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第2話

翌朝、カイルはカーテンの隙間から差し込む陽の光で目を覚ました。 そして、すぐそばに感じる確かな温もりと、下半身に残る鈍い痛み。それが、昨晩ベッドで交わした情事の激しさを鮮明に思い出させた。 隣で心地よさそうに寝息を立てるトラヴィスを見つめ、カイルはその無精髭の手触りを確かめるように優しく頬を撫でてから、ゆっくりとベッドを抜け出した。 トラヴィスの顔に陽が差し込まないよう慎重にカーテンを引き、窓を開けて、森の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。 重なり合う鳥のさえずり、湿った土の匂い、そして朝露の輝き。森のすべてに細胞を呼び覚まされたカイルは、居ても立ってもいられず急いでシャワーを浴びて服を着ると、躊躇うことなくトラヴィスの家を飛び出した。 森の空気を、そのすべてを全身に浴びたいと、心が求めていた。 20分ほど近辺を散策し、森の薫香を思う存分堪能したカイルが、そろそろ戻ろうと足を向けたその時だった。 背後で土が軋み、木の葉の擦れ合う微かな音が響く。カイルは思わず息を呑んだ。 この森にはイノシシや狼、野犬が生息している。最悪の想像が脳裏をかすめ、呼吸は自然と浅くなり、背中を嫌な汗が伝った。 カイルが身構えるように足を動かした次の瞬間、右斜め前の木陰から、一頭の巨大な白い獣が音もなく姿を現した。 それは、燃えるようなオレンジ色の瞳が印象的な、体長150センチほどもある白いハイイロオオカミだった。 しばらくその豊麗な白毛に見惚れていたカイルだったが、ハッと我に返ると、再び緊張で足がすくんだ。 ハイイロオオカミは基本的に人を襲わないと言われている。だが、この個体が例外でない保証はない。狂犬病の可能性もあれば、子育て中で過敏になっているかもしれない。 距離を取ろうと、カイルがわずかに右足を後退させたその時だった。 「その子は誰も傷つけない。とても賢い、いい子だよ」 背後から響いたのは、いつの間にか追ってきていたトラヴィスの声だった。 カイルがゆっくりと振り返ると、彼はニヤリと不敵に笑って言った。 「……それに、どうやらあの子は君を気に入ったみたいだ」 「トラヴィス……。どうして、そんなことがわかるんだ?」 「わかるさ。あの子の目を見ればね」 美しい白毛の狼は、相変わらずじっと、興味深げにカイルを見つめていた。 トラヴィスはカイルの緊張を解くように、その肩を抱き寄せた。 「この辺りにはシルバークリーク・パックという群れが住んでいる。あの子はその一員なんだ」 「……詳しいんだね」 「長く住んでいるからね。それに、息子のひとりであるケヴィンがパークレンジャーをしていて、ここの動物たちの情報は常に入ってくるんだ」 「息子のひとり? 他にもお子さんがいるの?」 「ああ、息子が二人。もう一人のアレックスは町の高校で生物学を教えているよ。二人とも普段は町暮らしだが、週末には必ずここへ帰ってくる」 「仲がいいんだね」 「ああ。俺たちは強い絆で結ばれているから」 「……なんだか、羨ましいな」 「君だって、もう俺の家族のようなものだよ」 トラヴィスはそう言って、カイルのこめかみに優しいキスを落とした。 「家族……? 昨日会ったばかりなのに」 カイルが茶化すように言うと、トラヴィスは深く、静かに笑った。今度はその唇に触れるだけの穏やかなキスをし、カイルを力強く抱きしめる。 「……だが君も、昨日会ったばかりの俺に何かを感じたからこそ、ここまで来たんだろう?」 鼓膜を震わせる心地よい低音。耳元で囁かれるセクシーな声に、カイルは抗うことができなかった。 ただ彼を抱きしめ返し、うっとりと目を閉じて「うん……」と呟くのが精一杯だった。 家に戻るなり、トラヴィスはキッチンへ向かい、手際よく動き出した。 「さぁ、朝食を用意するから。君はそこで寛いでいてくれ」 手持ち無沙汰なカイルはリビングのソファに腰を下ろし、ぼんやりとトラヴィスの背中を眺めていた。 やがてキッチンから、卵とバターの香ばしい匂いが漂い始めた――その時だった。 「お、ちょうど朝食の時間? グッドタイミングだな」 突然、見知らぬ男の声が響き、部屋に誰かが入ってきた。 二十代半ばほどだろうか、ウェーブのかかった金髪の青年だ。シャワーを浴びた直後なのか、腰にタオルを巻いただけの剥き出しの姿。 カイルの角度からはその声の主の背中しか見えなかったが、本能と直感で彼が逞しいアルファ男性だという事がわかる。 青年は気だるげに少し長い髪をかき上げると、調理中のトラヴィスの背後からフライパンの中を覗き込んだ。 「ケヴィン、いつ戻っていたんだ?」 「森を走って、さっき帰ったところ。……もしかして、今日はまずかった? あそこにいるのは、父さんの知り合い?」 会話から、この青年がトラヴィスの息子であることを察したカイルだったが、同時に言いようのない場違いな感覚に襲われた。