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第51話 帰る場所
乾いた藁の匂い、生き物の息遣い、広く開いた窓から差し込む光。
叙任式の後、厩舎はいつもの空気でアーネストを出迎えていた。
手袋を外して馬の首を撫で、その温かさに小さく息をつく。
少し顔を寄せると、馬の方もこちらに寄り添ってくれた。
他の多くの室員達とは違い、アーネストの馬は師団で用意したものではない。
十三、四の頃、騎士を――ディッカーを志した頃に父が用意してくれ、それからずっと一緒だ。
そして、これからも。
「……うん。一緒に帰ろうな。」
「どこへですか。」
背後から投げかけられた声に、息を呑んで動きを止める。
馬の首が少し揺れて、その人物の訪を歓迎していた。
「フリード、――騎士の叙任おめでとう。さっきは言えなかったけれど、君のこれからが誉あるものであるように願っているよ。」
振り向いて、ダートに向かって笑いかけてみせた。
心からの願いだ。
「そのこれからを、室長はどこで見守ってくださいますか。」
――どこだろうな。
言われてみても、率直に自分の中では、どこもしっくりこなかった。
師団長として、同じ騎士として、――もしくはここをやめて、領地から。
ふと、胸元の共鳴具の震えを思い出す。
――ああ。
それで、そこを服の上からそっと押さえた。
「どこか、――僕に許された場所から、いつも見守ってるよ。」
さく、さく、と藁を踏む音がして、視界の中にダートの靴の爪先が入ってきた。
「そこに、俺はいますか。」
「はは……」
――君しかいない。
もう、認めざるを得ない。
どこにあるかを考えても、何もしっくりとこないのに。
そこにはいつも、この青年との絆があると信じられる。
その安心感がこんなに甘やかな気持ちであることに。
もう、自分の気持ちを認めざるを得なかった。
どんなに、それがダートを追い詰めるものだとわかっていたとしても。
「どうかなぁ。」
さく。と、もう一度足音がして、ダートがアーネストのほんのすぐ目の前に立った。
「フリード?」
「俺のそばにいてください。」
顔を上げると、静かな面持ちのダートが、アーネストの目をまっすぐに見つめていた。
この距離で見つめられるのは、もうずっと久しぶりな気がする。
番い同士だけに許された、親密な距離。
この距離が少し気まずくて、目を伏せる。
伏せた視界の端でダートの手が持ち上がり、アーネストの顔に伸びた。
顎を少し持ち上げられ、唇の右下――道の場所に指が添えられる。
もうあと少しでダートの指が唇に触れてしまいそうで、思わず蘇った口付けの感覚に、
――口元がわなないた。
目線の先にある、ダートの胸を飾る徽章は、外から入る光を跳ね返したまま、じっとしていた。
添えられた指が、ゆっくりと道の場所をなぞる。
思わずぴくりと反応したアーネストに、ダートの指が止まった。
――見られている。
そのことに気づいただけで、腹の奥が震えるほど体に力が入り、目をあけていられなくなる。
それでも、ダートの手から逃げることも、振り払うこともできやしない。
ずっと、これに触れたかったから。
「――、っ」
認めてしまうと、もうダメだった。
こんなふうに、ただ、道の確認をされるために触れられているだけでも、身体中、心の全部が熱を持って震えている。
この場所を、この青年以外の誰かに明け渡すだなんて、そんなことははじめから、できるわけもなかったんだ。
「室長……」
低い、優しい、温かい、ダートの声。
名を呼ばれて、薄く目を開ける。迷わず目線が吸い込まれた先で、ダートの顔は柔らかく微笑んでいた。
「室長、まるで初めての時の俺みたいです。」
「……は、」
何を言われたのかわからなくて、息を吐くようにして聞き返すと、ダートがもう少し深く微笑んで、顔を近づけてきた。
「――室長の、嫌がることや、怖がることはしたくないんです。だから、嫌だったら、拒んでください。」
――何を。
近づくダートの顔に、答えられなくて瞬きをする。
目線が、離れない。
「――――っ。」
ほんの少し、唇が触れた。
それにアーネストが小さく息を飲むのを、ダートは動かずに見守り、それからもう少し押し付けてきた。
少しだけ仰向けになったまま、手のひらでダートの体に触れ、上へとなぞり、徽章に触れる。
アーネストの喉が小さく鳴って、ダートが顔の角度をかえた。
それでも、お互いの唇は閉じられたまま、ただ、合わさったまま震えていた。
こう、してほしかった。
――ずっと、こうしたかったのか。
徽章を通り越して、肩にたどり着いた手のひらは、いつのまにかそこをしっかり掴んで、離さなかった。
馬の鼻息が響き、首が揺らされた。
少しだけ、押し付けられた唇の力が緩まり、アーネストの首がそれを追いかけた。
「ふふっ」
ダートが小さく笑い声をこぼして、目を優しく細めた。
自分が何をしたのか、その瞬間に理解して、思わず顎を引く。
だが、ダートの手がアーネストの顎をしっかりと捉え、その舌がアーネストの唇を割って入ってきた。
「――っ、まっ……」
肩に置いた手のひらに力が入り、喉の奥が小さく詰まった音を立てる。
ダートは、奥まで入ってくることはなく、唇の裏側をなぞり、それからアーネストの唇をやわくなで、音を立てながらそこを解放した。
鼓動が体内で大きく弾み、喉の奥がひくついていた。
「――室長……。言わせてください。」
いつのまにか、ダートの目線が自分よりも高くなっていたことに気付く。
二人の間、お互いの手がお互いに触れている。
その向こう、ダートが、困ったような顔で笑いながらアーネストに告げた。
「室長、俺はあなたのことが、好きです。
室長だからとか、上官だからとか、自分のウルラだからとか、そう言うんだけじゃなくて」
道の場所に添えられた右手の中指が、頬の下をかすかになぞった。
「――アーネストさん。あなたのことが、ずっと、好きです。」
名指しで告げられた言葉に、息を呑み込む。
「フリード……。」
舌がもつれて、それ以上の言葉を紡げなかった。
そんなアーネストの唇に、ダートの親指がそっと乗った。
「無理に返事しなくていいんです。
……でも、室長が俺のことを好きなこと、室長より多分俺の方が知ってます。」
そう言ってダートは顔を近づけて、自分の鼻先をアーネストのそれに擦り付けた。
「何、言って…、」
何とか口を開くと、ダートは、泣き笑いのような顔をしてアーネストの両頬を手のひらで包んだ。
「今、室長が、全身で教えてくださったので。 ……言葉はまだいいんです」
頬を抑える手のひら、小指の触れたところがくすぐったくて、
でも、動けないでいた。
「ただ、俺のそばを、離れないでください」
小さく、息を呑む。
「――お願いです。」
祈るようなその言葉に、肩の力が抜けて、鞍の革がかすかに鳴った。
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