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第30話 逆流
川の水は、明け方に見た時よりもさらに増えていた。上流側を眺め、気になるものがないかだけを確認し、下流へと馬の首を巡らせる。
ここから少し下ると、先日世話になった職人の牧場がある。まだ岩場の続く川べりを、アーネストは足元を見ながら下っていった。
異変に気づいたのはそれからすぐのことだった。
「――――!」
人の叫び声と、なにか――馬のいななき。
岩場を迂回して声のもとへ行ってみると、果たしてそこには、
増水した川に入り込んでしまったのだろう、仔馬――フィンと、それを追ったらしい娘、
そしてその手前で声をかけ続けるダートの姿があった。
「フリード!」
「――――――室長!」
水の勢いに興奮する馬をなだめ、それから川べりへ駆け降りる。見れば、仔馬と娘は膝上まで水に浸かっていた。ふたりのまわりだけ水の勢いが緩やかで、ダートがコントロールし続けている様子が見てとれた。
「こちらへこられないのか。」
「馬が、怖がってしまって。」
「よし。まずは代わろう。」
ダートに駆け寄り、娘の方へ向けるその手に触れた。触れた手から魔力の流れを感じとり、ダートのやり方でそのままコントロールを受け取る。
「――っは、あ、ありがとうございます。」
「いい。どの程度この状況なんだ?」
「はい、すでに三十分ほど経過しています。」
息を整えたダートは、あたりに首を巡らせた。
「馬に縄を積んでいます。持ってきましょうか。」
「――いや、このまま流れを変える。向こう岸に流れを寄せるから、その間に彼らを救出してくれ。」
「了解しました。」
水の流れを慎重に読む。娘たちがいる場所は、普段は中洲のように岩が顔を出しているのだろう。そこだけ平たい岩が水底を盛り上げていた。ただしその分水の勢いがある。よくこれを30分、ひとりで持たせた。
「水の流れを変えます。向こう岸に水をやります。馬が怯えないよう、顔を押さえてやってください。」
呼びかけると、娘が小刻みに頷き、馬の首をぽんぽんと叩いた。
「度胸のある娘だな。」
「はい……。そこは、助かりました。」
小さく返すダートに、頷いてやる。そうは言え、怯えているし、消耗しているはずだ。
そして、慎重に水の流れを変えはじめた。馬は敏感な生き物だ。流れの変化に怯えて暴れられれば、仔馬といえども娘には押さえきれないだろう。
そうして流れを変えていると、ダートが水の際に立って、馬に声をかけはじめた。この場面に似つかわしくない、低くて、優しい声だ。
「大丈夫、大丈夫だぞ。」
ようやく水の流れを押しやり、娘たちを動かせるようになった。急流の制御に集中しながら、上流の異変がないかにも気を配る。
ダートは、足を震わせてうまく歩けない娘を支えるようにしながら、仔馬の首を撫でて落ち着かせていた。
「大丈夫ですか?!」
「補助します!」
数人の足音と共に、男たちの声が聞こえてきた。――騎士だ。
「助かります、救助の手助けを。馬が娘さんから離れないようで。」
娘と仔馬を騎士に預け、最後にダートが川べりへ戻ってくる。
アーネストはその動きに合わせて、慎重に水の流れを元へ戻していった。
ゴッ――――
聞いたこともないような、重たく固い音が響いた。
はっと顔を上げた。
上流から、壁のような水が噴き出してくる。
岸になんとか辿りついたフィンと娘を、騎士達へと誘導しているダート。その背後へ、水の壁が迫っていた。
「よけろ!」
叫びながらダートのもとへ走り寄り、迫り来る水の壁を押し返そうとする。
対岸へ押しやろうとして、そこで初めて、水流の違和感に気づいた。
「しつちょ…」
次の瞬間、水の壁の内側から――
飛び出してきた、大きな影に気づいた。
ダートの肩を引き寄せて背後に押しやり、同時に水の壁を張る。影――岩の勢いを、なんとか殺そうとした。
しかし、急流に乗って流れ落ちてきた岩の速度を、完全には殺しきれなかった。
次の瞬間、衝撃がアーネストの頭部を打ち抜いた。
「室長!」
――――失敗した。
右のこめかみから、左目の上までが、焼け付くように痛む。目の前が明滅して、何も見えなくなった。
娘の悲鳴が響き渡る。水の音も迫っており、騎士達が慌ててフィンと娘を自分達の方へ引き寄せようとしているのが気配でわかった。
制御が緩み、水を押し返しきれていないことが自分でもわかる。
「くそっ、こうか?」
押し返す。
広げた指の間を通り抜けるように、水が逃げていく。
掴めない。
「しつ、室長、お怪我が、見えていますか?!」
「無理だ。フリードお前、制御できるか?!」
「すみません、ほとんど使い切っています……!」
そう言いながらも、ダートの手がアーネストのそれに重なった。魔力を読んでいるようだ。だが、このところ任務続きだった。譲渡していた魔力も多くはないだろう。
――いや、そうではない。
頭をよぎった考えを振り払い、頭を切り替えた。
先ほどの負傷は大きい。長くはもたない。
考えながらも、ともかく岸に固まっている騎士ら、娘、仔馬、ダートを包む結界を想像する。
この川は下流の川幅が広い。この鉄砲水も受け止める余力はあるはずだ。だから、とにかくここを切り抜ければいい。
水の流れに逆らわないよう、固く滑らかに受け流す結界をイメージする。足元から水が少しずつ引いていくのを感じる。
「――室長、室長、聞こえますか?!」
気づけばダートに肩を揺さぶられていた。結界だけに集中していたらしい。
……そろそろ限界だ。
なんとか、この場を、切り抜けなければ。
「……フリード、お前……」
「はい。」
「魔力があれば、この結界、広げて岸までの足場、作れるな?」
「あ、え……、は、はい。」
目の前が、暗いのか白いのかよくわからない。血が流れすぎた。
「よし、じゃあ、……俺の、俺の魔力、使え……。」
水の音がすぐそばまで迫っている。結界の維持になんとか意識を保ちつつ、言葉を続ける。
「室長」
「命令だ、俺の魔力、道を使って取り出せ。」
泣きじゃくる娘の声、それを落ち着かせようとする騎士の声。
「そんな、……無理です」
「やれ!お前――、俺のディッカーだろう。やれ!引き出して見せろ!」
水の音が不規則に歪む。沈黙の誓約がほどかれた音も聞こえたが、今はそんなことどうでも良かった。
頼む。できるはずだ。
「頼む、やってくれ…!」
水の音に意識が包まれた時、ぐいと体が引かれ、唇を塞がれた。
――次の瞬間、魔力が、逆流するように迸った。
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