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俺には番は必要ない②

 控えめに俺を呼ぶ声は、耳に心地よい澄んだ中高音。 「ミカフォニス様──、ミカフォニス様……、起きてください」  夢現に、そんな優しい物言いでは居眠り中の男は起きないと微笑ましくなる。  もっと揺さぶって叩き起こしていいんだと、静かに瞼を開けると視線が重なる。  その刹那、こちらに(かし)いでいた少年のヴァイオレットの瞳が揺れた。 「あっ……!!」  ──オメガフェロモンの乱れ、突発的な発情期(ヒート)が起きた。  泣きそうになりながら口を押さえる緑のネクタイの少年。俺は懐に入れていた抑制剤の注射針を躊躇いなく首筋に刺した。  アルファ用の抑制剤の効きは早い。  崩れ落ちる彼から適切な距離を取るが、決して否定しないように微笑み掛ける。 「安心なさい、君には決して危害を加えない」 「ミカ……フォニス、さま……すみません……!」 「大丈夫だ、泣かなくていいよ。オメガ用の抑制剤は持っているね?」  床に座り込んでしまった線の細い少年は、肩を上下させてほろほろと涙を零している。  3年生、17歳にしては小柄で華奢だ。 「あっ……あ……」 「保護官を呼んで来よう。大変だろうが、私が部屋を出たら必ず鍵を掛けなさい」  ヒートが起きたオメガに適切な処置を行う医務官が学院には常駐している。  校則でも一般的倫理観からも、ヒート中のオメガには番や家族以外のアルファが近寄ってはいけない。 「行かないで……!」  目の前にいる男がアルファであっても、混乱の最中にいる彼は縋るしかなかったのだろう。  嗚咽を漏らす彼に、俺は(ひざまず)いて目線を合わせる。 「薬はどこにあるかな?」 「ブレザーの……裏ポケット……」 「神に誓って、恐ろしい真似はしないからね」  上着のボタンを上から外し、前身頃を翻す。  恐れている──いや、恐怖に反して興奮を抑えられないオメガに、俺は今自分がアルファであることが口惜しくなる。 「口を開けなさい」  小瓶に入っている錠剤を手の平に出して彼に差し出すが、俺に泣き声を聞かせまいとしている彼は従ってくれない。  背を丸めてしゃくり上げる彼に弟の姿が重なり、服薬させるのを諦めて距離を詰めた。 「私のフェロモンはオメガから安心感があると評判だ。触れていいかな? 少し落ち着くかもしれない」  小さく何度も頷いた彼の肩を抱き寄せ、絹のような感触の砂色の髪を優しく撫でる。 「誰にでも思い通りにいかないことはあるな」 「あなた様にも……あるのですか……?」 「あるとも。俺は落ち込んでここで寝ていた。君は起こしてくれようとしたんだろう? ありがとうな」  父上の言い付けだからといって不要な薬剤を摂取していた自分を恥じる。  弟の好意を素直に受け取れず、義弟に負担を掛けてしまう自分が情けない。  しかし俺が強固な自制心を持った非一般的なアルファであるから彼に付き添っていられる。  オメガの本能がアルファの身体を求めてしまうことも、君が意思に反して腕を伸ばしてしまうことも受け入れる。  そんなに辛そうにしてくれるな、少年。俺は君を絶対に否定しない。怖がらせたくはないのだよ。 「ミカフォニス様……ごめんなさい……っ」 「いい。君はぬくいな」 「あなた……さまも……」 「そうか? このまま寝ていいぞ」  腕の中ですら寄り掛からないようにしている彼に、俺の庇護感情が高まっている。  オメガは『守りたい』と思わせる容姿の者が多いが、彼はその中でも一際儚い印象があった。  健気だ。唇を噛み、俺に頼ってしまう己を(うと)んでいる。  髪を撫でながら思った、この子は甘えるのが下手そうだ。 「呼吸が安定してきたね、いい子だ。抑制剤は飲めそうかい?」 「はい……」 「落とさないように俺が飲ませるよ」  睫毛に滴が載っている。潤んだ瞳に悪戯心のようなものを抱いてしまいながら、顎を下から持ち上げて下唇を押す。  