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第2章 まぶしい『君』
仕事の日でも休みの日でも、毎日同じ時間に起きる。リビングに向かうと、母親が、いつも通り朝食の支度をしていた。いつもの日常。これは嫌ではなかったが、京極 久紫 は、虚しさも同時に感じていた。
多分、母親を看取ってから、自分の人生が始まる、と思っていた。たった一人の肉親である。母親を一人にしておく事は、京極には出来なかった。
京極の家庭環境は複雑である。父親の存在を知らない。居ないのが当たり前だったので、京極は寂しいとか会いたいとか、思ったことはなかった。
ただ、苦労している母親を見ていたから、もしも父親が居たのならば、母はもっと好きな事をしたり出来たりしただろうな、と感じていた。
そんな京極にも、一度だけ一人暮らしをしたことがあった。大学生だった時、どうしても一人暮らしを経験してみたくて、アパートを借りた。それに母親は反対しなかった。
でも就職を機に、母の元に戻った。そういう約束をしていたわけではないが、何となく、また一緒に暮らしだした。京極が金銭面で生活を守るようになっても、母親は体がなまるから、とパートを辞めなかった。京極が今の役職に昇進して、やっと辞めた。
「今日も遅くなると思うから、先に寝てて。何かあったら遠慮しないで連絡して」
朝食を食べ終えた京極は、姿見でもう一度身なりを整えながら母親に言った。
「はいはい、いってらっしゃい」
◇◆◇◆
別に出世したかったわけではなかったのだが、京極は比較的若くして大手大企業の常務取締役になっていた。たまたま現社長が学生時代の先輩だった事も、一つの要因だったのかもしれない。現社長が後を継ぐ時、さんざん悩みを聞いてやった、という事もある。
『真面目過ぎる』
京極がよく言われる言葉である。
本人としては、真面目と言うか、表情や感情を出さないようにしているだけなのだが……
出社して一通り今週のスケジュールの確認を済ませると、京極は一階のラウンジにあるコーヒーショップに向かった。自分の個室にもコーヒーサーバーはあるのだが、味気なく感じてしまうので、わざわざ一階まで降りるのだった。
『新しい顔だな』
京極は一人の青年を見て、そう思った。
愛想もよく、すぐに京極の好みを覚えて、たまにカスタマイズもしてくれる好青年だった。
『大学生かな……』
コーヒーを飲みながら、京極の表情が曇った。京極にとって、大学生生活は色んな経験をすることができた良い思い出もあり、そして二度と思い出したくない出来事もあった……
たまに思い出す、大学時代の出来事……京極は、それを思い出すたびに、自分に出来た事はもっとあったかもしれないと思ったり、あれ以上どうする事も出来なかったと思ったりと、自問自答しては一生出ないであろう答えを探していた。
「京極さん、こんにちは」
突然声を掛けられて、京極は我に戻った。声の方に目をやると、例の青年である。
「あぁ、こんにちは」と、京極は会釈しながら言った。
「お疲れですか?」
そう青年が言いながら近づいてきた。
「私は……月曜から疲れた顔をしてるかい?」
京極は苦笑いしながら、青年に言った。
「働き過ぎじゃないですか?」
青年はそう言いながら、京極に紙のコーヒーカップを渡す。
「おかわり頼んでないけど……」
「僕の奢りです。月曜から眉間に皺寄せてちゃだめですよ」
そう言うと青年は笑顔でカウンターへ戻って行った。
本当に懐に入ってくるのが上手いな、と京極は感じていた。悪い気はしない。でも、あんなにまぶしい笑顔を向けられると鼓動が高鳴る感じがして、堪らなくなった。
『いい年して、何考えてんだ俺は……』
◇◆◇◆
やっと金曜日――
京極は、今週も無事に終わったことに安堵していた。こんな思いをしながら仕事をしているんだから、とことん役付きに向いてないな、と軽くため息をついた。
窓から街を見下ろす。吸い込まれていく感覚が、あまり好きではなかった。高所恐怖症ではないのだが、この感覚は苦手である。
窓から離れてデスクに戻ると内線電話が鳴った。一呼吸置いて受話器を取る。
「はい」
「常務、こんな時間にコーヒーをご注文されましたか?」と秘書が言う。
何のことやら、と京極は思った。
「一階のコーヒーショップの方がお見えで、ご注文の品物をお渡しに、と……」と、秘書が言った。
「頼んでないぞ……」
そう呟きながら、京極は帰り支度をして受付に向かった。
「開けても、よろしいでしょうか?」と秘書が言う。
防犯上、この階には部外者は入れてはいけないことになっているのだ。