無意識のうちに息を殺し、身体を硬くして、彼に気づかれないよう存在を消そうと試みる。 ――だが、そう願う心とは裏腹に、カイルは青年から目を離すことができなかった。 美しい金髪と、彫刻のように完璧な肉体。背中を見ているだけで、それが過酷なトレーニングによって鍛え上げられたものだと確信できた。 トラヴィスとはまた異なる種類の美しさであり、若さの絶頂にある者だけが放つ、抗いがたいオーラを纏っている。 青年はカイルの視線に気づかぬまま、気だるげにトラヴィスとの会話を続けていた。 「ところで、この家……セックスの匂いがするな。まさか、今朝ヤった?」 「……ケヴィン。客人の前だぞ、慎め」 トラヴィスが咳払いをして顎でソファの方を指すと、金髪の青年――ケヴィンはようやくカイルに視線をやった。 「……おっと」 ケヴィンは動きを止め、無言のままじっとカイルを見つめた。その視線は頭の先からつま先までを舐めるように動き、カイルを隅々まで観察していく。 あまりに直接的な視線に、カイルは動揺しながらも絞り出すように声を出した。 「あの…はじめましてカイルです」 「よろしく、ケヴィンだよ。君は父さんと付き合ってどれくらいなの?」 遠慮のないその質問に、カイルは言葉に詰まってしまう。その様子を見かねて、トラヴィスが二人の間に割って入った。 「ケヴィン、カイルを困らせるな。ほら、お前も座れ。一緒に食べるだろう?」 トラヴィスはスクランブルエッグとカリカリのベーコンを人数分の皿に盛り、カイルへ視線を送ると「さぁ、こっちへ」と席に着くよう促した。 「ところでケヴィン、今週の予定は?」 トラヴィスはマグカップにコーヒーを注ぎながら、息子に尋ねる。 「明日はソフィアに会う予定だけど。父さんこそどうなんだ? カイルと過ごすのか?」 その言葉に、スクランブルエッグを口に運ぼうとしていたカイルの手が止まった。 顔を上げると、二人のハンサムな男たちの視線が、自分に真っ直ぐ注がれていることに気づく。 「ええと……」 正直なところ、昨日の時点で今日のことなど何ひとつ考えていなかった。 トラヴィスとの関係を一晩で終わらせたくないのは確かだが、彼のことはまだ何も知らないに等しいし、まともな会話さえろくに交わしていない。それなのに、突然現れた彼の息子と三人で食卓を囲むことになるとは、カイルにとってすべてが予想外の展開だった。 ――もし、出会ったばかりの男とベッドを共にするような尻軽だと知られたら、ケヴィンに軽蔑されるだろうか。 ……いや、なぜ自分は、会ったばかりの彼にどう思われるかをこれほど不安に感じているのだろうか。 考えがまとまらず、カイルは困惑した表情のままトラヴィスに助けを求めた。 視線が合うと、彼はカイルの不安をすべて見透かしたような、穏やかな微笑みを返した。 「本当は一日中一緒にいたかったんだが、実はこれから店の改築の件でボブが来ることになっていてね。もうすぐバーへ行かなければならないんだ。……もっと一緒にいられたらよかったんだが……、済まない」 その言葉が真実なのか、それとも気まずい思いをしている自分に逃げ道を用意してくれたのか、カイルには判断がつかなかった。けれど、考える時間が欲しかった今の自分にとって、それが救いであることは間違いなかった。 「大丈夫だよ、トラヴィス。僕も、そろそろ失礼しようと思ってたから」 申し訳なさそうに頷くトラヴィスだったが、ふと何かを思いついたようにカイルを見つめた。 「そうだ、カイル。もし良ければ、今晩うちに夕食を食べに来ないか? 夜には戻るから、住所を教えてくれたら迎えに行くよ」 今夜もまた彼に会える――。その事実は純粋に嬉しかったが、同時に、再びこの家を訪れることに微かな戸惑いも感じていた。 ケヴィンは迷惑ではないのか。確か、週末にはもう一人の息子も帰ってくると言っていたはずだ。 再び困惑に沈みかけたカイルだったが、向かいのトラヴィスがそっと手を握り、「ぜひ、来てほしい」と甘く囁いた。その響きに抗えず、カイルは反射的に「ありがとう。じゃあ、今晩お邪魔しようかな」と返してしまった。 そんな2人のやりとりを無言で眺めていたケヴィンが、コーヒーを飲み終えると大きな音を立ててテーブルにマグを置いた。その音に驚いたカイルは弾かれたように彼を振り向いた。 「ところで、カイルは今から何か用事あるの?」 「いや、とくに…」 「じゃあ俺と遊んでくれる?父さんの用事が終わるまで、一緒にランチと映画でも行こう」 「えっ…」 ケヴィンは抗いがたいほど魅力的な笑みを浮かべ、カイルをじっと見つめていた。透き通るような青い瞳に射すくめられ、目が逸らせない。 今日初めて間近で見るその端正な顔に、可愛らしいえくぼがあるのを見つけて、カイルの胸がわずかに騒いだ。 「ちょっと彼を借りてもいいだろ、父さん?」 ケヴィンは父親に問いかけながらも、視線はカイルに縫い付けられたままだった。 蛇に睨まれた蛙のように固まるカイルを、トラヴィスの落ち着いた声が救った。 「あまりカイルを困らせるな。