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第29話
飛び回るハエは、ドロドロに変色した肉に産卵する。足元に広がったシミは古い建物のせいか床板の隙間を伝って下の階の天井まで広がった。
体格の良い男が体当たりしたなら簡単に開きそうな扉から漂う強烈な刺激臭は何度か嗅いだことがある。ヒラキはハンカチを取り出して鼻と口を覆いながら施錠していない扉を開けた。
濃くなった臭いだけでは無い、扉を開け放つと無数のハエが出迎えるのだ。
「おい!ウィリアム!!外にまで凄い匂いが……」
タバコを咥えて一服、壁に寄りかかる男はこちらを捉えると「おかえり」と笑った。
その足元に広がる汁は、血なのか、体液なのか分からないが粘土があり、彼が歩くとねっとりと絡みついている。
奥に転がる死体は原型を辛うじて留めているだけで、どこの誰、とまでは判別できない。恐らくは女性だろうか。
胃から上ってくる。熱く、苦く、酸っぱいものが。ぎゅ、ぎゅ、胃袋が絞られ我慢出来ずに部屋の隅で吐き出した。
「お前、…それ、誰なんだ?…また襲われたのか?ゔぅ…気持ち悪い……」
ヒラキは苦しそうにハンカチで口元を覆いながらそう問う。出来るだけその死体を見ないようにすればするほど見てしまうのが人間だ。
「おや、見たまえよ。綺麗なネックレスをしているようだ」
男がブチッと死体からちぎり取ったそれをヒラキの目の前にぶら下げて見せる。シルバーのチェーン、小さなダイヤモンド、決して高価とは言えないそれはヒラキが少し前プレゼントしたものだ。
『愛する彼女』に。
「あ…あああ…まさかお前…」
「ああ。そのまさかだ。可哀想に、隠れて愛を育めば大丈夫、だと思ったんだろう。お前のその浅はかさが一人の女性の命を枯らしたんだ」
その場で腰を抜かしたヒラキに、優しい声で男は慰める。触れた手は暖かいのに、同じ血が流れていることが信じられない。
「お前はどうして間違える?…今までに同じことが何回も何回も何回もあっただろうに。」
美しい顔は傷付いたように瞳を涙で潤ませ、ヒラキを責めた。確かに今までも似たような事があった。何度も何度もヒラキが相手を好きになってしまったから起きた悲劇だ。
仕方がない、俺が人を好きになってしまったのだから。離れろ?…それが出来たら苦労は無い。俺には結局あいつしかいないんだから。
そう思って生きていたが、"彼女"と出会ってほんの少しだけ希望を持てるようになった。前向きに、明るい未来があるのだと思えるようになった。それがどうだろう、彼女は男の手によって殺された。
またドロドロの闇に後戻りだ。
「…泣かないでくれ。私はお前を悲しませたくない。」
男は本気でそう思っている。ヒラキが誰かを好きにならなければ、いつも穏やかで優しく、安心出来る存在には違いない。
「俺が…俺が悪い…、俺が…」
人を好きにならなければ。
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