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第32話 これまで通り
人の気配に、意識を引き戻された。
暗闇の中、自分の手のひらを振ってみる。
「あ、室長。お目覚めですか。」
「――スコットか。」
「フリードもきてますよ。今、水汲みに行ってますけど。」
「ああ――、迷惑をかけたな。」
コンコン、と、ノックの音がした。
「失礼致します。統括本部より参りました。――室長は、お目覚めですね。」
「――困ります、まだ鎮静魔法も併用しているところです。」
いつもの書記官と、――おそらく医務官の声。
気配だけで察するに、書記官の入室が押しとどめられているのだろう。
目覚めたところだが、意識は明瞭だ。――問題ない。
そう返そうとしたところで、別の声によって話し声が抑えられた。
「失礼します。室長はまだ、倒れられてから水を一杯飲んだだけです。ご無理はさせられません」
「――フリード」
書記官の用向きなどわかりきっている。無理も何もない。
だが、――言葉が出なかった。
「室長、ダメです。せめて少しは何か口にして、それからです。」
見えない視線をさまよわせる。手を伸ばしそうになり、――握りしめてこらえた。
――いる。ダートが。……無事だった。
「――何も、今すぐ本部へおいでいただきたいわけではありません。」
「しかし」
なおも言い募るダートに、今度こそ手を伸ばした。
「フリード、いい。それより、誰か水を一杯。」
「――室長」
スコットに呼ばれて、軽く首を振った。
伸ばした手に何かが触れた。
――手のひら。
掴まれた腕を寝台に戻され、背中の下に腕を差し込まれた。
持ち上げられるのに合わせて体を起こすと、ささやかな声でスコットと何かやり取りするのが聞こえ、――また、手を取られた。
「室長、お水です。持てますか。」
「――ああ。」
指先でコップの形を確かめた。
持ち上げて、口をつける。乾燥した唇を、コップのふちに押し当てて、水を含む。
見えないまま、ひとつ瞬いた。
書記官には申し訳ないが、少し時間をかけて一杯の水を飲み干した。その間に、現場のことを少しずつ思い出す。
夜明け前の川、山間の崩落現場、不自然な水の流れ、水――逃げた水。
それから、水量の増した川。
娘とフィン。
騎士たちの協力に。
――岩、水、ダート……。
空になったコップを、両手で差し出す。もう一杯?と問われたのには頭を振って応えた。
それから、声のしていた方に向かって頭を巡らせた。
「問題ありません。伺えます。」
「――室長!」
「――ご協力、痛み入ります。」
渋る医務官に、視力以外の不備を尋ねた。
怪我は治癒術ですっかり塞がれてると感じていた。
「外傷はありませんとも。全て私どもで綺麗に治療いたしました。
ただ、視力は――眼球組織は人体で最も繊細な器官です。回復には、どうしても時間がかかります。」
「ならば、問題はなさそうですね。」
「室長殿。問題は、怪我ではありません。
一番の懸念は、あなたの状態そのものです。
その状態で起き上がるだけでも、本来は一苦労のはずなのですよ。」
そうだろうか。
そう思ってから、起き上がる時に背に添えられていた、ダートの腕を思い出す。
――確かに、そうなのかもしれない。
「横になったままで構いませんよ。まずは必要なことだけお伺いしにきただけです。」
「――このままで結構です。どうぞ。」
横で誰かが――おそらく、ダートが、ゆっくりと立ち上がった。衣擦れの音、足音、密やかなやり取りの気配。
「――医務官殿。室長殿の目は、どのような。」
書記官の声に、大きなため息が聞こえて、軽い足音が近づいた。
「右目眼球組織は、かなり損傷していました。左目は目の上の怪我のみですので無事です。眼球組織の再建を行いましたので、両目とも視神経の回路を休ませており、今は何もお見えになっていないはずです。」
「伺っています。」
医務官の説明に、書記官が短く応えた。
それから、無言が医務官に続きを促していた。
