大きさを増していった。そして10という数字が表示されると、周りからスクリーンの数字と同様に「9!8!7!」とカウントダウンの声が上がる。これからライブが始まるのだというこのなんとも言い表し難い興奮に、蒼太の喉はごくりと上下に動いた。そして本当に藍は笑うことが出来るのだろうか、という不安で蒼太の手は無意識に震えていた。蒼太がちらりと春斗の方を見ると、真っ直ぐとステージを見つめている春斗の姿があった。春斗は藍を信じているのだろう、不安な気持ちを抱えてしまっている自分に反抗するように、蒼太は自身の拳をぎゅっと握りしめた。 「0!!」  バァンッッッ!!  大きな爆発音とともに、会場から今日一番の歓声が上がる。真っ暗だった視界が一瞬にしてパッと眩しい光に包まれた瞬間、聞き覚えのあるイントロが響き渡りステージの真ん中から一人の男が姿を現した。 「きゃあああ!」  耳を劈くような歓声が蒼太の耳に響く。けれど今の蒼太には凄まじい歓声などよりも、ただ一人水樹藍という男に釘付けになっていた。  藍の姿を目に入れた途端、蒼太は感覚が麻痺した衝撃のようなものに支配されるようだった。  ───笑ってる…。  確かに今目の前にいる藍は笑っていた。何も違和感など抱くことさえも出来ない、完璧なアイドルとしての藍の姿がそこにはあった。  藍は笑えたのだ。蒼太の不安など最初から無意味だと鼻で笑ってしまうほどに、藍は今まで通りの藍と変わりはなかった。  まるで哀しみなどとは無縁な、会場全体を照らす暖かい太陽のような藍の歌声に、観客は皆魅了されていた。蒼太も同様に眩しすぎる藍自身に引き込まれ、息が止まったように身動きが取れなかった。  それからの数時間、嘘のように時間があっという間に過ぎていった。歌、ダンス、トーク、全てを完璧にこなしていた藍は、蒼太が今までの人生で出会ってきた誰よりも力強い輝きを放っていた。  そしてライブも終盤、今まさに流れていたイントロが耳に残る中、何万人もの歓声の中で藍はふぅ、と短く息を吐いた。 「はぁー楽しかったぁ」  やり切ったような藍の笑みがスクリーンに映し出される。首筋にはうっすらと汗がつたっていた。 「えーと…実は皆に話したいことがあるんだよね」  マイク越しの藍の一声に、会場はしんとした静寂に包まれた。「んーと…あー…」と言葉に詰まっている藍の様子から、珍しく緊張しているのだと蒼太は感じ取った。藍が話そうとしていることを察した蒼太は、べっとりとした自分の手汗を膝で拭う。 「まぁ、まずはここ数日みんなに心配をさせてしまったこと、それについて謝らせてください。すみませんでした」  深々と頭を下げた藍に、会場から戸惑いの声が上がった。ゆっくりと頭を上げた藍は「突然真面目になられても困るよね」と笑い言葉を続ける。 「うん…信じて貰えないかもしれないけど…、いやほんと今の俺を見てたら何言ってんだこいつってなるかもしれないんだけど」  藍は一度言葉を止めると、大きく浮き出ている喉仏を上下させゆっくりと口を開いた。 「実は俺、笑えなくなったんだ」 「えっ…」  蒼太の口から意図しない声が漏れた。会場のざわめきも増していき、皆困惑した表情で藍に視線を向けている。 「いや、今もへらへら笑ってるくせに何言ってんだよこいつって思うんだけどさ、今日ライブが始まるまでまだ笑い方がわかんない状態だったんだよね。その理由も俺自身よく分かってないんだけど、ここ数日そのせいで仕事も止めちゃって…正直今日のライブも中止にしようかめちゃくちゃ迷った」  藍は笑顔を崩すことなく、ゆっくりとした口調で言葉を紡いでいく。そんな藍の姿に、蒼太は強く胸を締め付けられるようだった。藍が笑えなくなったという事実をこうして打ち明けることはないだろうと蒼太は思っていたのだ。だからこそ藍の発言は衝撃的だった。 「今までの人生で一番焦ったかもしれない。