それに、ソフィアはどうするんだ」 「ソフィアとは明日会うから大丈夫だよ」 「カイル……君は、それで構わないかい?」 カイルは、むしろトラヴィスがどう思うのかが気になった。だが、恋人の息子とランチや映画に行くのは、決しておかしなことではないはずだ――。自分に言い聞かせるように、そう思い込み始めていた。 ましてやセックスするわけではないのだから。 「う、うん……。今日は特に用事もないし、大丈夫だよ」 カイルは、即座に返答を求められると反射的に「イエス」と言ってしまう自分の性格を呪った。 トラヴィスが仕事へ向かった後、ケヴィンは手早く服を着ると、カイルを誘って森を散歩することにした。 カイルにとって、大好きな森を、大好きな動物や自然の話をしながら誰かと歩くのは至福の時間だった。重度の動物オタクである自分のマニアックな話題に、ここまで対等についてきてくれる人はそういない。 自分の仕事について、これほど熱心に耳を傾けてもらったのは、いったいいつ振りだろう。 ケヴィンもまた、最近の森の様子について語ってくれた。 新しく生まれた子鹿の話や、ビジターセンターに新設されるアクティビティのこと。 そこにいたのは、朝に感じた意味深で色っぽい男ではなく、まるでお気に入りのコレクションを説明する少年のように純粋なケヴィンだった。 カイルはそのギャップにますます惹きつけられると同時に、朝の思わせぶりな視線や笑みはすべて自分の勘違いだったのではないか、と恥ずかしくなった。 自分だけが欲求不満で、あらぬ妄想を抱いていたかのような居心地の悪さを感じる。 散歩の終わりには、すっかり意気投合して釣りの約束までした。 それから二人はスマートフォンで映画の上映開始時間を調べ、ランチへと向かった。 入ったのはサンドイッチのチェーン店だったが、ケヴィンはいかにもタンパク質が豊富そうなメニューを選び、その上サイドメニューや甘い飲み物まで追加した。ストイックに体型を維持していそうな彼には似つかわしくない注文内容に、カイルは思わず信じられないといった様子で彼を凝視してしまう。 視線に気づいたケヴィンは、茶目っ気たっぷりにウィンクしてみせた。 「朝からトレーニングもしたし森も走ったから、今日は栄養を摂らないとね」 「……ところで、君のことをもっと詳しく聞いてもいい?」 カイルがようやく半分ほど食べ終えた頃には、ケヴィンのトレイはすでに空になっていた。彼は頬杖をつき、まだサンドイッチを頬張っているカイルをじっと見つめている。 それはまるで、小さな動物が食事をするのを愛おしげに見守るような、穏やかで柔らかな眼差しだった。 カイルはますます、この青年が自分にどんな感情を抱いているのか分からなくなった。 「……僕は隣の州に住んでいるんだ。父さんの葬儀のために戻ってきて、遺品の整理もあるから一週間はここにいる予定だよ」 「そうだったのか……。悪かったな、大変な時に」 気まずそうに目を伏せるケヴィンに、カイルは慌てて「大丈夫だよ」と声をかけた。 「ほとんど絶縁状態だったから。……君とトラヴィスは仲が良さそうで、羨ましいくらいだ」 「まあ、俺たちは特殊だからな」 「特殊?」 「……うーん、説明が難しいな。もし君が、俺たちともっと親しくなりたいと思ってくれるなら、いつか詳しく教えるよ」 その意味ありげな答えにカイルはますます興味を惹かれたが、彼にそれ以上話す気がないのは明らかだった。 カイルは深追いする代わりに、ずっと気になっていたことを尋ねた。 「そうだ、一つ聞いていい? ソフィアって、誰……? 彼女なの?」 「彼女っていうか、婚約者だよ」 期待に反してあっけらかんとしたケヴィンの答えに、カイルは拍子抜けした。 ケヴィンには婚約者がいる。ならば、朝のあの態度は純粋に「父親の新しい恋人」として仲良くしようと気を遣ってくれただけなのだと、自分を納得させた。 だが、ケヴィンがそれ以上ソフィアについて語ることはなく、むしろ気まずい沈黙が流れた。 もしかして二人は上手くいっていないのだろうか、とカイルが邪推してしまったその時だった。 「さあ、そろそろ映画が始まる。行こうか」 曇った表情のまま立ち上がったケヴィンは、ごく自然にカイルの手を取ると、まるで恋人同士のように指を絡ませた。 突然のことにカイルは再び混乱に陥る。トラヴィスやソフィアに見られたらどう思うだろうと冷や汗をかきながらも、カイルはその温かな手を振りほどくことができなかった。 週末だというのに映画館は空いており、カイルとケヴィンの両隣に座る者はいなかった。ケヴィンは「ぎゅうぎゅう詰めじゃなくてよかったね」と無邪気に微笑んだ。 だが、カイルの右肩とケヴィンの左肩はぴったりと密着しており、そこから発する熱のせいでカイルはこれから始まる映画に到底集中できそうにない予感に震えていた。 映画は少し前に公開されたSFラブロマンスだった。 異星人と人間という、友情以上、愛情未満の危うい関係を描いたストーリー。