驚いている少年に片手で用意した白い粒を給餌すると、伏し目がちに小さな口を開ける。 「頑張ったね」 「……ありがとうございます」  羞恥心で首筋まで染まっている。  ヒートとは違った火照りように面映ゆくなりながら、汗で貼り付いた前髪を梳く。  すると肩口で切り揃えられている毛先が逃げるように流れた。 「どうした?」 「僕は……今日のことも忘れられない……」 「我々はどこかで話していたか?」 「2年前に、たった1度きり」  俺はこの少年を知っている。氏名も在籍クラスもだ。  しかし彼と会話をした記憶がない。  大切な思い出のように語る彼との差に微かな罪悪感が灯ったが、気取られないように身を寄せ合った。  資料室の外から生徒達の賑わいが聞こえる。  1時間、2人きりでいたようだ。  閉じていた目を開けた彼は落ち着きを取り戻し、医療室に行くと約束して立ち去って行った。 ▽▽▽  授業に遅れてしまうがベータとアルファ用の医務室に立ち寄り、少年に起きた出来事を伝達した。  職員は湿ったブレザーの襟に『ミカフォニス君が、珍しいですね』と深くは追求しなかった。  確かに俺はこれまで呼び止められても、オメガを1人残してですら最適解を選んでいた。  無意識に少年の教室に向かっていた俺は、足早に駆けて来たサーフィ=ナフル・アーシュレーに手を振った。 「やあ。ランチは楽しめたかな?」 「師匠……そのフェロモン……」 「ヒートになったオメガを保護した。やはり君のクラスメイトだったか」  簡潔に言えば非常に鈍いサーフィですら勘付き、特定の人物に行き着くからには俺の認識は外れていない。 「シャルル・ウェルクレーン。以前、私が朝に君を呼びに行った際に最も苦しげにしていた少年だ」 「シャルルは……大丈夫なんでしょうか?」 「医療室に行くと約束してくれたから、そうだと信じてるがな」  サーフィは、アルファに転化してからの寂しさを零したことがあった。オメガの友人が『君はこれから運命の番と逢うんだよ』と交流を拒まれたのだ。  あの繊細な少年は、留学生である未来の義弟(おとうと)の、この国でできた初めての友人だった。 「私をオメガ泣かせと呼んだのは、彼だったね」 「シャルルはとてもいい奴なんです! あなたに、憧れてるから……誤解しないであげてください!!」  鍛錬や学習の合間の話題は学院生活が中心だった。故郷から距離を置きたくて国を出たサーフィは、同学年の者達について楽しそうに話していた。  よく口を滑らせる彼は、俺がウェルクレーン君に悪い印象を持つことがないように懇願してくる。  言われるまでもなく、俺はあの少年を悪く思わない。  (むし)ろ、俺が為していたことはオメガにとって〝泣かせてしまう〟ことだったのかと悔やむくらいだ。  サーフィは沈痛な面持ちで続けた。  最終授業中の静かな廊下で、暗い感情が落ちていく。 「あなたはとても魅力に溢れたアルファだ。でもあなたには番がいない。ラディル様に俺という番ができて、弟様がいるからって気持ちを保ってたオメガが苦しんでいく」  君は優しい、だが愚かだね。  第3者のデリケートな内情を当事者に直接話すものではない。  シャルル・ウェルクレーンが秘したかったであろう憧憬──恋慕が明るみになってしまう。 「ラディル様は一生俺がお支えします。ですからジェドリグ様もご自身の番について、1度でいい、真剣に考えてくれませんか?」  君は君の友情に必死だ、未来の番を思って〝身を引いた〟少年にできることを探している。  俺はこの話を聞いてどう答えるべきだろうね。  頼まれずとも、シャルル・ウェルクレーンの後ろ姿に胸が締め付けられている男がいるんだ。  共に過ごした記憶がなく、彼を傷付けてしまった。  オメガである者を守れたはずなのに、彼を無理に笑わせてしまった自分に嫌悪している。  この感情は、何だ。 「シャルルのことも、知ってあげてほしい」  当然、そのつもりだ。

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