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静かな波紋4
夕飯代わりのキンパをゆっくり食べる。キンパと言えば、いつだったか明日海が作って持ってきてくれたときがある。いつもは持ってこないのに、その日は朝早くに目が覚めてしまったからと言っていた。今日買ってきたこのキンパもチェーン店ではなく、美味しいと評判の店のキンパだ。実際、キンパは美味しいけど、そのとき明日海が持ってきてくれたキンパには遠く及ばない。確かキンパの具材にはツナが使われていた。明日海が「ツナ好きなんだ」と言っていたのを覚えている。このキンパよりも美味しく感じたのはきっと明日海が作ってくれたからだと思う。いや、それを割り引いても美味しいんだと思うけど。そんなことを考えていると、明日海の声が聞こえた。
「あ……いらっしゃいませ」
声のトーンに知っている人だろうと思いカウンターに目をやる。そこにいたのは明日海の韓国語の先生のジヌ先生だ。
「今日はもうレッスン終わったから寄ったんだ。春の香り貰えるかな」
カウンター越しに明日海が「はい」と答えるその声が、心なしか柔らかく感じた。気のせいだとわかっているのに、そう思わない自分がいる。いや、実際に柔らかい声なのかもしれない。それはあの先生だからではなく、知り合いだからだろう。そうに違いない。
それにしてもこの先生はよく店に来る。甘党なのはあるんだろう。でも、それだけでこんなにちょくちょく店にくるだろうか。お客さんのほとんどは女性で、男性1人で来るのはこの先生ぐらいだ。確かに自分が教えている生徒がやっているお店だからと言ってこんなに来るとは思えない。
俺がそんなことを考えている間にも明日海はいつも通り丁寧にクレープを焼いていき、苺をトッピングし、チョコレートソースをかけ、春の香りを作っている。このメニューは店の看板メニューではあるけど、苺がたっぷりで美味しいと言っていたのはミンジョンヌナだったか。
明日海がクレープを作る手が慣れているのと同時に、韓国語での会話もかなり慣れてきていると気づく。発音だってまだたまに危ういこともあるけれど、かなり良くなってきている。それは徹底的に発音の練習をしているからだろう。もちろん韓国に住んでいるから韓国語の会話にも慣れているんだとしても、韓国にきて数ヶ月でこんなにも上手くなるとは思わなかった。それは毎日勉強しているからだろう。そんな明日海の頑張りには脱帽ものだ。
ジヌ先生は焼き上がったクレープを手に、迷うことなくイートインスペースにやって来た。そして、当たり前のように俺の向かいに座る。そしてにこっと笑うその顔は、無邪気そうでいて、どこか計算されている気がする。
「こんばんは」
「……どうも」
「アスミ、韓国語うまくなりましたよね」
唐突にそう言われて、俺は一瞬反応が遅れた。というより、馴れ馴れしく”アスミ”だなんて呼ぶのが気に入らない。どの生徒にでもそうやって親しげに名前を呼ぶのだろうか。いや、他の生徒のことなんてどうだっていい。ただ、明日海のことを馴れ馴れしく”アスミ”だなんて呼ばないで欲しい。そう思う。
「そうですね」
「だいぶ韓国語で会話できるようになりました。最初はほんとに字が読める程度だったのに。すごい努力家ですよね」
褒めているだけの言葉。それなのに胸がチクリとする。
「……そうですね」
「僕が教えている生徒さんの中でも一番の上達率です。ほんとにすごい」
明日海が努力家なのは知っているし、最近の明日海の韓国語力がびっくりするほどなのは知っているし気づいている。でも、それをこの男と共有したくはない。
短く答えて、キンパをさらに口にする。味がさっきよりもぼやけて感じた。せっかくの夕食なのに。
「俺もたまに教えてますよ」
キンパをなんとか咀嚼して、胃に流し込むと一言そう言った。言う必要なんてなかったかもしれない。それでも、なんだか自分だけの手柄、みたいに言うこの先生が嫌だった。だから、つい出た言葉だった。
そして俺のその言葉を聞いて先生の一瞬目を細める。わずかな変化。だけど、それを見逃しはしなかった。やっぱり。こいつ、明日海のこと好きなんだな。確信に近いものが胸の中に落ちる。別に驚きはしない。明日海はとんでもなく綺麗だし、性格だっていいし、努力家だ。好きになる要素なんてたくさんある。でも、だからといって譲る気はさらさらないけど。
視線の先で新しいお客さんに次のクレープを焼いているところだった。真剣な顔。でも、口元は少し緩んでいる。きっとこの先生と話したからだ。そう思うとほんとに面白くない。
あれは俺のだ。いや”俺のものにしたい”じゃない。”もう手放すつもりはない”だ。それに近い。この先生にも、他の誰かにも。誰がなんと言おうと俺だけのものだ。
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