「――回復は、ある程度。」
指先がぴくりと跳ねた。
「ある程度?」
書記官の冷静な声にあわせ、努めて心を落ち着かせる。
確かに、見えるようになるとは、言っていた。
「カーターと、フリードは。」
「――大丈夫です。お二人には部屋を出ていただきました。」
書記官の声。知らずこわばっていた肩を下ろす。
「……そうですか。」
しばらくの間だけ、沈黙が暗闇を覆った。
書記官が続けた。
「室長殿。――今、魔力はありますか。」
「魔力――……?は、い?」
問われた質問の意図がわからず、曖昧な返事になった。
魔力――。特に、問題はないはずだ。
「室長殿は今、見えておいででないですから。無理に使わせようとしないでくださいね。」
医務官の声に、書記官が何か動きで示した気配があった。
「承知しております。――室長殿。
あなたが倒れられたのは、怪我だけが原因ではありません。
体内の魔力を、無理な方法で引き出し、他者に使わせたこと。
それも、大きな要因だと考えています。」
「無理な方法。」
書記官の言葉を反芻する。
あの時、あの場面での、アーネスト自身の魔力の供与に、無理はあったか。
無茶なことを命令したことはわかる。
正直に、できるかどうかは五分五分、なかった。
だが、あの魔力の奔流に、無理な流れはなかった。
「意識を失ったのは、失血と痛みが原因だったとはっきり言えます。魔力を譲渡する間際には、もうほとんど感覚がありませんでした。」
――ただ。
「――ただ、道……。そう……。道を通って流れた魔力は、何に遮られることなく、まっすぐ、フリードに譲渡されました。」
「道。」
繰り返された単語に、頷いた。
自分とダートの道。それは、口。
口同士だ。
「口、です。」
「――口……?」
そこへ、医務官の声が挟まった。
「そうですよね。――なのに室長殿のディッカー殿がこられませんから、お目覚めになるまでお水をとっていただくこともできなかったんですから。」
「――あー、……申し訳ありません。ご迷惑を、おかけしました。」
まったくです。そう言った医務官は、柔らかい口調になって言葉を続けた。
「今後は、こういうことのないことが勿論一番ですが……。もしまた同じようなことが起きた時には、きちんとディッカー殿に来ていただけるよう、あらかじめ、お話しておいてくださいね。」
「――ご忠告、痛み入ります。」
本当に、しばらく、返す言葉がなかった。
まず、怪我と魔力の具合だけを確認しに来たのだという書記官は、その後医務官といくつかの確認を終えると、いつものように淡々とした様子で挨拶をして、部屋を去っていった。
「では、今度こそ何かお口に入れていただきます。ディッカー殿……、フリードさんを、お呼びしますね。」
「――あの」
医務官が動き出そうとするのを呼び止める。
「右……、視力が、ある程度というのは、どのような」
すこし間が空いて、医務官が椅子に座り直した気配を感じた。
寝台の脇で、抑えた声の医務官が言った。
「完全に元通り、とはいきません。見えるようにはなります。ただし、視力がよくなりすぎたり、悪くなったり。そうした影響は考えられます。」
「よくなりすぎる、とは。」
「あまりに遠くに焦点が合ってしまいやすくなると、近くが見えづらくなります。逆も同じ。
眼球組織は、髪の毛一本にも満たない小さなブレが、見え方に大きく影響する繊細な組織です。
私たちが生活し、室長殿が現場の指揮をするのに最も良い、……今まで通り、の視力を魔法だけで再建するのは――、正直無理があります。」
言われた言葉を噛み締める。
全く見えなくなるわけではない。
だが、どうなるかは……、医務官にもまだわかっていない。
「――わかりました。……ご説明、ありがとうございます。」
ただ一つわかっていることは、これまで通りにはならないという、ただそのことだけだった。
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