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静かな波紋3

 キンパの最後の一切れを口に運んだら、なんだかホッとした。このキンパは夕食だ。家に帰ってからだと時間も遅くなるし、作るのも面倒くさい。だからイジュンとこうやって交代で夕食を食べている。お店はまだ人気があまりない。夕食頃の時間になると客足はグンと落ちる。店を閉める頃も客足は少ない。この近くは食事を出来る店は比較的少なくて、隣の新村の方が店が多いため梨大の生徒も新村に流れることが多い。今日もそんな夜だ。 「先にありがとう。ごちそうさま。食べて来いよ」 「うん。そうさせて貰う。今日はなんだかお腹が空いてるんだ」  何気ないイジュンとのやり取り。毎日繰り返している、なんでもない時間。だけど、今日はなんだか胸がざわついている。ソヨンさんのことが頭から離れない。「あなたのクレープ好きよ」あの言葉とあの笑顔。今まで見たことのない表情だった。 「明日海? どうした? 体調悪い?」  イジュンがすれ違いざまに俺の顔を覗き込んで言う。 「あ、いや。……なんでもない」 「そう? 疲れてるのかな? 今日は家帰ったら勉強やめて寝た方がいいかもね」 「大丈夫だよ。お客さんいないなぁと思ってただけだから」 「ああ、この時間はね。夕食をクレープにする人はいないから。食事になるクレープでもやれば話しは別だけど。ま、そんなのは置いておいて。できるだけ早く食べるようにするよ」 「俺なら大丈夫だからゆっくり食べろよ。消化に悪いぞ」 「ほんとに大丈夫? そしたら、やばいと思ったら声かけて」 「大丈夫だって。心配性だなぁ」 「心配もするよ。無理は禁物だからね」 「わかったよ。やばいと思ったら声かけるから」 「うん。そうしてね」  俺の心配を散々したイジュンはなんとか理解してイートインスペースへと行った。  カウンターの中はクレープの甘い匂いが充満している。それもそうだろう。毎日毎日ここで甘いクレープを作っているのだから。  ここにいるとなにも考える必要はない。ただクレープを焼いていく、それだけだ。鉄板の温度を確認すると、ちょうどいいみたいだ。そう思っていると、こんばんは、と声がする。  鉄板から頭を上げると、ジヌ先生がいた。 「あ、……いらっしゃいませ」  ほんの一瞬間が空いてしまって慌てるけど、ジヌ先生は気にしている様子はない。それに気づいてホッとする。   「今日はもうレッスン終わったから寄ったんだ。春の香り貰えるかな」 「はい」  鉄板に液を流し込んで生地を焼く。もう毎日焼いているから特に気負う必要はない。ただイジュンには火傷にだけは気をつけてくれと言われているけれど。イジュンは俺のことになると心配性になる。さっきのやり取りもそのためだ。クレープを焼きながらイジュンのことを考えていると、ジヌ先生に話しかけられる。 「この時間はお客さん少ないんだね」 「ああ。夕食の時間だからクレープを食べる人は少ないから」 「そっか。確かにそんな時間だね。じゃあゆっくり話しができる」 「え?」  話ができると言われて驚いた。なにかあっただろうか。でも、ジヌ先生との会話と言えば韓国語のことしかない。レッスン内容を変えるとか? まさか先生をやめるとか? そう慌てて考えていると先生は「違うよ」と苦笑いで否定する。俺の考えたことはすっかり気付かれていたようだ。 「韓国語で普通に話ができるでしょう? レッスンじゃなくフリーのトークだとどうなのかな、と思って」  あ、そうか。普段はレッスン以外で話すことは少ない。一応、カフェから途中まで一緒に帰るけど、それほど会話をするわけでもない。 「ほんとに上手くなったよね。最初はもっとぎこちなかったのに。今はスムーズになってる」  そう言われて少し恥ずかしくなってしまって視線を落とす。 「毎日家で練習してるし、店ではいやでも毎日喋ってるし」  そう言いながらクレープを包みで巻く。 「お待たしました」 「クレープも慣れてるよね。日本でもやってたの?」 「いいえ。韓国に来て初めてです」 「そっか。韓国語もクレープもどちらも頑張ったんだね」 「仕事ですから」 「あ、カードで」 「はい」  先生はいつも支払いはカードだ。というより店のお客さんの半数程度はカード決済だ。次に多いのがT-money。日本でいうsuicaだ。現金はそこそこ。大学生が多いから他のお店よりカード率は低いと思う。 「お店で使う韓国語は慣れたんですけど、普通の韓国語はさっぱりでした」 「普通の韓国語?」 「はい。先日メディアが入ったんですけど、そのとき韓国語がほとんど理解できなくて」 「早口だったのかな?」 「少なくとも俺にはそう聞こえました。それに声のトーンが低かったから」 「そっか。確かにそういう韓国語には慣れてないね」 「はい。でも、これから韓国で住んでいくことを考えたら、そういう韓国語もわかるようにならなきゃな、と思って」  第一のステップはお店でオーダーを取れる程度で、イジュンに想いを伝えられる程度。この2つはクリアできたと思うから、その次のステップに進まなきゃいけない。 「そうだね。そうしたら、オーダーのロールプレイングはそろそろ終わりにして次に進もう。少し考えてみるよ」 「はい。お願いします」 「イートインスペース、いい?」 「もちろんです。ゆっくり召し上がってください」 「うん。綺麗な韓国語だ。あ、ごめん。じゃ、頑張って」  そう言うとジヌ先生はイートインスペースへと行った。そうだ。イートインスペースにはまだイジュンがいるはずだ。イジュンとジヌ先生ってそう言えば会ったことあったけ? と思ってちらりとイートインスペースに目をやると、イジュンが怖い目でこちらを見ていた。いや、ジヌ先生を、だろうか。イジュンのこんな怖い顔、初めて見たような気がする。そう思って視線を逸らした。

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