だけど今日ステージに立ってみんなの顔見たらさ、あれ?俺笑えんじゃんってなったんだよね。いやーみんなすげぇわ!」  藍は感激したような声を上げると、下から上、右から左と視線を滑らせ会場全体を見渡した。 「今日ライブをして、みんなの前で歌って改めて思った。俺はこの空間が好きなんだって、応援してくれる人たちのおかげで俺は生かされてるんだって」  すると「藍ー!!」という一人の声を引き金に、所々から藍を呼ぶ声が上がった。そして藍の言葉に拍手を送るものも現れ、会場からは藍を称える大きな拍手で包まれた。 「ふはっ、お前らありがとな。うん、普段はこういうキャラじゃないんだけど今日だけは言わせて、改めてここまで支えてくれた友人、家族、そして応援してくれてるみんな、本当にありがとうございます。俺は今、最高に楽しいです」  自分の気持ちを口にした藍の瞳には、感謝と幸せが溢れていた。そして深く頭を下げた藍に、会場からは再度暖かい拍手が送られた。今この空間に居座っている全員が、藍の事を愛しているのだと伝わってくるようだった。 「それでは今日最後の曲、聴いてください」  落ち着いたイントロがかかると、会場は一気に静まり返る。すぅと息を吸った藍は、柔らかな声で歌い出した。  藍の歌声が会場全体を包み込む。今までの明るく力強い陽の光のようだった藍の歌声とは対照的に、落ち着いた優しい藍の歌声は夜空を彩る月のような美しさを放っていた。藍から発せられる一音一音が、蒼太の身体全体に深く染み込んでいく。蒼太だけではなく、今この場にいる全員が藍という暖かな光によって照らされるようだった。  自身の瞳に映っている最愛の男のなんとも穏やかな笑顔に、身体の奥底から込み上げてくる感情から蒼太の視界がぼやけた。演じてなどいない藍の心からの笑顔は、蒼太の人生を一変させてしまうほどの美しさだった。 「ほら、行きますよ」  荷物を手に持ち、立ち上がった春斗は蒼太に声をかけた。 「えっ…!?あっ、もうですか…?!」  本日二度目、大きく体を跳ね上がらせた蒼太は未だに整理出来ていない感情を抱えながら「余韻が、余韻がヤバくてちょっと…っ」と下手な日本語を口にした。 「俺たち関係者が一番に出ないとなんですよ。そうじゃないと他のお客さんが退場できないでしょ」  春斗の言い分に、確かにそれはそうだと蒼太は納得するしかなかった。藍の関係者という事は、必然的に春斗のように顔の知れた人物である事が想像出来る。そのためいち早く会場を後にし、なるべく人目につかない方がいいのだろう。渋々腰を上げた蒼太は、春斗の後へ続き一番近くのゲートから会場を出た。 「これから藍のところに行きますよね?」 「いや、俺は帰ります」  蒼太は春斗の提案を否定した。すると春斗は足を止め「え?なんで?」と蒼太に尋ねた。 「これから打ち上げとかありますよね?俺みたいなよく分からない人がいたら周りも困るだろうし、とりあえず今日のところはこれで帰りますよ」  こうは言ったものの、本音としては今の自分自身の情緒がはちゃめちゃに過ぎるため、藍を目の前にしたら確実にから回る自信があった。そんな状態の自分など、ライブ終わりの藍に近づける訳にはいかないという蒼太の真っ当な判断だった。 「いいんですか?言いたいこと山ほどあるでしょう?」 「そうですけど…でも今は周りの人達とライブが成功した事を味わってもらいたいんです。俺が居たらまた変に考えちゃうかもしれないし、とにかく今は幸せな気持ちのままで居て欲しいんです」  あんなにも素晴らしいライブを作り上げた藍、せっかきライブが大成功に終わったのだから、蒼太が邪魔をするわけにはいかなった。 「そうですか、でもしっかりと話はつけてくださいよ」  ふっと笑みを浮かべた春斗に「分かってます」と蒼太は頷いた。

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