10 / 15

第9章 すれ違う二つの『決意』

 次の日――  京極はいつもは十時頃に出社するのだが、この日は少し早めに出社した。もしも不測の事態が起きた時のために、今日やるべき仕事を早めに片付けておこうと思ったからだ。どこまでも真面目で慎重な男である。 「今日は、お早いですね」と、秘書の花輪が京極にコーヒーを淹れながら挨拶をしてきた。 「そうだ、花輪さん。僕ね、今日は定時で上がりたいんです」と、京極は思い出したように言った。  秘書の花輪は少し驚いた表情をしたが、すぐいつもの柔和な表情に戻り、 「はい、承知しました」と言って自分の席へ戻って行った。  京極は花輪が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、何となく窓の外を見た。綺麗な朝の空だった。 『今日は、眞陽に抱かれるかもしれない』  それが頭をよぎって、慌ててパソコンの画面に向き直った。浮かれ過ぎた、と京極は思っていた。でも、このときめきは止められなかった。少しくらい、浮かれても罰は当たらないだろう、と自分で肯定することにした。  こんな風に考えることも、多分初めてのことだな、京極は思っていた。  京極は時計を見た。時刻は九時半。受話器を取ると、一階のカフェラウンジに掛けた。 「おはようございます、京極様」と、一ノ宮が出た。 「いつものをお願いしたいのですが」 「かしこまりました」 「あの、桐生君は……」と、京極が言い淀むと、 「まだ仕込み中でしてね、少々お待ちいただけましたら、いつものように桐生に届けさせますよ」と、一ノ宮が言った。  京極は自分の気持ちを悟られてるのでは、と思ったが、 「お願いします」と、平静を装って受話器を静かに置いた。  まさか、彼との関係を知っているわけがない、と京極は自分の考えすぎてしまう性格に、一旦自分を落ち着かせることにした。  コーヒーサーバー周りを片付けていた秘書の花輪は、それを横目で見ながら心の中で微笑んでいた。 『常務ったら、今コーヒー飲んでるのに、もうお気に入りさんを呼んじゃってる』  ◇◆◇◆  カフェラウンジにモップ掛けをしながら、何気なく眞陽は外を見回した。もうすぐ九時半になろうとしていたが、西塚の姿はなかった。まぁ、アイツのことだから、この時間帯は起きてはいないだろう、と眞陽は思っていた。  カウンター内に入り、仕込みをしていると電話が鳴った。この時間帯に電話が鳴るのは少々珍しい。一応、カフェラウンジの開店時間は十時である。眞陽は電話に出ようと思ったのだが、 「僕が出ますよ」と、一ノ宮が受話器を取ったので、眞陽はそのままバックヤードに戻り、仕込みを続けた。  最初は京極に近づくための手段ではあったのだが、今はカフェの仕事が楽しくて仕方がなかった。今まで仕事が長続きした試しのない眞陽であったが、今までの仕事が自分には合っていなかっただけなのかもしれない、と少し自分に自信を持てるようになっていた。  そんな遣り甲斐を感じながら仕込みをしている眞陽に、 「……いつものように桐生に届けさせますよ」と、いう一ノ宮の声が耳に入って来た。  眞陽はバックヤードから顔だけを出し、 「どうしたんですか?」と、一ノ宮に声を掛けた。 「あぁ、桐生君のご指名が入ったんだよ」と、一ノ宮は答えた。  眞陽は、よく分からないと言った顔で、バックヤードに顔を引っ込めようとした時、 「京極様から、ご指名でーす」と、一ノ宮が呑気な調子で言った。  客は誰も居ないので人目を気にすることはないのだが、眞陽は少し恥ずかしくなってしまった。だがすぐに今日のカスタマイズはどうしようかな、と考えていた。  金曜日ということもあり、いつもより混雑はしていなかった。誰もが知る大手企業というだけあって、有給取得者が多いのか、月曜日と金曜日は少し暇なのである。  ガランとしたフロアの空間を何となく見ながら、眞陽は今夜、京極にどう切り出そうかと考えていた。簡単ではない、ということは分かっていた。もしかしたら、京極の凶悪な一面を目の当たりにしてしまうかもしれない。そう思うと、また複雑な心境に陥っていた。  京極を追い詰めたい自分と、京極を愛したい自分がせめぎ合っている感覚である。  きっと彼は今夜をとても楽しみにしているはず、と眞陽は思った。多分、泊まっていくつもりなのだろうな、とも。  はっきり言葉にはしていないが、京極が恋人以上の関係になりたいと思っていることは分かっていた。だから尚更、眞陽は気持ちが沈んでいってしまうのであった。  ふっと我に返ると周りがざわざわし始めていた。時計を見ると十八時を過ぎていた。退社する人波が押し寄せてくる時間帯だ。眞陽はクローズ作業を始めようと立ち上がった。自然と窓の方へ体が向いたので、そのまま外を見ると、反対車線の歩道に立つ西塚と目が合った。眞陽の体が固まる。西塚は不敵な笑みを浮かべて、立ち去って行った。  眞陽は震えるような溜息をもらした。どうにも西塚の意図が分からなかったからだ。どうせ碌なことじゃないのは容易に感じてはいたのだが。何を今更自分に関わろうとしているのだろうか……と。  でも眞陽は、それどころではなかった。今夜は京極に全てを話してもらうのだ、という決意は固かった。たとえそのせいで、色んな意味を含めて、自分がショックを受けたとしても。  ◇◆◇◆ 「どうかされましたか?」と、秘書の花輪が京極に声を掛けた。  そう声を掛けられて、ふっと我に返る京極であった。 「どう、とは?」 「ソワソワされているので」と花輪は微笑みながら言った。  少し硬い表情に戻した京極は、 「ソワソワなんて……そんな……」と、花輪から視線を逸らした。朝からソワソワしっぱなしである、と内心思っていたのだが。  定時五分前に帰り支度を始めた京極は、ネクタイを外しカバンに仕舞った。 「常務、デートですか?」と、花輪がパッと明るい表情になって言った。  京極はみるみる顔が火照っていくのが分かって、慌てて立ち上がり顔を見られない様に窓辺に立って花輪に背を向け、 「デ、デートって……そ、そんな……そんなんじゃない。知り合いと食事だ」と、言った。 「まさか、その格好で行かれるのですか?」と、花輪は引かない。  京極も、この格好ではダメなのか?と、心配になって来た。 「まぁ、お洒落なレストランでのお食事でしたらスーツでもいいですけれど……ネクタイを外されたということは、もっとプライベート空間ですよね。着替えはお持ちにならなかったのですか?」  流石女子力の高い花輪である。痛い所を突かれた京極であった。 「やっぱりダメかな?」と、京極は振り返った。 「はい、ダメですね」と、花輪ははっきり言った。

ともだちにシェアしよう!