二人の距離が触れそうなほど近づき、キスしそうでしない演出が繰り返されるたび、カイルは思わず生唾を飲み込んだ。 いつの間にか物語に没入していたカイルは、二人が結ばれることを切に願っていた。 だが、彼らは宇宙規模の過酷な運命には逆らえず、別れの時を迎える。最後の挨拶としてハグを交わし、異星人が人間の頬にそっと口づけて去っていく――。 あまりに悲しい結末に、エンドロールが流れ始めた瞬間、カイルは小さくため息をついた。 ケヴィンはこの結末をどう感じたのだろう。気になって隣を窺うと、彼はカイルの視線に気づき、にっこりと微笑んだ。 ――その直後、ケヴィンの手が重なり、指を優しく絡められた。 「……ケヴィン?」 恋人同士のような仕草に動揺し、カイルは反射的にその手から逃れようとした。だが、すぐに力強く握りしめられ、逃げ場を失う。 そして――。 「!」 闇の中で、ケヴィンがカイルに唇を重ねた。 それは触れるだけの、優しく紳士的な口づけだった。だが決して短くはなく、互いの温もりをはっきりと確かめ合うような深いものだった。 ケヴィンはゆっくりと唇を離したが、名残惜しそうに鼻先を軽く触れ合わせる。そして「行こうか」と短く声をかけると、呆然と立ち尽くすカイルのことなどお構いなしに、再び当たり前のように手を繋いで映画館を後にした。 その後、車に乗り込むまでケヴィンはずっと無言だった。カイルも何を話すべきか分からず、沈黙を守るしかない。 気まずさに押しつぶされそうなカイルに対し、盗み見たケヴィンの横顔は穏やかで、繋がれた手も緩む気配はなかった。 車が動き出すと同時に、ケヴィンはようやく口を開いた。 「さっきは急にごめん。なんだか、感情移入しちゃって……。あのエイリアン、拒絶したくて頬にキスしたわけじゃないと思うんだ。本当は唇にしたかったけど、そうしたら別れが辛くなるから我慢したんだろうなって考えたら、なんだか堪らなくなって……」 それがキスをした理由になっていないことは明白だった。不快だったわけではない。ただ、カイルは彼の真意が知りたかったのだ。 「……でも、君には婚約者がいるのに。それに、僕は君のお父さんと……」 言葉を詰まらせながら尋ねると、ケヴィンは突然路肩に車を止め、険しい表情でカイルに向き直った。 「父さんと寝たこと? そんなの気にしない。ソフィアだって親同士が決めた相手で、いい子だけどロマンチックな関係じゃないんだ。俺は今日、君に出会って……俺の運命の人は君なんじゃないかって思った。一目惚れだよ。でも、君からは父さんの匂いがするし、君は……」 捲し立てるように語ったケヴィンだったが、すぐにハッとして冷静さを取り戻した。「……ごめん、好き勝手言って」と、申し訳なさそうに視線を落とした。 今日一日、ケヴィンの穏やかで太陽のように明るい笑顔しか知らなかったカイルは、初めて彼の内に秘めた「何か」に触れた気がした。 カイルは彼に寄り添いたいという衝動を抑えられず、ハンドルを握ったままのケヴィンの手にそっと自分の手を重ね、優しく包み込んだ。 「……そんな結婚がこの時代にあるなんて、信じられない。君は、本当にそれで納得してるの?」 「……仕方ないさ。種族を守るためだ。俺は末の男子だから、所詮は繁殖用の雄なんだよ」 種族? 繁殖用? カイルは、ケヴィンが一体何の話をしているのか全く理解できなかった。 だが、この家族に、外からは窺い知れない複雑な事情があることだけは痛いほど伝わってきた。 「そりゃあ俺だって、本当に好きな人と添い遂げたかったさ。結局、俺も親父と同じ道を辿るんだろうな。……でも、最終的に君みたいな『恋人』ができるなら、それもありか」 再びケヴィンの美しい瞳が、意味深に自分を捉える。その顔がじわじわと近づいてくるのを感じ、カイルは耐えきれず、慌てて別の話題を切り出した。 「……ところで、昨日君の家の近くで白いオオカミを見たんだ。すごく綺麗な、オレンジの目をした。あの子はよく見かけるの?」 「……ああ。彼が気に入ったのかい?」 「彼……? 男の子なんだね。僕は昔から大型犬が好きで、以前飼っていた犬もウルフドッグだったんだ。オオカミを見ると、その子のことを思い出すんだよ」 カイルはスマートフォンを取り出すと、かつての愛犬・スイフトの写真をケヴィンに見せた。 「いい犬だ。……そうか、カイルはオオカミが好きなんだね。また彼に会いたい?」 「うん、会いたいな」 「きっと会えるよ。君がずっとここにいてくれるならね」 「……ケヴィン?」 ケヴィンがカイルの顎に指を添え、自分の方へ向かせた――その時だった。 彼のスマートフォンが、静寂を破るようにけたたましく鳴り響いた。 「クソッ……多分ソフィアだ。ちょっと待ってて」 カイルはただ黙って、ケヴィンとソフィアの会話を隣で聞いていた。今日の出来事のすべてが彼女に対する裏切りに思えて、まだ見ぬ相手への申し訳なさで胸がいっぱいになった。 「カイル、ソフィアが駅まで迎えに来てほしいって。ごめん……行かなきゃ。たぶん、もうすぐ父さんも戻ってくると思う。