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第31話 手さぐり
衣擦れの音、ペンを走らせる音、足音、……誰かの話し声。
アーネストは、薄ぼんやりとした世界の中にいた。
「――――。」
「――ます。」
ダートの声だ。
そう、気づいてから、しばらく時間が経った気がする。額に触れようとして持ち上げた腕を、誰かに制された。
消毒の匂いが鼻先を掠める。
「お目覚めですか。」
世界は暗かった。
「……あー……、はい。」
「お名前をお願いします。」
聞き覚えのない声だった。
「アーネスト……、アーネスト・ブリュージュです。」
上げていた腕を、下ろされた。喉がへばりつくようにからからで、声がうまく出なかった。
「お目覚めになってよかったです、ブリュージュ師団長。」
世界は、暗かった。
ふと気づくと、再び寝台で横になっていた。
近くに人の気配があり、何か書き物をしている音がした。
「川は……」
ペンの音が止まった。
「――川……は、どうなりましたか。何か、フリードは――」「落ち着いてください、室長殿。」
人が近づいた気配があり、起き上がっていた肩を押しとどめられた。
「落ち着いてください。まずは、まずは、水を飲んでください。もう丸二日眠られていたのですよ。」
「二日……」
「特に問題はなかったと聞いていますよ。負傷者もあなただけです。さ、持てますか。」
手に、何か持たされる。
コップ……、だ。
「まずは、これを飲んでください。あなた、ディッカー殿の障壁が口元でしょう。私たち、何も介助できていないのです。」
「あの……、」
コップを持った手を、持ち上げられた。
「口元、わかりますか。」
促され、口をつける。
ひとくち、ふたくち。飲み込むと、体がそれを欲していたことがわかった。
「ゆっくりでいいですよ。おかわりも入れますからね。」
飲み干して、コップを下ろす。深くため息が出た。
「もう一杯入れますか?」
医務官……か、介助師の言葉に、アーネストは首を振った。
「あの……。この、これは、包帯ですか。」
顔に手をやると、その手を止められた。
「気になりますか。痒みがありますか?」
「かゆみ……、はい」
目の上を覆う何か――包帯、額や頬まで覆うそれが、世界を覆っていた。
「大丈夫、今は視神経を休めていますが、また見えるようになります。痒みがあるなら、外しますね。」
顔を覆っていた布が取り払われた。
世界は、まだ、暗かった。
「――ですから、ディッカーの方に来ていただきたいのです。現場におられたとか?」
食事や給水の介助ができない。医療として致命的。
そのように医務官に言われて、ダートの名を伝えた。
「ダート・フリード。特殊師団の団員です。」
「フリードさんですね。後ほどお呼びします。室長はおやすみになってください。」
立ちあがろうとする気配を察して、とっさに手を伸ばす。
「師団は、……任務は、特に問題なかったと……?」
「はい。今はあなたはおやすみになることが仕事です。」
「水……、あのあふれた水は、結局どこに――」
室長殿。
医務官の声が遠くに聞こえた。
「鎮静魔法をかけます。――今はおやすみください。」
ふと気づくと、温かい気持ちと、甘い胸の苦しさとに包まれていた。
――ああ、魔力が譲渡されている。
この気持ちを、これほど柔らかくいとおしく思えたことがあっただろうか。
世界の中で、ふわふわと漂っているような感覚の中、「ときめき」を改めて味わった。
「……ダート」
ときめきの名前を呼んでみると、誰かがいる気配を感じた。
――ダートだ。
夜の闇の中手を伸ばす。ふいと何かに触れ、それが誰かの腕とわかる。
「ダート……?」
手を重ねられ――あの手だ――、思わず笑みがこぼれた。
引き寄せる。ゆっくり、だが、抵抗はなかった。
腕を伝って首に手を這わせ、自分のところへ引き寄せた。
――嬉しかった。
「あぁ……、もっかい、こうしたいと思ってた――。」
頬を擦り寄せる。なんて幸せな夢だ。
もうこんな夢、二度とない。
つんと鼻の奥が熱くなり、抱き寄せる腕に力が入る。
今この時、手放したくなかった。
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