「私が出る。もう定時は過ぎているんだから、君はもう帰りなさい」と京極は秘書に言うと、防犯カメラを見た。
例の青年が、コーヒーショップの紙袋片手に立っていた。京極はロックを解除すると、廊下に出た。
「君か……」
「お疲れ様です、京極さん」と、青年はいつものまぶしい笑顔で言ってきた。そして、
「ご注文のコーヒーなんですけど、全然取りに来てくれないので、持って来ちゃいました」と言った。
京極は、本当に何のことやらと、
「……私は注文してないんだけどなぁ」と、答えるしかなかった。
そう言われて青年は驚いて、
「マジですか?でも、ご注文の電話があって、京極さんが取りに来るって……てっきり……」
京極はたまに電話で注文して、気分転換にコーヒーを飲みに行っていたのだが、今日はそんな電話はしていなかった。
「行き違いがあったと店長に伝えておきます。お忙しいところ、失礼しました」
青年はそう言うと、一礼してエレベーターホールへ向かおうとした。
「待て」
京極は思わず呼び止めてしまった。時計を見れば、この青年が時間外にも関わらず、わざわざ届けに来たのが分かる。
「私も帰るところだから、一緒に下へ降りよう」
京極にそう言われて、青年は飛び切りの笑顔で、
「はい」と答えた。
◇◆◇◆
エレベーターで二人きり、京極は青年の後ろ姿を見つめていた。会社にも似た雰囲気の若者は居るが……上司と部下の関係になると、彼のように気軽に声を掛けてはくれない。だからなのだろうか。京極は、この青年にとても好印象を持っていた。人事の仕事もこなしていることもあって、人を見る目はそれなりにあると思っている。この青年は、いい男だな、と感じていた。
一階に着くと、
「お騒がせしました」と、青年は改めて言ってきた。
「支払いは……」と、京極が慌てて言う。
「頂くわけにはいきませんから」
「ダメだよ」
京極は財布を取りだした。
「京極さん、今週もお疲れ様ってことで、僕の奢りです」と、青年はまぶしい笑顔で言った。
久紫は、小さくため息をついた。
「君ね……」と、京極は青年に無理やり千円札を渡した。
すると、
「京極さん、もう帰られるんですよね?少し寄っていきませんか?三十分くらいでクローズ作業終わるんで。それまでに、飲み終わるでしょ、これ」と、青年は紙袋からコーヒーカップを取り出して、京極に渡した。
京極は突然の事で、たじろいでいたが、
「ここどうぞ」と、勧められた席に座った。
青年は、てきぱきと店仕舞いを始めた。そんな姿が京極には、またまぶしく見えたし、調子が狂うな、とも思っていた。
意識しだしたのは、いつからだろうか……この青年が、いつからこのコーヒーショップで働きだしたかは、流石に定かではなかった。でも、気付いたら『今日もいるだろうか』と探していた。そんな自分に辟易していた。
『年甲斐もなく、俺は何を考えてるんだ……』
京極は、自分の気持ちに素直になれないでいた。
◇◆◇◆
京極の初恋の相手は、中学三年生の時の男性の担任教師だった。
家計の都合上、塾には通えなかったから、放課後教室で一人、受験勉強をしていたら、その担任がそれに付き合ってくれるようになった。単に自分の事を不憫に思ってくれたんだろうし、その教師の責任感と優しさだったのだろうが、京極はそれに惹かれてしまった。担任とどうこうという関係になった訳ではなかったが、放課後のその時間が今までの人生で一番きらきらと輝いていた。
恋人はいた事はなかったが、体の関係は何人か経験済みではあった。
でも、虚しくなるだけで、愛のないセックスは自分に向いていないと感じてから、一夜限りの相手を探すのは止めた。だからといって、人を好きになる努力もしていない。
本当に自分は厄介な人間だ、と京極は自己嫌悪に陥っていた。
◇◆◇◆
「京極さん?」
声を掛けられ、京極はハッとして顔を上げた。
「もしかして、具合悪いですか?」と、心配そうに、例の青年が京極の顔を覗き込んでいた。
スッと身を引いて、
「……ちょっと……考え事をしてただけだよ」と、京極はつまらない言い訳をした。
「クローズ作業終わったんで、僕も帰ろうかと……」
「そ、そうか……そうだよな……お疲れ」と、京極は立ち上がって、いつの間にか空になっていた、紙のコーヒーカップを渡した。
一緒にビルを二人で出る。京極は思い切って、
「君の名は?」と、青年に聞いてみた。
「あれ?そういえば、僕の名前教えてなかったですね。毎日のように会ってるのに」と、青年はいつものまぶしい笑顔で言った。そして、
「桐生眞陽 です。眞陽、って呼んでください」と、より一層まぶしい笑顔で京極に言った。
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