とりあえず君を家に送り届けてから、そのまま駅へ向かうよ」 ソフィアとの電話を終えたケヴィンが、申し訳なさそうに言った。 「さっきも言ったけど、ソフィアはただの婚約者だ。会ったばかりの俺にこんなことを言われたら引くかもしれないけど……俺は、本気で君と付き合いたいと思っているよ」 そのあまりに堂々とした告白に、カイルは耳を疑った。 「……ケヴィン、本気で言っているの?」 「ああ。ゆっくり考えてほしい。無理やり親父から奪うつもりはないさ。君自身の気持ちが何より大事だからね」 「……」 カイルは、何も言い返すことができなかった。 その後、家に着くまでカイルはずっとケヴィンに手を握られたままだった。 今日出会ったばかりの青年に。 しかも彼の父親とも一昨日会ったばかりで、昨晩はその父親と熱い夜を過ごしたのだ。あまりにも狂っているし、正気の沙汰ではない。けれども、それを甘んじて受け入れている自分がいる。 ウォーカー親子はどうして、これほどまでに自分の心をかき乱すのか。 カイルは困惑しつつも、魅力的な「雄」たちに執着される快感に、どこか酔いしれているのだった。 ウォーカー家に着くと、ケヴィンはドアロックを解除し、ソフィアを迎えに行くためにすぐさま去っていった。 別れ際、彼は「番号、交換してもいい?」と、断られることなど微塵も疑わない自信に満ちた表情でスマートフォンを差し出してきた。 カイルもまた、催眠術にでもかかったように無言で頷くと、ケヴィンと互いの端末を交換し、それぞれの番号を入力した。 カイルが家に入ると、まだトラヴィスは戻っていないようだった。だが代わりに、キッチンに見知らぬ男の背中を見つける。カイルが驚きで立ち尽くしていると、気配に気づいた男がゆっくりと振り返った。 「あ、あの……こんばんは。カイルです。お父さんに招待されて……」 その男は、今朝のケヴィンと同じように目を細めると、カイルを頭の先からつま先までじっくりと観察するように見つめた。 「さっき親父から聞いたよ。俺はアレックスだ。親父はあと三十分ほどで着くらしい」 「アレックス……」 彼はトラヴィスの二人目の息子であり、ケヴィンの兄だった。 アレックスは、トラヴィスと同じダークブラウンの髪にヘーゼルの瞳をしていた。ただ、髪はケヴィンのように波打っておらず、サイドを短く刈り込み、トップに長さを残した清潔感のあるスタイルで、いかにも教師らしい知的な印象を与える。 スラックスにシャツという装いもまた端正だったが、服の上からでもその骨太で強靭な体格は容易に見て取れた。トラヴィスやケヴィンよりもさらに背が高く、優に190センチはあるだろう。 圧倒的な存在感を放つアレックスに、カイルがついつい見惚れていると、彼は忌々しげに低く呟いた。 「まったく……。なんでよりによって、親父なんかと」 「……え?」 カイルにはその声が聞き取れず、聞き返そうとしたが、その口調や表情からして、ケヴィンのような友好的な歓迎は期待できないことを悟り、そのまま口を閉ざした。 「……適当に座って待っていてくれ」 アレックスに短く促され、カイルは「わかった」とだけ答えるとリビングのソファに腰を下ろした。 キッチンでサラダを用意するアレックスの背中を見つめながら、沈黙だけが流れること十五分。ようやく玄関の扉が開き、トラヴィスが帰ってきた。 「カイル! 夜まで君を独りにしてしまって済まなかった。……ケヴィンはどうした?」 「ソフィアから電話があったみたいで……」 「そうか、あいつは駅へ向かったんだな。なら、今晩は三人だ。だがアレックス、お前が間に合ってよかったよ。ケヴィンは残念だったが、次はまた四人で集まれるよう調整しよう」 「四人じゃなくてもいいだろう!」 アレックスの怒鳴るような声が響いた。 「アレックス……?」 それまで冷静で知的だった彼の声は、一瞬で鋭く低いものへと豹変した。張り詰めた空気が、リビングを凍りつかせる。 「話を複雑にするのはいつも親父だ。なぜ今になって、こんな……俺やケヴィンと同年代の人間を連れ込んだ? 恥ずかしくないのかよ。母さんが新しいパートナーを見つけるまで、独りでいるんじゃなかったのか?」 アレックスは次にカイルを射抜いた。 「あんたもどういうつもりだ。突然家族の食事会に押し掛けてきて。所詮、ただの愛人だろ?」 「アレックス! カイルの前で口を慎め。彼に謝るんだ」 トラヴィスが静かに、だが拒絶を許さない強い声で息子を咎める。その響きは、カイルの耳にはまるで猛獣の唸り声のように聞こえた。 アレックスは数秒間黙り込み、視線を落とした。 「……カイル、すまなかった」 「……大丈夫だよ」 カイルはアレックスの言葉を必死に反芻していた。 魅力的なトラヴィス、そしてケヴィンに翻弄されるあまり、肝心なウォーカー家の事情について何も考えていなかったのだ。トラヴィスの妻は存命なのか、離別なのか死別なのか。そんな基本的なことさえ確認していなかった。 数年越しの恋人でもない自分が、家族の大切な週末の食卓を囲み、あまつさえ諍いの火種になっている。 ――自分は、ここにいない方が良かったのではないか。 むしろ謝るべきなのは、自分の方ではないのか。 「……ごめんなさい、トラヴィス。せっかく誘ってくれたけれど、急な用事を思い出してしまったから、やっぱり今日は帰るね」 いたたまれなくなったカイルは、そう一気にまくし立てた。トラヴィスと視線を合わせる勇気も持てず、逃げるように家を飛び出す。 「カイル!? 待ってくれ!」 背後からトラヴィスの切実な声が追いかけてきた。だが、その直後には再びアレックスとトラヴィスが激しく言い合う声が響き、カイルをさらに遠くへ突き放した。 引き止められれば、またすぐに彼に甘えてしまう。それを恐れるように、カイルは必死で家から遠ざかろうと走り続けた。 ――急用を思い出したから? 走りながら、あまりに稚拙な自分の嘘を嘲笑わずにはいられなかった。これほど下手な口実で逃げ出したくせに、心のどこかでは彼がすぐに追いかけてきてくれると期待している。そんな己の女々しさに、たまらなく嫌気がさした。 だが、現実は無情だった。トラヴィスが追いかけてくることはなく、カイルはただ独り、深い森の中を走り続けた。 しばらくして、激しい鼓動と共にようやく頭が冷えてくると、そもそも自分から彼に声をかけたのが間違いだったのだと反省し始めた。いくら心が弱っていたとはいえ、見ず知らずの誰かに安らぎを求めるべきではなかったのだ。 自分はトラヴィスにも、ケヴィンにも、あの家にも相応しくない。彼らに関わることはもうやめよう。カイルは自分にそう言い聞かせ、この二日間の出来事を、ただの短く美しい夢として胸の奥に閉じ込めることに決めた。 走り続けて五分ほど経った頃、カイルは前方の薄暗がりにイノシシの親子がいるのを見つけた。 まずい――。そう直感した瞬間、子供を守ろうとする母親が猛然とこちらへ突進してくる。咄嗟に近くの木へ登ろうと身を翻したその時だった。 カイルの視界を巨大な黒い塊が横切り、正面からイノシシに激突した。 その正体は、一頭の黒いオオカミだった。 衝撃でよろめくイノシシに対し、黒いオオカミは牙を剥き出しにし、大地を震わせるような唸り声を上げる。 数秒の睨み合いが続いた後、圧倒されたイノシシは森の奥へと逃げ去った。 「……まるで、助けてくれたみたいだ。ありがとう」 命拾いした安堵から、カイルは思わずそのオオカミに礼を言った。だが、相手もまだ興奮状態にある野生動物だ。刺激しないよう、カイルは慎重に後退し、その場を離れようとした。 しかしカイルがわずかに動いた瞬間、オオカミは鋭い反応でこちらを振り向き、射すくめるような視線でカイルをじっと見つめた。 その狼は全身が漆黒の毛に覆われ、瞳は鋭い金色に輝いていた。月明かりを浴びたその姿は神々しいほどに美しく、カイルはその堂々とした佇まいに思わず目を奪われた。 以前目にした白い狼よりも一回り大きく、この個体もおそらく同じ「シルバークリーク・パック」の仲間なのだろう。 親子か、あるいは兄弟か……。 カイルは逃げ出すことも忘れ、その圧倒的な存在感を前に呆然と立ち尽くしていた。 すると突然、黒い狼が夜空に向かって遠吠えを始めた。 わずかな間を置いて、今度は近くから別の遠吠えが呼応するように響き渡る。あの白い狼だろうか、とカイルが考えを巡らせたその時だった。 背後の茂みから、別の獣が忍び寄る足音が聞こえてきた。 慌てて振り返ると、そこには灰褐色の狼が静かに佇んでいた。 一度に二頭もの狼に囲まれるという、驚きと感動が入り混じった非日常的な光景。カイルはその場に根を張ったように動けなくなり、ただ二頭の狼を交互に見つめていた。 灰褐色の狼は白い狼と同じくらいの大きさで、その瞳はイエローとオレンジの中間、まるで蜂蜜のように澄んだ色をしていた。 もっと近くで見てみたい……。カイルがそう願った瞬間、驚いたことに狼の方からゆっくりと近づいてきて、彼の手の匂いを慎重に嗅ぎ始めた。 カイルはかつての愛犬、スイフトを思い出し、喉の奥から込み上げる愛おしさに撫でたい衝動に駆られた。だが相手は野生だ。刺激しないよう、しばらくなすがままにさせておく。  すると、狼はカイルの手を熱心に舐め始め、鼻先でグイグイと彼の体を押し、ついにはそのまま地面へと押し倒してしまった。 流石に恐怖が背中を走ったが、狼は相変わらず優しく手を舐め続けている。それに満足すると、今度はカイルの体の上へと這い上がってきて、首筋や顔の匂いを深く吸い込み、しまいに顔中をペロペロと舐め回した。 不思議と獣特有の生臭さは感じなかった。自分に甘えるようにうっとりと目を細める狼の様子に、カイルはついに我慢ができなくなる。 スイフトへの想いも相まって、彼は自分の上にのしかかる巨大な狼の首回りに手を伸ばし、夢中でその毛並みを撫で始めた。 フサフサとした毛並みの感触を楽しんでいると、いつの間にか黒いオオカミまでもがカイルに寄り添ってきた。それは灰褐色のオオカミのように舐め回すことはなかったが、カイルの首筋や髪に鼻を寄せ、深くその匂いを吸い込み始めた。 