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第5話
長い廊下にこだました真白の絶叫が消えるのを待って、デュアンが不気味なほど静かな声で「チッチラ」と守護神を呼んだ。さっきまでベッドの上でいじけていたチッチラがやってきて、ひょいっとデュアンの肩に乗った。
「呼んだか、デュアン」
「やれ」
凍てつくような短いふた文字に、チッチラの瞳が揺らいだ。その強張った表情で、真白は悟った。
――……殺される。
「放っ、せっ、ってば」
渾身の力でもがいてみても、側近の腕力は強く、とても振り払えそうになかった。
「ほ、本当によいのだな、デュアン」
「かまわぬ。やれ」
デュアンが顎で命じると、チッチラは小さなため息をついて頷いた。
「……承知した」
仕方なさそうに、チッチラは何やらぶつぶつと呪文を唱え始める。きっと人を呪い殺すための恐ろしい呪文なのだろう。
「……チッチラチッチ~~~、エイッ!」
チッチラが叫ぶ。
万事休す――真白は身を固くしてぎゅっと目を閉じた。
もしかするとすべて夢だったのかもしれない。急にそんな考えが頭に浮かんだ。
雨の日の交通事故で自分は死んだ。そしてこれは命の炎が尽きるまでの短い時間に見た、荒唐無稽な夢なのだ。そもそも召喚だの守護神だの転生だの呪文だの、これまでの真白の人生にはほぼ登場しなかった言葉ばかりだ。
――でも僕、特別ラノベ好きってわけじゃないんだけど。
今わの際に、なぜそんな世界線の夢を見たのだろう。けど今のところ痛いところもなければ苦しくもない。子供の頃、死はもっと恐ろしいものだったのに、こうして直面してみると拍子抜けするほど実感がない。
――僕も父さんと母さんのところに行くのか。
懐かしい父母の顔が過る。
ふたりの記憶は薄れ、思い出はもう写真の中にしかない。
――きっと「まだ早い」って叱られるだろうな。
涙が滲みそうになるのに、なぜだろう真白の胸には不思議な爽快感が広がっていた。
一国の王と、怯むことなく対峙できた自分に驚いていた。あんなふうに大声で自分の本音を叫んだことは、十九年の人生において一度もなかった。
――僕って案外すごいじゃん……って、まだ死なないのかな。
目を閉じてから、体感的に少なくとも三十秒以上経過している気がする。呪文をかけられること自体が初体験なので、効き始めるまでの平均時間がどれくらいなのか見当もつかない。
――まさかこのまま何時間も続いたりして……?
いやいや雨乞いの儀式じゃあるまいし。そう思った瞬間だった。
「あら」
「まあ、きれいだこと」
「おお、なんと美しい」
「ほんと、素敵ね」
方々から何やら嬉しそうな声が上がった。
人がひとり殺されそうとしているというのに一体何事だろうとそっと目を開けた。飛び込んできた光景に、真白は一瞬自分の置かれた立場を忘れ、「わあ……」と感嘆の声を上げてしまった。
ひまわりだった。それも一本二本ではない。廊下一面に数え切れない数のひまわりが咲き乱れていた。廊下に面したあちこちの部屋から、おそらく城の使用人なのだろう老若男女が出てきて、突然ひまわり畑と化した廊下で笑い声を上げていた。
「きっとまたチッチラ様の仕業ね」
「チッチラ様は、時々こうしておちゃめないたずらをされるからな」
「我々を喜ばせようと、常に腐心してくださっているのでしょう」
「さすがは我が国の守護神。お優しい方だ」
当のチッチラはいつの間にかデュアンの肩から下り、ひと際背の高いひまわりの陰に隠れている。少し離れた場所にいる使用人たちからは、その姿が見えないらしい。真白を取り囲んでいる側近たちも、その表情を微かに緩めているのがわかった。
