19 / 63

第18話 役割

 ひとしきり泣いて落ち着いたダートは、アーネストから体を浮かせると、鼻先同士を、一瞬だけ擦り合わせた。  アーネストはそれには応えず、頭を撫でてやってから、体をずり上げて体を起こし、ダートの下から抜け出した。 「……ありがとうな」  同じように体を起こしたダートに、手拭いを渡してやる。少しひんやりする夜の空気を感じながら、腹の上と、尻の間を拭った。 「この後、管理官を呼んで、道の確認がある。その前に、身支度をしておこう。」  悪いけど、先に湯を使うからな。  そう告げて寝台を降りる。ずっと折り畳まれていた足の違和感は少しあるが、特に問題になるほどではない。  ダートは、本当に、何も残してくれなかったかもしれない。  湯を使い、身支度を整え、ソファに身を預ける。  壁の向こうからは、ダートが湯を使っている音が聞こえていた。  背もたれに頭も預けて、目を閉じる―― 「室長」  しばらくそうしていると、いつのまにか、支度を終えたダートがソファの隣に立っていた。 「――あ、悪い。」 「いいえ。その、そんなところで寝ると、風邪をひきます。」 「うん、気をつけるよ。」  勤務外とはいえ、気を抜きすぎていた。  反省して、口を開く。 「よし、管理官を呼ぼうか。」  ダートの顔を見上げると、少し硬い顔をして、頷いた。  室内に入ったセロは、淡々と状況を確認し、そのままダートにヒアリングをした。 「遠隔操作は、どの程度まで可能になりましたか。」 「訓練場の端から端程度までは、何とか。」  セロは、ダートの答えを受けて少し考えると、アーネストを見た。目で問われて、訓練場の広さを思い出してみる。 「だいたい500メートル程度ですかね。」 「……なるほど。」  アーネストの答えを受けて、セロが手元の書き付けに何かを書き込んだ。 「目視範囲外ではいかがですか?」 「……まだ、十分かどうか、自信はありませんが。」  その答えを聞いて、セロが頷く。 「よろしいでしょう。」  書き付けにまた何か書き込むと、セロはダートに、浴室へ下がるように指示をした。 「譲渡で道の状況を確認します。そちらへ下がってから、魔力を飛ばすイメージをしてください。室長に向けて意識的にやってくださっても結構です。」 セロの言葉に、ダートが息を呑む。少し間を空けて、問い直した。 「はじめは、ここではダメなのですか。」  沈黙が答えだった。 「……室長、はじめてよろしいですか?」  小さく控えたセロの声に、頷きだけで返す。  ソファに身を預け、リラックスした体勢で待つ。 「では、1分計ります。……始めてください。」  セロの声に、遅れてダートの声が聞こえた。 「はい。――――始めます」  ふいに。  その声に、どうしようもなく胸の奥を掴まれたような、ひき絞られるような、それでいて、すぐにダートのところへ行って、大丈夫だと頭を撫でてやりたくなるような。  ――――好きだ。  そう、思った。  アーネストが小さく息を呑んで、頭を起こして視線を彷徨わせると、こちらをじっと見つめるセロと目があった。  少しの間他に何も考えられず、その目を見返して――、それから、体を起こして、膝にひじを預ける。手を組んで、じっと見つめて、それから、……それから――――。  これは、感覚ではない。  ――――感情だ。 「やめてください。」  セロの声が、はっきりと聞こえた。  途端に、どうしようもないような胸の痛みも、泣きたくなるような喉のつかえもなくなる。  ただ、騒がしくなった心の中身だけ、ぽんとアーネストの中に残った。  ――――今のは、何だ?   「……室長?」  俯けていた顔を上げると、先ほどと同じ表情のままの、セロがいた。 「……あ、すまない。」 「いいえ。……何か、感じましたね?」  押さえた声で、また問われる。  感じた。確かに。  体ではなく、心で。 「は、い」 「辛さや、痛み、耐えがたい感覚などは、ありませんでしたか。」 「いや、――いや、そういう、そういうのは、何も。」  セロの目が、僅かにすがめられる。 「それでは……、一体、何が?」 「そう――ですね……。」  今のこれを、何と呼べばいいのか。感覚、感覚と、言えば。 「――――っ」  急に恥ずかしくなって、言葉が出なくなった。  今のこの感覚を。  胸の奥を捕まれて、喉がつかえる感じがした。  と、この管理官に、伝えろと? 「――わかりません。……わかりません、が、不快でも、苦痛でも、どちらでもありません。」  しばし――――、沈黙があった。  セロの目が、容赦なく自分を観察していることを感じた。  だが、これは、これこそが――、誰にも侵されるべきでない、守られるべき場所なのではないか。  そう、思った途端に、ヒヤリとするものがあった。  なぜなら、アーネストでなければ、誰も、この観察に気づくことすらないはずなのだから。 「フリードさん、結構です。お戻りください。」 セロの声かけで、ダートが戻ってくる。ダートの、気遣わしげな視線に頷いて答えると、ますますダートの顔が心配げになった。 「フリードさん、室長殿。」 呼ばれて、セロに目線を戻す。 「長らくお疲れ様でした。そして、ありがとうございます。先程の魔力譲渡にて、アーネスト室長へ、フリードさんの魔力が十分流れたこと、それから、アーネスト室長の受容耐性に問題のなかったことを確認いたしました。」  セロの言葉に、ダートが重ねる。 「……つまり?」 「つまり、これにて、お二人の番いの交渉は成立し、同時に、交渉期間も終了となります。――――長らく、本当にありがとうございました。」  ああ、――――終わったのだ。  そして、もしかすると、今こそ本当に始まったのだ。  覚悟を問われた、自分の役割が。

ともだちにシェアしよう!