端から見れば、人間が二頭の猛獣に襲われているようにしか見えない光景だろう。だがカイルは、不思議と恐怖を感じることはなかった。むしろ、人懐っこい犬のような彼らとの触れ合いを、心の底から楽しんでさえいたのだ。 しかし、至福の時間は突然破られた。灰褐色のオオカミが何かに気づいたように弾かれたように離れると、森の奥へと一目散に駆け去っていった。 その様子を見てカイルも我に返る。早く町へ戻り、自宅に帰らなければと立ち上がろうとしたが、それは黒いオオカミによって阻まれた。 彼はカイルが去るのを拒むように足元へぴたりと身を寄せ、終いにはカイルの靴の上に自分の体を重ねるようにして、どっしりと座り込んでしまったのだ。 「一体どうしたっていうの? 君は、僕に行ってほしくないの?」 カイルは目の前の黒いオオカミに語りかけながら、ゆっくりとその頭を撫で、そのまま耳の後ろを掻いてやった。 すると、オオカミは気持ちよさそうに目を閉じ、カイルの手に身を委ねて頭を預けてきた。 「君は可愛いね……。それに、とてもいい子だ」 しばらく黒いオオカミと戯れていると、不意に眩しいヘッドライトが二人を照らし出し、見覚えのあるトヨタのSUVがカイルの傍らで急停車した。 「カイル! 迎えに来るのが遅くなってすまない」 車から降りてきたのは、トラヴィスだった。 「あれからアレックスと言い合いになってしまって、すぐに追いかけることができなかったんだ。まさか、私があのまま君を帰すと思ったかい? それにしても、君は驚くほど足が速いな」 「トラヴィス……。ありがとう、来てくれて。実は、さっき……」 カイルは今起きた黒いオオカミと灰褐色のオオカミとの出来事を話そうと、足元を見下ろした。だが、そこにいたはずの黒いオオカミは、影も形もなく、いつの間にか夜の闇へと消え去っていた。 ウォーカー家に戻る道中、車内でカイルは先ほどの出来事を興奮気味に説明した。 「さっき、黒いオオカミがイノシシから助けてくれたんだ。……助けてくれたっていうのは、あくまで僕の主観だけど。そのあとに灰褐色のオオカミもやってきて……」 カイルは、隣でニヤニヤと笑みを浮かべて話を聞いているトラヴィスに気づき、急に恥ずかしくなった。 「あ……ごめん。あんな風に突然出て行ったくせに、こんな話ばかりして。……迎えに来てくれてありがとう。正直、少し心細かったんだ」 「いいんだよ。君に何事もなくて本当によかった。夜の森は安全とは言えないからね」 「……僕が見たあの二頭も、シルバークリーク・パックのオオカミなの?」 「ああ、そうだよ。黒いオオカミと白いオオカミ、それから灰褐色のオオカミは家族なんだ。白と黒が兄弟で、灰褐色のが彼らの父親さ」 「そうなんだ……。二頭ともすごく人懐こくて、まるで人に飼われているみたいだった。でも、そんなことあり得ないよね?」 カイルは当然、トラヴィスから同意の返事がくるものだと思っていた。だが、返ってきたのは予想外の言葉だった。 「ああ。彼らは、少し変わっているんだよ」 「変わってる……?」 トラヴィスの語尾は次第に小さくなり、居心地が悪そうに左手で無精髭を撫で始めた。カイルは、これ以上踏み込んではいけない話題なのだと察し、それ以上問いかけるのをやめた。 家に着くと、黒いエプロンを身に着けたアレックスが、ビーフシチューの皿をダイニングテーブルに並べているところだった。 「……カイル。大人気ないことを言ってすまなかった。罪滅ぼしに、俺の作った料理を食べていってくれ」 「アレックス……ありがとう。もう気にしていないから、大丈夫だよ」 全く気にしていないというのは嘘だったが、今のカイルは狼たちとの触れ合いで昂揚しており、先ほどアレックスが自分に向けた敵意など、取るに足りない些細なことだと思えていた。 「さあ、ゆっくり食べようじゃないか」 トラヴィスがカイルの背中に手を添え、椅子を引いて座るよう促した。 先ほどの気まずい空気が夢だったかのように、食事中はカイルが話す森の動物や狼の話題で大いに盛り上がった。 カイルは獣医助手の視点から、犬と狼の骨格や食性の違いについて熱を込めて語り、アレックスは生物学者として遺伝的基盤の差異について専門的な知識を重ねる。 トラヴィスはそんな二人を微笑ましく見つめながら、「我が家に動物オタクの息子がもう一人増えたな」と茶化していた。 皆のシチュー皿が空になり、ワインのボトルも空いた頃、トラヴィスは軽く咳払いをしてアレックスに視線を向けた。 「もっと語り合いたいところだが、これ以上カイルを疲れさせてはかわいそうだ。ただでさえ森で大変な目に遭ったんだ。そろそろ休ませてあげないと」 「……そうだね。今日はすごく楽しかったけれど、確かに少し疲れたかもしれない」 トラヴィスはカイルの背に優しく手を添えると、「ゲストルームを案内するよ」と言って彼を二階へと誘った。 新しいタオルとシーツ、そして寝間着代わりのTシャツとスウェットをベッドの上に置くトラヴィス。その背中を見つめながら、カイルは少し戸惑いつつも声をかけた。 