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第7章 互いの『現実』
京極は自宅マンションに戻ると、真っ直ぐ自室へ向かおうとした。すると、
「久紫、今帰ったの?」と、母親が心配そうに呼び止めた。
やはり、と京極は気付かれないように、ため息をついた。
「ごめん、母さん。連絡せずに外泊して」
「干渉する気はないけれど、心配だからね。帰らない時は連絡してね」
母親はそう言うと、キッチンへ戻って行った。
京極親子は互いに依存しているわけではない。ただ、たった二人きりの肉親である。いつもと変わった事が起こると、心配になるのは当然である。
連絡しなかったことに京極は少し後悔したが、昨日の出来事は自分でも予期していなかったため、致し方なかった。
それにしても幸せなひと時であった、と京極は昨夜の余韻に浸っていた。
少し仕事をしようかとパソコンの電源を入れたが、立ち上がっても京極は全く仕事モードになれなかった。ずっと眞陽の事が頭から離れず、もう諦めてベッドに横になった。
スマホを見てみるが、眞陽からの連絡はなかった。自分からメッセージを送ってみるべきだろうか……がっつき過ぎだと思われるだろうか……色んな気持ちが交差して、恋って難しいな、なんて京極は思っていた。でも、今までにない感情に、悪い気は一切していなかった。
自分の立場――それがふと頭をよぎる。大手大企業の常務取締役。極たまに、ビジネス雑誌から取材を受けたりもする。一端に秘書までついている。
この関係が世間に知れたら、キャリアを棒に振るのだろうか?
だが、と京極は思った。出世したくてがむしゃらに仕事をしてきたわけでもない。ましてや出世のために、あくどいことをしてきたわけでもない。
でもやはり世間体は、気にしてしまうものである。眞陽への想いと己の立場とが、ぐらぐらと揺れていた。
「あぁ、もう」と、京極はそんな自分が嫌になった。
だが、心が揺れるのも致し方ない。ずっと恋をしてこなかったのだから。それを避けて来た、と言う方が正しいのかもしれない。自分に自信がなかったという事もある。傷付くのが怖かったという事もある。恋に関しては、ついついマイナスに考えてしまうところが京極にはあった。人を愛しても、それに終わりが来ることが怖かったのだ。すがりついてしまうであろう自分の姿も想像が出来た。だから恋なんてしたくないと、始まってもいない事に勝手に悩んでいた。
でも、自分の心が赴くままに身を委ねてみたら、こんなにも満たされるものなのだと知った。この恋を大切にしたいと京極は思う事にした。
スマホを手に取る。
『昨日は嬉しかった。また二人きりで会いたい。確認するわけじゃないけど、僕は本気だよ。』
京極はそうメッセージを打ち込むと、思い切って送信した。
凄く体中が熱い。『恋』という熱に浮かされてしまうなんて、思いもよらなかった京極であったが、とても幸せだった。
◇◆◇◆
その頃、眞陽は自宅マンションへ帰るために、とぼとぼと歩いていた。ずっとぐるぐると頭の中を駆け巡る葛藤に、気持ちが沈んでいた。
ただ、真実は知りたいという気持ちのブレはなかった。でも、もし京極に真実を知らされたら、自分が壊れてしまうかもしれない、と怖かった。
「なんで好きになっちゃったんだよ……」と、眞陽は呟きながら、自分を責めた。
握りしめていたスマホが震える。画面を見ると、京極からのメッセージだった。彼からのメッセージを読んで、更に複雑な心境になってしまった。
「俺だって……もうマジになってる……」と、眞陽は呟いた。
すると、
「あれ?もしかして桐生?」と、呼び止められた。
眞陽は立ち止まり声の方に顔を向けると、高校時代にやんちゃしていた時の仲間の一人、西塚だった。変な奴に会っちゃったな、と眞陽は黙り込んだ。
「桐生、俺だよ、俺。西塚。忘れた?」と、西塚は馴れ馴れしく、眞陽と肩を組んできた。
止めろと言わんばかりに、眞陽はそれを振りほどいた。
「何だよ……冷てぇじゃねぇか」と、西塚は眞陽を睨んできた。
「疲れてんだよ、俺。それに、今更関係ないだろ」と、眞陽はそのまま無視して行こうとした。
「随分じゃんかよ。偶然見掛けたから、声掛けただけだろうがよ」と、西塚は食って掛かって来た。
そうだコイツは短気な奴だったな、と眞陽は思い出した。
「悪いけど、俺はもうお前に用はねぇ」と、眞陽はあえて突き放すように言った。本当に西塚とは縁を切りたかったからだ。
眞陽の高校時代は少々荒れ気味だった。でも、別に警察の世話になるような事をしたかったわけではなかった。ただ、大人びてみたかっただけだった。家庭もほぼ崩壊しているようなものだったから、余計に大人に早くなりたかったのだ。ただ、浅はかな考えのせいで、つるむ相手を間違え、結局落ちて行ってしまった。
自分の選択ミスに後悔はしていない。自分が愚かだったのは重々承知だった。かと言って真面目に高校時代を過ごしていたとしても、現状はさほど変わらなかっただろう事は分かっていた。
西塚は沸点が低い奴だった。普段は気のいい奴なのだが、少しでも自分の気に障る事があると、大変なことになる。眞陽は一度だけ、西塚が相手が気絶するまで殴り続けたのを目撃したことがあった。何人がかりで止めに入っても、殴り続けた西塚に、眞陽は気味が悪くなり、それから付き合いを止めたのだった。
よりによって、こんな時に、と眞陽は思った。そして走るように自宅マンションへ向かった。チラと振り返ると、もう西塚の姿は見当たらなかった。少しほっとして、マンションのオートロックを解除した。
部屋に入ると眞陽はすぐ京極にメッセージの返信をした。
『俺も嬉しかったよ。俺だって本気だよ。次はデートしよう。』
そう送信すると、西塚の事はとっくに頭からなくなっていた。
京極との立場の差があるのは分かっている。でも、そんなの眞陽にはどうでもいい事だった。それに、一番の目的でもある『姉の死の原因』を京極から話してもらわないといけない。
眞陽は、一旦京極との『恋』は、脇に置いておくことにした。本来の目的とは少し変わってしまったが、兎に角真相を知っているのであれば、全て聞かせてもらわないといけないのだ、そう眞陽は気持ちを切り替えた。
◇◆◇◆
その頃――
「ふぅん……随分いい所に住んでんじゃねぇか」
眞陽のマンションの前で、西塚はそう呟き、何かを思い付いたような顔で、その場を立ち去った。
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