そんな使用人や側近たちとは裏腹に、デュアンは今しも怒鳴り出しそうな様子で傍らのチッチラを睨みつける。
「チッチラ、お前というやつは」
「す、すまぬ、デュアン。つい好物を思い浮かべてしまったのじゃ」
ひまわりの茎にしがみつきながら、チッチラが申し訳なさそうに言い訳をする。
「ほんの一瞬だけじゃ。呪文を唱えながらほんの一瞬、ああひまわりの種が食べたいと思ってしまった。我輩としたことが一生の不覚――」
「もういいっ」
デュアンは怒りに任せたようにダンッと足を鳴らした。チッチラは「ひえっ」と声にならない声を上げ、脱兎のごとく元いた部屋に駆け込んでしまった。
「まったく、何が『一生の不覚』だ。年がら年中『不覚』だらけではないか」
デュアンは憮然とした表情で大きなため息をついた。そこに笑いの要素など欠片もないのだけれど、なぜだろうちょっぴり可笑しくなって、真白は「ぷっ」と小さく吹き出してしまった。
「何が可笑しい!」
案の定、デュアンの氷のような視線が真白に突き刺さった。
「へっぽこ守護神に頼んだ私が間違っていた。最初から私がこの手で始末すればよかったのだ」
そう言ってデュアンは、あらためて真白の正面に立った。ふたたび周囲の側近たちに緊張が走る。
「威勢がいいだけの無礼なちんちくりんめ。この手で成敗してやる」
デュアンの手が腰の剣にかかる。
今度こそ万事休す――と思った時だ。部屋の中から「ふぉぉっ」と珍妙な叫び声が聞こえてきた。デュアンが剣に手をかけたまま声の方を振り向く。こんな声を出すのはチッチラの他にいない。真白も開きっぱなしのドアから恐る恐る部屋の中を覗き込んだ。
チッチラがベッドの上で倒れていた。白目を剥いているようだ。
「し、死んでる?」
しかしすぐにデュアンの「またか」という脱力したようなため息が聞こえた。
神であるチッチラは、何度も死んだり生き返ったりするのだろうか……などと考えていると、デュアンが苛立ったような足取りで室内に入っていった。
チッチラは白っぽい何かを手にしている。小さめのピンポン玉くらいの大きさのそれには齧られたような跡があった。チッチラの口元に白い粉のようなものがついているところをみると、おそらく彼が齧ったのだろう。
――毒でも入っていたのかな。
しかしその傍らに転がっている小さな紙袋が目に入った途端、真白は思わず「あっ」と声を上げた。見覚えありありのそれは、真白が雨の交差点で車に撥ね飛ばされたまさにその時手にしていたものだった。
――ブールドネージュ……一緒に来ちゃったんだ。
紙袋に入っていたのは、ブールドネージュという焼き菓子だった。事故の前日、真白が自ら焼いたものだ。フランス語で〝雪の玉〟という意味で、バターや粉糖、アーモンドプードルなどを混ぜて作る。
可愛らしい見た目と口に入れるとほろほろと崩れる繊細な食感が大好きで、真白はしばしばアパートの狭いキッチンに設えたオーブンでそれを焼く。
どうやら事故の際に持ち歩いていた紙袋ごと召喚されてしまったらしい。
――そういえばオーブンのローン、まだ二回しか払ってなかったな……。
ぼんやりそんなことを考えていると、デュアンがブールドネージュを両手で握りしめたまま微動だにしないチッチラの身体を、指先で軽く揺さぶった。
「おい、起きろ、チッチラ」
しかしチッチラは目を覚まさない。デュアンは小さく舌打ちをし、今度はチッチラの尻尾をぐいぐいと乱暴に引っ張った。
「起きろと言っているのが聞こえないのか」
容赦ない目覚ましに、チッチラのつぶらな瞳がパチッと開いた。どうやら気を失っていただけらしいとわかり、真白は心の中でホッと胸を撫で下ろした。
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