「ここでいいの……? てっきり、今日もあなたと同じ部屋で寝るものかと……」 カイルの沈んだ声を聞くやいなや、トラヴィスはカイルの手を握って引き寄せ、ベッドに座らせた。そして自分もその隣に腰を下ろす。 「カイル、私もそうしたいのは山々なんだ。そのつもりでいた。……だが、アレックスのあの様子を見ると、今夜君と同じ部屋で寝るのはあまりに無神経だと思ってね。本当に……すべては私の責任だ」 トラヴィスはカイルの膝に優しく手を置くと、親指で円を描くようにそこを撫でた。 「……トラヴィス。あなたは、離婚したの……?」 カイルはトラヴィスの手の甲に自分の手を重ね、落ち着いた声で、ゆっくりと尋ねた。 「……そうか。君には、まだ私のことを何も話せていなかったね。実を言うと、私たち夫婦は政略結婚のようなものだったんだ。互いの家の、血脈を守るために結婚し、子供をもうけざるを得なかった」 「血脈……」 カイルは、トラヴィスの口から出た聞き慣れない単語に、昼間のケヴィンの話を思い出した。 「互いに割り切れていれば、まだ救いがあった。だが、彼女は本当に私を愛してくれていたんだ。……対して私は、彼女を、いえ、女性を愛することができなかった。大切に思ってはいたが、彼女が心から求めるものを与えることはできなかったんだ。秘密を抱えたまま結婚し、義務のように数回だけ夜を共にしたが、長くは続かなかった。偽り続けることが苦しくなり、私は彼女に離婚を申し出た。 その後、息子たちが成人するまでは彼女の元で暮らすことになったが、週末には私のこの家へ遊びに来ることもあった。アレックスはいつも、『いつになったらまた四人で暮らせるようになるのか』と私に聞いていたよ。アレックスは、母親が今でも私を愛し、よりを戻したいと願っていることを知っている。だからこそ、私の今の行いが赦せないのだろう」 「そうだったんだ……」 「そして、せめてもの罪滅ぼしとして、私は離婚後も誰とも再婚せず、特定の恋人は作らないと決めていた。……セックスをしても、それは一夜限りのこと。誰とも深い関係にはならないと自分に課していたんだ。だが、そんな時に君が現れた」 トラヴィスは隣に座るカイルを見つめ、その顔を愛おしげに両手で包み込むと、親指で円を描くように優しく頬を撫でた。 「トラヴィス……」 「これ以上、息子たちを傷つけたくはない。だが、君を手放すこともできないんだ。身勝手な望みだとはわかっているが……少し、待ってくれるかい?」 カイルはその温かく大きな手に頭を預け、うっとりと目を閉じて「うん」とだけ短く答えた。 アレックスの謝罪は、あくまで表面上のものに過ぎないのかもしれない。相変わらず、欲望に任せて他人の家庭に首を突っ込んでしまったことへの罪悪感は消えなかったが、それでも今のカイルにとって、トラヴィスの包み込むような眼差しとぬくもりは、飢えた心に抗いようもなく染み渡るものだった。 「おやすみ、カイル。また明日」 トラヴィスはカイルの唇に触れるだけのキスをして、短く抱きしめると、静かに部屋を出て行った。 その日の夜中、喉の渇きで目が覚めたカイルは、キッチンへ水を飲みに行こうとベッドを降りた。皆を起こさないよう、細心の注意を払って音を立てずに部屋を出る。 その時、隣の部屋のドアがわずかに開いているのが目に入った。 寝ぼけていたせいもあっただろう。カイルは吸い寄せられるように、無意識のうちにその隙間を覗き込んでしまった。 「……っ!?」 そこには、正気を疑うような光景があった。 先ほど森で出会ったあの黒い狼が、ベッドの上で丸くなって安らかな寝息を立てていたのだ。 窓から差し込む月光に照らされた漆黒の毛並みは、外で見た時よりもいっそう深みのある輝きを湛えている。その艶やかな美しさに魅了されたカイルは、気づけば部屋の中へと足を踏み入れ、導かれるように狼へと手を伸ばしていた。 「これは……きっと夢だね。また君たちに会えたらいいなと思っていたからかな」 カイルがそっと呟きながら撫でると、狼はピクリと耳を動かし、うっすらと瞼を持ち上げた。だが、これは夢だと信じているカイルは驚くこともなく、ただ優しく撫で続ける。やがて彼は狼の隣に横たわり、至近距離でその顔を覗き込んだ。 狼は細めた瞳で、じっとカイルを見つめる。その深く鋭い眼差しに、カイルはなぜかアレックスの面影を感じていた。 「君は、本当に綺麗な目をしているね……」 狼がフスッと鼻を鳴らす。そのままカイルの鼻先に自分の鼻先をそっと押し当てると、再びゆっくりと目を閉じた。 パーソナルスペースに入ることを許されたのだと理解したカイルは、遠慮なく狼の首元に顔を埋め、そのふさふさとした体を抱きしめた。 「ところで、君は男の子? 女の子? ……まあ、どっちでもいいか」 心地よい温もりに包まれ、カイルにも抗いがたい眠気が訪れる。彼は狼の鼓動を感じながら、そのまま深い眠りに落ちていった。

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