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揺れる春5

「今日はもうこれで終わりかな?」  時計の針が20時50分をさしたときイジュンが言った。さっきイートインスペースで食べていた女子大生っぽい2人組が帰って、お店は今誰もお客さんはいない。そのとき、「アニョハセヨー」と声が聞こえてきた。残念。終わらなかった。でも、声は男性の声で珍しいなと思って顔をあげた。すると窓ガラスの向こうに見えた顔は先日俺の韓国語の先生になったばかりのジヌ先生がいた。 「来ちゃいました。まだ時間大丈夫ですよね? なにか頼んでもいいですか?」 「はい」 「じゃあ春の香りをお願いします」 「はい」  前回会ったときに春の香りについて話したから、それを覚えていたんだろう。俺は失敗のないように春の香りを作る。その間にイジュンが会計を済ませている声がする。手早く、でも丁寧に春の香りを作っていく。そして出来上がるといつもイジュンに渡していたけど、今日は他にお客さんもう来ないだろうし、これから韓国語を習う先生だからと自分で直接ジヌ先生に渡した、   「春の香りです」 「ありがとう。美味しそうだな。あぁ、こっちはイートインスペースになってるんですね。じゃあ、少し座らせて貰います」  そう言って先生はイートインスペースに入っていく。イジュンはその姿をキツい目で見送る。イジュン、怒ってる? え? なんで? なにか怒らすようなことあったっけ? そう考えるけど、特に思い当たらない。なんだろう。  そんなことをしていると時計はあと5分で21時になる。ゆっくり帰り支度をしてもそろそろ良い時間かもしれない。先生は来たけど、もう他のお客さんが来ることはまずない。いつも大体、このくらいの時間からはお客さんが来ることはほぼない。そう思ったのか、イジュンはレジを閉めている。 「あれ、誰?」  レジを閉めながらイジュンが小さな声で言う。まだ先生はイートインスペースにいるから大きな声では話せない。 「韓国語の先生だよ。この間、語学カフェ行ったの話したよな?」 「ああ、あの人がそうなのか。いい人そうだね」  口ではそう言っているけれど、声はそうは言ってない。下を向いているからどんな表情をしているのかわからないけど、声からすると温和とは言えない声だ。ほんとになにかあったのだろうか。 「なにかあった?」  さっきからイジュンの様子がおかしいから、俺は直接そう訊いた。考えてもわからないものは訊くしかない。俺が訊くとイジュンはほんの一瞬俺の顔をみたけれど、すぐにまた下を向いた。 「別に」 「でも、言っていることと表情がちぐはぐだぞ」 「……そんなことないよ。優しそうな先生だな、と思っただけ」  優しそうと思った人を睨みつけたり、そんな剣呑な話し方はしない。もう言う気がないなら仕方ないかな、と思ったら、小さな声でぽそりと言った。 「なんかあったら言って」 「え? なんかって?」 「……いい。忘れて」  なんかあったらってなんだろう? せっかくイジュンが言った言葉だけど俺は意味がわからなかった。なんかあったらってなにがあるんだろう。わからなくて聞き返したら、いいって言われちゃったし。んー。これはこれ以上話しても無駄っていうことだろうな。  そんなことを話していると時計の針は21時をさした。今日の仕事は終わりだ。レジを閉め終わったイジュンは注文の窓を閉め、カーテンも閉める。俺も厨房を片付けるけれど、生クリームが少し余ってる。廃棄になっちゃうし、イジュンは食べるだろうか。 「イジュン。生クリームあるから、なにか作るぞ」  甘いものでも食べたら、少しは気分も変わるだろう。 「バナナも残ってるし、バナナクリームを作って」 「了解」  俺がイジュンのために生地を焼いていると、ジヌ先生の声が聞こえてきた。 「ご馳走さまでした。美味しかった。また来ます。アスミさん、では明日カフェで」  生地を焼いているから上を向けないので、俺は声だけで返事をした。 「ありがとうございました。明日、よろしくお願いします」 「はい。お休みなさい」 「お休みなさい」  声はイートインスペースを抜け、外へ行ったようだった。帰ったな、と思ったらイジュンは大きなため息をついた。俺は生地を焼き終わったので顔をあげる。イジュンの表情はいつも通りに戻っていた。ジヌ先生が来てからおかしくなった。としたらジヌ先生になにかあった? でも、特に思い当たるふしはないけれど。ジヌ先生になにかを思ったのだろうけど、いい人そうって言ってたから気にすることはないんだろう。考えてもわからないし、イジュンも言う気はないみたいなので俺は考えることを放棄した。  生地に生クリームを絞り、バナナを乗せてくるりと巻けばバナナクリームのできあがりだ。 「お待たせ」 「ありがと。明日海が焼いてくれるクレープ好きだよ」 「ありがとう。あ、生クリーム少し多めだぞ」 「やった」  そう言ってクレープを食べるイジュンは完全にいつも通りのイジュンだった。

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