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第35話
どうして彼女は泣いているのだろう。幼いノエルから隠れるように、いつも笑顔の彼女を悲しませる原因を知っている。
「もうここには来ない」
冷たく低い声が彼女にそう言うのだ。ノエルはその様子をこっそり扉の向こうから覗いていた。
その細い体を震わせながら、「どうして?」と問う彼女に、男は「マリアが男の子を産んだ」と簡単に言ってのける。
それから男は来なくなった。ノエルにとってそれは良い事だった。彼女は悲しまないし、『出来損ない』と罵られることも無い。暫くはその幸せな日々が続いた。
お金は雀の涙ほどしか無かったが。
学校での日々はあまり良いものではなかったが。
荒屋に帰れば彼女が待っている。
体調の良い日は少し調律の狂ったピアノを弾いてくれる。それだけでノエルは幸せだった。
病弱な彼女が亡くなるまで、確かに。
『全く、何故うちで面倒を見なければならないんだ』
『そう言わないであげて。可哀想よ。』
藍色の瞳はそう言ってノエルを見下した。なんて冷たい瞳だろう、…ノエルは同じ色の自分の瞳が嫌いになった。
衣食住は不自由はない。あるのは心の不自由だけだ。
『私はマリア、今日からあなたのお母さんよ。…よろしくね。あなたの弟と妹も後で紹介するね』
新しい母親は優しい人だった。妾の子供であるノエルを毛嫌う事もなく、むしろ気を使ってくれていた。ノエルが習いたいと言ったピアノも彼女は『いいじゃない』と勧めてくれた。毎日遅くまで練習してコンクールで賞取る、そうしたら背中を押してくれた彼女に恩返し出来るような気がしていたから。
『―最近ピアノ教室に遅くまでいるから、顔を合わせなくて済むわ。不気味なのよ、無表情だし…』
きっと彼女も日々の鬱憤が溜まっていたのだろう。血の繋がりのない子供を育てるという事は大きなストレスになる。たまたまノエルが彼女の零した愚痴を聞いてしまっただけ。
だが、未熟な精神にそこまでの寛容さなんてありはしない。
『父さん、またティアナが僕のサッカーボールを取ったんだ』
『取ってないよ!借りただけ!』
『ははは、イアン、お前はティアナの兄なんだから貸してあげなさい。ティアナ、兄に敬意を払いなさい』
『えー、けいいってなに』
『もう、二人とも食事中は静かにね』
味のしない食べ物は、生きるために栄養補給しているだけだ。美味しくも不味くもない、ただそれを口に運ぶ自分が人間なのかどうかも分からない。食え、と言われたから食べているだけのロボット。家族が欲しくて欲しくて堪らない、哀れなロボットなのだ。
過去の記憶がグルグルと弧を描いて一点の闇に集結する。そこに残されたたった一人の男は、寒さに体を抱き締めた。
俺は…どうして生まれた。
何故、たった一人で凍えている。
闇の中で動く事も出来ず。
どうして俺は生きている。
「ノエル」
子守唄を歌うように優しく彼は名前を呼んだ。低く落ち着いた声を聞いた途端、不思議と体の震えが止まる。
心が満たされ、何も必要が無くなるのだ。あの男以外。
ノエルは彼の体が欲しかった。だがそれ以上に心が、意識の全てが自分のものになって欲しいのだと。
(俺は…あの男の愛が欲しい)
「ノエル」
声のする方へ、誘われるように一歩踏み出す。
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