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第37話 距離
管理課には、傷の考察についてのみ報告を行った。
確証はないが、もし傷をつけることが道を作る手立ての一つになる場合、それはディッカーとウルラの関係性を大きく歪めることになると考えたからだ。
ダートに代書させて管理課へ報告してしまうと、アーネストにはやるべきことがなくなってしまった。
そうすると、しばらくできていなかった色々なことが気になってくる。
「あー、その。フリードくん。」
扉の方にいるダートに向かって声をかける。
「はい。」
「悪いんだけど、ちょっと体を拭きたいから、お湯だけ用意してもらってもいいかな。そしたら、今日はもう戻ってもらっていいから。」
足音がして、ダートはアーネストの背後までやってきた。
「すぐに用意します。清拭もお手伝いします。」
思いの外近くで聞こえた低い声に、耳の後ろから緊張のようなものが走った。
その感覚を散らしたくて、頭を軽く振る。
「ええ、いいよう。体拭くのくらい目が見えてなくても、ちゃんとできます。」
軽く息を吐く音が聞こえて、ダートが返事をした。
「すぐに用意します。お待ちください。」
足音が遠ざかり、アーネストは肩の力を抜いた。
しばらくして、水の音と、足音が近づいてきた。
「ありがとう」
「いいえ。――温かいところに置きますので、少し移動しましょう。」
桶を置いた音の後で、ダートに手を取られる。
せっかく持ってきてもらったお湯を蹴飛ばすわけにはいかないので、おとなしくそれに従った。
デスクの椅子に座らされ、少し重たい物音――ソファを動かしているのか――がした。
「室長、手拭いと、」
言いながら手を取られ、桶に触れさせられる。手拭いを手渡され、それから、小さな木の椅子にも手を触れさせられる。
「脱いだものなどは、ここに。」
頷いて返すと、ダートはさらに続けた。
「寝台の上に、お着替えも用意しています。必要なら着替えてください。」
「わあ、ありがとう。完璧だね。助かったよ。」
ダートの顔があると思われる方へ、顔を向けて礼を言う。
「じゃあ、」「お湯が冷めたら、教えてください。自分はそこの――、衝立の向こうで待機しています。」
言いかけた言葉を、完全に遮ってダートが言った。
「いや、フリード。――大丈夫、ここまでしてもらったから。」
「室長。――すみません、自分がいると……、お邪魔ですか。」
――えっ、……ずるい。
そんな言い方をされると、……何も言えない。
見えない分、いままでよりもずっと、声に滲む何かが聞こえてくる気がしていた。
だから、ダートのその言葉は、アーネストにとてもはっきりと刺さった。
「いや……、そんなことは、ないよ。」
そんなことはない。――のだが。
衝立の向こうにいるはずのダートが、気になってしまって、結論としては、体を拭くことすら、ちゃんとはできなかったように思う。
それでも、ずっと気になっていた体のあちこちを拭き清め、怪我した右目のあたりをなぞり、――それから、伸びてきたヒゲが、気になってきた。
顎を指でなぞり、噛み跡のところで指をとめた。小さくため息が出た。
「あのさ、――フリードくん」
「はい、何かありましたか。」
「あー、あとで。――あとで、おヒゲ剃ってもらっても、いいかな。」
「……はい。わかりました。用意しておきます。」
足音が少し遠ざかっていき、浴室に向かったのだと察する。
それで、アーネストは、着替えの続きを再開した。
ふたたびダートに手を取られ、椅子に座らされる。
「室長、ヒゲ剃り用のオイルは、……これでお間違いないですか。」
手に持たされたボトルを撫でて、うん、と頷く。
蓋を開けようとして、ダートに取り上げられた。
「危ないですから、自分がやります。――刃物もありますから、自分に任せてください。」
「――はい。」
返事をすると、ほんの一拍だけ、沈黙が落ちた。
「……室長は、少し、無理をなさいます。」
低い声だった。責める調子ではない。ただ、淡々とした指摘だ。
指先で、ダートがボトルを持ち替える気配がする。
「見えない状態で、無理にやろうとしなくていいです。できることと、任せていいことは、分けてください。」
オイルを掌に取る音。
そのまま、指先が、顎の下にそっと触れた。
「……叱ってますか。」
冗談めかして言うと、ダートはすぐには答えなかった。
少しだけ、指の力が弱まる。
「叱ってはいません。――お願いです。」
それで、何も言えなくなった。
「顎、少し上げてください。」
言われるまま、顎を上げる。
両頬が、人の体温にそうっと包まれた。
手のひらが押し付けられ、離れる。
もう一度、少し場所を変えてまた、押し付けられた。
そのまま、少し撫でられて、オイルが馴染んでいく。
「お口元も、触ります。」
返事の代わりに、両目を閉じた。
唇の上、その下、ゆっくりとなぞられているのを感じながら、努めて呼吸を抑える。
頬をなぞられるたび、短いヒゲが、かすかに擦れる音がした。
アーネストは、ただ、じっと座っていた。
「蒸らしますね。これ――、熱くないですか。」
ふわりと、温められた柔らかい布が、頬に当てられる。
「……ん」
「はい。では、やりますね。」
口を動かさずに返事をすると、ダートが、温められた布を頬にそっと押し当てた。
その温かさが、じんわりと伝わってくる。
「――すみません、少しおさえます。」
そんな声がして、後頭部にも手が回る。
「その……、少し、頭が揺れるので。」
――ああ。なるほど。
見えないと言うことは、体を保つこともできないと言うことだ。
「――ん」
もう一度、口を動かさないように、返事をした。
布が取り払われ、ダートの指が、アーネストの頬を撫でた。
肌の柔らかさを確かめられている。――だけだ。
「大丈夫だと思いますが、もし、何かあったら――」
手を取られて、ダートの肩に乗せられた。
思わず指先が小さく二回、ダートの肩の上で跳ねた。
「そうですね、そんなふうに教えてください。声を上げるのは怖いと思いますので。」
なぜだか、もうどうしようもなくて、アーネストはこくこくと上下に小さく頷いた。
その顎を指で抑えられ、「室長」と、小さくとがめられる。
――ああ、明日まで我慢すればよかった……。
もう、今更だった。今ここでこの作業を中断すれば、アーネストの感じている羞恥が、全てダートにバレてしまう。
そんなことは、できるはずもなかった。
「……んん」
「刃、あてますね。」
「ん」
ここまできたら、あとは全力で協力するだけだ。
息を詰めて、体幹を意識して、できるだけ体を揺らさないように心がける。
「室長、首、少しそらしてください。」
顎の先に、ダートの呼吸。
片方椅子に乗り上げた、ダートの膝。
肩に乗せた指先から伝わる、ダートの体の近さ。
「ちょっと、下唇噛んで、はい。――痛くないですか。」
「――――……ふ」
首をそらしたままでは、返事が音にならなくて、ゆっくりと一度、ダートの肩を掴む指に力を入れた。
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